魔物
一日のうちで、夜明け前が、一番、暗い。
そして、太陽の恵みをすっかり忘れてしまった時間は、凍えるほどに寒い。
しんと静まり、手足の先さえ見えぬ森の暗がりを、歩いてくるものがいる。
華奢な体躯、しなやかな四肢には、未だ育ちきっておらぬ若者の、秘められた瞬発力が感じられる。
この暗がりの中、疲れを知らぬ歩みで、的確に、落ち葉の降り積もったけもの道を、踏み分けていく。
突然、少年は立ち止まった。
激しい空気のゆがみが、熱い蒸気をたてて襲ってきたのと、腰を落とした彼が、素早く横に飛んだのは、ほぼ、同時だった。
森の静寂を破って、湿った音がした。
音のした方を振り返ると、それまで彼が立っていた場所の落ち葉は、しゅーっという音をたてて、蒸発していた。
息つく暇もなく、第二陣、三陣が襲撃する。
とてつもなく穢れたモノが、不意に空中から落ちてきた。
少年は、素早く前に飛び、後ろによけた。
尋常ならざる瞬発力である。
彼の前後で、分厚く敷かれた枯葉が、激しく蒸気をあげる。
眼前の藪が、揺れていた。
……来る!
少年は、杖を構え、小声で呪を唱えた。
厳しい山岳修行を積んだ者にしか許されない、究極の呪文である。
藪の揺れが、激しくなった。
少年は、呪を唱え続けた。
激しい湿気が、熱く吹き寄せてきた。
凄まじい異臭が、鼻を突く。
少年の唇が激しく動き、言葉にならぬ呪を繰り出す。
生ぬるい空気が切り裂かれ、澄んだ冷たい風が、どっと吹き寄せた。
苦しげな叫び声がした。
藪がうごめき、中から、巨大化したイボガエル……としか見えない……が出てきた。
黄色く濁った眼に憎しみを湛え、ぐい、と、少年をにらみつける。
負けず、少年は、杖を突き出した。
魔物は、顔を歪めたかと思うと、ねばっこい液体を吐き出した。凄まじいにおいを発するそれは、自在に形を変え、少年をとらえようとする。
一瞬早く宙を飛んだ少年は、渾身の力を込めて、杖の先を、魔物の脳天に打ち下ろした。
杖は、魔物の脳深くめりこみ、全身をぬめらせた妖怪は、凄まじい悲鳴をあげた。
一瞬、静止した後、ゆっくりとその場に倒れこんだ。
四方にまき散らされた、ゲル状の液体を踏まないように注意しつつ、少年は、倒れた魔物に近づいた。
液体を散らしすぎたせいか、その体は一回りも縮んで見えた。
「とどめをさせ、サンジュ」
背後から、低い掠れた声が聞こえて、サンジュと呼ばれた少年は、ぎくりと肩を震わせた。
足音もなく近づいてきたのは、枯れ木のような体に、異様な生気をみなぎらせた老人だった。
「殺すのじゃ」
「……できない」
「また、あまっちょろいことを。殺さねば、後を追って、こやつの一族郎党が、うじゃうじゃと、結界を超えてきよるぞ。元を絶たねば、魔族は退治したことにはならん」
「……できない。生き物の命を絶つなどということ……」
「馬鹿が……。サンジュ!」
老人が叫び、サンジュの体を、ぐいと押しのけた。
勢いで、サンジュはよろけ、枯葉の上に、顔面から倒れ伏した。
熱波が、早朝の森の、木々をなぎ倒した。
地震とみまごうごとき、激しい揺れに、起き上がることもかなわない。
魔物の、勝ち誇ったような咆哮が、森の隅々にまで、とどろいた。
揺れに転がり、ようやく起き上がったサンジュは、魔物の真下に組み敷かれている老人の姿に気がついた。
「老師!」
「こいつを殺せ。早く!」
「でも……」
魔物の口の端から、濃い緑色の、液体が零れ落ちた。
悪臭を放つそれは、すんでのところで、老人の顔をそれ、枯草を焦がした。
「サンジュ!」
ぼたっ。
次の滴が滴った。
老人の白い髪が、濃い緑に染まり、ちりちりに焼け焦げた。
タンパク質が焦げる、いやなにおいが、生臭い悪臭に混じる。
「なにをしている! サンジュ!」
無我夢中だった。
サンジュは、持っていた杖を、横に突き出した。
凄まじい悲鳴が、木々を震わせ、思わず、目を閉じた。