三ヶ月バイトで買ったギター、彼は親友にラブソングを弾いた。
青凪総合大学の新入生オリエンテーション合宿で、レクリエーションの罰ゲームが私に当たった。歌うよう言われて困っていると、恋人の神谷颯真がすぐ横から口を挟んだ。
「音羽、ほんと歌が苦手だから勘弁してやってよ。その代わり、売店でみんなの飲み物買ってきてもらえば?」
颯真とは高校時代から三年間付き合っている。ただ、そのことは周囲にずっと隠してきた。合宿のあとにある新歓ライブで、私が贈ったギターを使って『君のとなり』を歌い、みんなの前で交際を明かす――それが、颯真との約束だった。
ところが、飲み物を抱えて戻った私の目に飛び込んできたのは、そのギターを弾いている颯真だった。
歌を向けられていたのは、親友の佐伯美月だった。
周りが面白がって囃し立てる中、美月は頬を赤くして颯真を見る。
「わざわざ音羽を売店に行かせて大丈夫? 戻ってきたら怒らない?」
颯真は弦を軽く鳴らして笑った。
「大丈夫。音羽なら、ちょっとかまっとけば機嫌直るって。今日は美月の誕生日なんだし」
私は人の輪の外で足を止めた。
冷たいペットボトルの入った袋が、じわじわと指に食い込んでいた。
1
そのまま近づいていくと、最初に私を見つけたのは美月だった。何もなかったような顔で駆け寄り、手にしていた袋へ手を伸ばしてくる。
「音羽、おかえり。ちょうど今、音羽の話してたんだよ」
颯真の手が一瞬だけギターの上で止まった。けれどすぐに立ち上がり、私から袋を受け取る。
「飲み物、みんな好きなの取って。音羽がわざわざ買ってきてくれたんだから」
何人かが集まってきた。そのうちの一人が炭酸飲料を開けながら、颯真の肩を軽く小突く。
「神谷、さっきの歌めちゃくちゃ気合い入ってたな。知らないやつが見たら、佐伯に告白してると思うぞ」
美月は一気に顔を赤くし、その学生の腕を軽く叩いた。それから私の腕に絡みつき、困ったように笑う。
「音羽、真に受けないでね。今日が私の誕生日だからって、颯真が一曲歌ってくれただけなの。みんなが勝手に盛り上がるから、こっちが恥ずかしくなっちゃって」
「そうそう。美月は音羽の友達だし、誕生日くらい祝ってやろうと思っただけ」
二人がこうして私の前で話を合わせるのは、これが初めてではない。
「別に怒ってないよ」
そう答えると、颯真の表情が一瞬だけ止まった。
以前なら、二人の距離が少し近いだけでも気になっていた。颯真に聞けば面倒そうに眉を寄せられ、美月には手を握られながら笑われた。
「音羽、私たち親友でしょ? 私まで疑うの?」
そう言われるたび、自分のほうが考えすぎなのかもしれないと思った。最後には私から謝って、話を終わらせてきた。
美月が私の物を使いたいと言えば、颯真は「少しくらいいいだろ」と言った。屋外活動用の帽子を忘れた時も、私の帽子を取ってそのまま美月へ渡した。
私が少しでも嫌そうな顔をすると、颯真は決まって先に言う。
「音羽、そんな細かいこと気にしないだろ?」
そのたび、何も言えなくなった。
昔の颯真は優しかった。具合が悪ければ心配してくれたし、落ち込んだ日は帰り道を遠回りしてまで話を聞いてくれた。だから目の前で感じた違和感も、昔のことを思い出しては自分の中で片づけてきた。
私が何も言わないのを見て、美月は袋の中から一本のジュースを取り出した。
「これ、音羽の分。颯真が絶対好きだって言って取っておいてくれたよ」
ラベルを見た。
マンゴーだった。
私はマンゴーを食べると強いアレルギー症状が出る。颯真も、それを知っている。
休憩が終わり、学生スタッフの先輩から自由時間を告げられた。宿泊棟へ戻ろうと歩いていると、颯真が後ろから追いついてくる。
「本当に怒ってない?」
「うん」
「ただ歌っただけだから、変に考えるなよ。新歓ライブではちゃんと音羽に歌うし、その時にみんなにも言う。今度は本当に約束するから」
そう言いながら、めくれていた私の袖を直した。これまで何度も、私の機嫌を取る時にしてきた仕草だった。
「美月も友達でしょ。誕生日なんだから、何かしてあげてもおかしくないよ」
そう返すと、颯真は分かりやすく表情を緩めた。
「ほら。やっぱり音羽なら分かってくれると思った」
私は手にしたマンゴージュースへ目を落とした。
少し前までなら、何が嫌だったのかを必死に説明していただろう。でもその日は、もうそこまでして分かってもらおうという気になれなかった。
給水スペースの前を通ると、美月がボトルを持ってこちらへ来た。颯真はごく自然にそれを受け取る。
「二人とも先に戻ってて。水、入れてくるから」
高校の頃、一度だけ手首を捻挫した時、私は颯真に飲み物を持ってほしいと頼んだことがある。
その時の返事は、今でも覚えていた。
「もう子どもじゃないんだから、何でも彼氏に頼るのやめたほうがいいよ」
その颯真が今、美月のボトルを当たり前のように持っている。
「今日はずいぶんサービスいいね。音羽の友達だから?」
美月が楽しそうに聞くと、颯真は笑った。
「まあ、そんなとこ」
そう答えてから、こちらをちらりと見る。
宿泊棟へ戻る道では、私が少し前を歩いた。後ろで二人がふざけ合っている声が続き、美月がよろけると、颯真が腰に手を回して支えた。
「音羽、ちょっとゆっくり歩いて。美月が追いつけない」
女子棟の前まで来たところで、颯真がリュックから小さな箱を取り出した。
「美月、誕生日プレゼント」
箱の中には、星と月を組み合わせたシルバーネックレスが入っていた。
見間違えるはずがなかった。半年前からお気に入りに入れていたものだ。
値段は三万円近くする。三か月前、私は公式サイトのリンクを颯真へ送り、三周年の記念に欲しいと言った。
すると彼は、「銀のネックレスにそんな金出すのはもったいない」と笑った。
今、そのネックレスを颯真は美月の手から取り、彼女の後ろへ回って留め具を外していた。
「いつも音羽と仲良くしてくれてるお礼。受け取ってよ」
美月は首元に下がったペンダントへ触れ、私を見る。
「音羽、本当に貰っちゃうよ? 嫌じゃない?」
「うん。いいんじゃない」
颯真は満足そうに笑い、私の頭を軽く撫でた。
「ほら。音羽はこんなことで怒らないって言っただろ」
門限が近づいても、颯真は女子棟の前で美月に「明日も早いからちゃんと寝ろよ」と念を押していた。
私は一人で先に建物へ入った。
2
二人部屋へ戻ってからも、美月はなかなか鏡の前を離れなかった。髪を片側へ寄せ、星と月のペンダントがよく見えるように何度も角度を変えている。
「音羽、どう? 似合う?」
「似合ってるよ」
似合わないはずがない。チェーンの長さから留め具の形まで調べて、半年も迷って選んだものだ。
美月はペンダントを指先で持ち上げ、嬉しそうに笑った。
「颯真がね、これ最初は音羽が見つけたって言ってた。私たち好み似てるから、どっちが持っても一緒だって」
「そうかもね」
汗を吸った服をランドリーバッグへ入れていると、美月が鏡越しにこちらを見た。
「本当に大丈夫? プレゼントのことで私たちが変になるの嫌なんだけど」
手が止まった。
高校一年の頃、美月は私のために隣のクラスまで乗り込んだことがある。誰かが悪ふざけで私の絵を洗面台へ捨てた時、やった生徒たちを先生のところまで連れていってくれた。
急性虫垂炎で手術を受けた時も、美月は手術が終わるまで待合スペースに残っていた。翌朝早く病院へ戻ってきた時には、私が食べられそうなものを調べて、お粥まで買ってきてくれた。
目の前のネックレスへ視線を戻す。
「大丈夫だよ」
以前なら、そのあと美月を抱きしめて「気にしないで」とまで言っていた。
その日は、言わなかった。
夜になると、美月はInstagramにネックレスの写真を投稿した。
『何気なく言ったことまで覚えていてくれる人がいる』
すぐにコメントが並び始める。
「歌ってネックレスまで渡して、これで付き合ってないの?」
「もう神谷くんが彼氏でいいじゃん」
「今日めっちゃお似合いだった!」
美月は何も否定せず、照れた顔の絵文字だけ返していた。
三分後、颯真が「いいね」を押した。
画面に浮かんだ赤いハートを見ていると、胸の奥が少しだけ痛んだ。それでも私は、自分も投稿に「いいね」を押した。
すぐに颯真からLINEが届いた。
「コメントは気にしなくていいから。みんな俺たちのこと知らないだけだし」
続けて、高校時代の写真が送られてくる。
グラウンド脇に並んで座り、アイスを食べている私と颯真の写真だった。私は彼の肩に頭を預けている。
「三年も続いてるんだから、他人の言うことで変に考えるなよ」
その写真を撮ったのは美月だ。
私が颯真の肩に寄りかかっていた時、美月はカメラの向こうで颯真の制服の上着を羽織っていた。
すぐに通話が入る。
「音羽、やっぱり今日ちょっと変だよ。まだ歌のこと気にしてる?」
「別に」
「新歓ライブでちゃんともう一回歌うって。その日は付き合ってるってみんなに言うから。今度こそ、本当に」
一瞬だけ、心が揺れた。
高校では校則が厳しく、恋人同士だと知られるのを二人で避けていた。大学に入ってからは、「入学したばかりで恋愛のことで騒がれるのは面倒だから、少し落ち着いてからにしよう」と颯真が言った。
最後に、新歓ライブで交際を明かすと約束した。
颯真が使っているギターは、高校時代に私がアルバイト代を三か月貯めて買ったものだ。十八歳の誕生日、楽器店から学校まで抱えて運んだせいで、翌日は腕を上げるのもつらかった。
ストラップピンの近くには、二人の名前のイニシャルも刻んである。
颯真はそこを指でなぞりながら言った。
「このギターでは、音羽のために歌うよ」
あの時の私は、その言葉を疑わなかった。
ギターは変わっていない。
先に歌を受け取った相手だけが変わった。
「分かった」
それだけ返して、スマートフォンを伏せた。
深夜、微かな話し声で目が覚めた。
美月のベッドカーテンは閉じられていた。イヤホンをしているらしく、声はかなり抑えていたが、静かな部屋では途切れ途切れに聞こえてくる。
「今日、結局キスしてくれなかったじゃん。これじゃ誕生日プレゼントにならない」
イヤホンから颯真の笑い声が漏れた。
「じゃあ明日な」
「音羽がそこにいるんだから、声小さくして」
「一回寝たら起きないから平気だって。バレても二、三日かまっとけば機嫌直るし。この三年、本気で俺のこと無視できたことないだろ」
美月も小さく笑う。
「じゃあ、これからも十一時に電話していい? 音羽に変に思われないかな」
「いいよ。電話しないと美月、また眠れないって言うだろ」
私は暗い天井を見たまま、身動きしなかった。
美月は毎晩十一時になるとカーテンを閉めていた。
前に誰と話しているのか聞いた時は、「母親に毎晩連絡するよう言われてる」と笑っていた。
3
翌朝、颯真は女子棟の前で朝食を持って待っていた。
美月には温かいミルクとたまごサンド。私にはアイスコーヒーを渡してくる。
「音羽、朝弱いだろ。これ飲んだら目覚めるよ」
数日前、私は胃炎を起こしていた。保健センターで診てもらった時、しばらく冷たいコーヒーを控えるよう言われていて、颯真もその場にいた。
美月が私のカップを見る。
「私のと交換する?」
手を伸ばしかけた美月を、颯真が止めた。
「美月は昨日寝るの遅かっただろ。もともと胃弱いんだから、冷たいの飲まないほうがいいよ」
私は何も言わず、アイスコーヒーを持った。
午前中は屋外でのチーム活動だった。
出発前、颯真は日焼け止めを取り出し、美月の頬へ直接伸ばし始めた。近くにいた学生がすぐに面白がって声を上げる。
「神谷、世話焼きすぎじゃない?」
「美月、自分でやると遅いんだよ」
颯真は笑いながら答え、残ったボトルをこちらへ放ってきた。
午後の活動中、美月の顔色が急に悪くなった。
身体が傾いた瞬間、颯真は持っていたボトルを地面へ落とし、列から飛び出して彼女を抱き止める。
学生スタッフの先輩が笛を鳴らして声をかけると、颯真は美月を支えたまま顔を上げた。
「倒れてるのに、今そんなこと言ってる場合ですか?」
近くから小さな声が聞こえた。
「神谷くん、佐伯さんのこと本当に大事なんだね」
「これで付き合ってないって、逆に無理じゃない?」
私は、彼が投げてよこした日焼け止めを握っていた。
高校の体育祭で八百メートルを走ったあと、私も一度倒れたことがある。その時の颯真は、人前で倒れた私を恥ずかしそうに見て、近くにいた女子へ「保健室まで連れていってあげて」と頼んだだけだった。
午後の終わり頃、今度は私も日差しで気分が悪くなった。
スタッフに勧められ、研修施設の救護室へ向かう。
薬を受け取って奥へ進むと、半分閉じたカーテンの向こうに颯真がいた。
美月の前にしゃがみ、ほどけた靴紐を結び直している。横のテーブルには経口補水液が置かれ、颯真はキャップを開けて美月へ差し出した。
「次から具合悪くなる前に言えよ。無理して倒れてからじゃ遅いだろ」
美月はボトルを受け取らず、彼を見下ろした。
「言ったら、ちゃんと来てくれる?」
颯真が顔を上げる。
そのまま、美月にキスをした。
手の中の薬のボトルが床へ落ちた。
プラスチック容器が転がり、カーテンの近くで止まる。
最初に私へ気づいたのは、救護担当のスタッフだった。
「大丈夫ですか? 気分悪いですか?」
カーテンの向こうが急に静かになった。
颯真が勢いよく布を開ける。
私を見た瞬間、顔に浮かんだ動揺を隠す暇もなかった。
美月もすぐに立ち上がった。
「音羽? 音羽も具合悪かったの? 大丈夫?」
二人の唇には、まだわずかに赤みが残っている。
「気持ち悪い」
美月の目からすぐに涙が落ちた。
「違うの。音羽が思ってるようなことじゃなくて、本当に――」
「今の、どう見てもキスでしょ」
室内にはほかの学生もいた。
視線が集まると、颯真は顔をこわばらせ、私の手首を掴んで廊下へ連れ出した。
「何でわざわざあんなところで言うんだよ。美月はさっき倒れたばっかりなんだぞ」
「見たことを言っただけでしょ」
「まだ体調だって戻ってないんだ。今くらい責めるのやめられないの?」
美月も廊下へ追いかけてきた。
「音羽、ごめん。怒るなら私に怒って。さっきはふらついて、たまたま――」
颯真はすぐに美月の前へ立った。
「今、美月を追い詰める必要ないだろ。少しくらい落ち着けよ」
私は二人を見てから、颯真へ視線を戻した。
「颯真、別れよう」
声は大きくなかった。
近くで話していた学生たちの声が止まった。
颯真はしばらく私を見たあと、呆れたように眉を寄せた。
「何、それ。別れるって言えば俺が謝るとでも思ってる? 俺と美月は高校からずっとこの距離だっただろ。本当に何かあったなら、今さらお前が気づくわけないだろ」
美月を見ると、彼女は視線を外した。
私はもう何も言わず、そのまま背を向けた。
後ろから追ってくる足音はない。
「あとで美月には謝れよ」
最後に聞こえたのは、颯真の声だった。
4
救護室を出た私は、その足で大学の学務課へ向かった。
コース変更申請書を窓口へ差し出すと、担当職員は日付を確認し、パソコンの画面と見比べた。
「まだ変更期間内なので、申請は受け付けられます。所属が正式に切り替わるのは来週になりますが、それで大丈夫ですか?」
「はい。お願いします」
「では、ビジネス・ファイナンスコースからビジュアルデザインコースへの変更で手続きしますね」
職員はそう言って入学時の資料を開いた。画面を追っていた目が、ポートフォリオの評価欄で止まる。
「水瀬さん、ポートフォリオの評価かなり高かったんですね。てっきり最初からデザイン志望なのかと思ってました」
「私も、そのつもりでした」
「そうだったんですね。今の時期ならまだ負担も少ないと思います。基礎演習で抜けているところは、担当の先生に相談してみてください」
「分かりました」
書類を受け取ってもらい、窓口を離れた。
私は小さい頃から絵を描くことが好きだった。高校でも美術系のコンテストに何度も出て、大学へ提出するポートフォリオにも一年近く時間をかけた。
それでも最初にビジネス・ファイナンスを選んだのは、颯真と美月が同じコースを希望していたからだ。
建物を出る頃には、スマートフォンに何十件もの着信が残っていた。
すべて颯真からだった。
また画面が光ったので、今度は電話に出た。
「どこにいるんだよ。美月がお前を探してて足捻った。すぐ戻ってきて」
「私を探して何するの?」
「謝りたいって言ってる」
「もう必要ないよ」
そのまま通話を切った。
三十分ほどして、コースのLINEグループに颯真からメッセージが入った。
『美月、音羽を探してる途中で足ひねった。誰か音羽の居場所知らない?』
すぐに返信が続く。
「佐伯さん大丈夫?」
「保健センター行った?」
「まだ音羽と話せてないの?」
少しして、同じコースの女子から個別にメッセージが来た。
『美月かなり探してたみたいだけど、一度くらい話してあげたら?』
私は短く返した。
「私が探してほしいと頼んだわけじゃないし、その途中で足を捻ったことまで私の責任にはできないよ」
画面を閉じる。
ちょうどコース変更申請を受理したというメールが届いた。
学生寮の管理室にも相談すると、別棟の二人部屋に空きがあり、その日のうちに移れると言われた。
元の部屋へ戻り、荷物をまとめる。
服と自分の持ち物を箱へ入れていくと、三年間で私が預かってきた颯真の物がいくつも出てきた。ライブのチケット、映画の半券、大会の参加証、初めて軽音のステージに立った時のフライヤー。
ほかにも、「音羽のところに置いといて」と渡された細々した物がたくさんある。
どれも箱には入れなかった。
その日の夜、私は芸術棟に近い女子寮へ移った。
忘れていた教材を取りに元の教室へ行くと、美月が颯真の腕につかまりながら入ってきた。
私を見るなり、美月は周囲に聞こえる声で言った。
「音羽のこと悪く言わないで。私たちがちゃんと話せてないだけだから」
近くにいた女子が「佐伯さん、大丈夫?」と美月へ寄っていく。
颯真もこちらを見る。
「美月がこう言ってるんだから、音羽ももう意地張るなよ」
私は教材を箱へ入れたまま、顔を上げなかった。
「もう私に関わらないで。それで十分」
美月の目が赤くなる。
私は箱を抱え、そのまま二人の横を通り過ぎた。
それから、こちらから連絡することは一度もなかった。
5
オリエンテーション期間が終わり、通常授業が始まった。
ビジネス・ファイナンスコースで最初の専門授業がある朝、颯真は音羽が好きだったパン屋の塩バターロールを買って教室へ入った。共通科目を受けていた頃から、音羽はいつも彼の隣に座っていた。
何日か放っておけば、そろそろ怒りも収まる頃だろう。好きな物を渡して少し話せば、そのうちいつもの音羽に戻る。これまでだって、そうだった。
ところが、隣の席には知らない男子学生が座っていた。
「悪い、そこ人来るんだけど」
男子学生が顔を上げる。
「え? ここ自由席だよね?」
「水瀬、いつも俺の隣だったから」
「水瀬……? このコースにそんな人いたっけ」
颯真はその場で立ち止まった。
そこへ教員が入ってきて、授業開始のチャイムが鳴る。
「神谷くん、席についてください」
仕方なく座った。
出席確認が始まり、名前がいくつか読み上げられたあと、教員が名簿を見ながら付け加えた。
「水瀬さんは所属変更で、このクラスから外れています」
颯真は思わず顔を上げた。
「所属変更って、どこにですか?」
「本人のことなので、こちらから詳しくは言えません。授業を始めますよ」
机の下でコースのLINEグループを開く。
音羽の名前がない。
授業が終わるなり電話をかけた。
一回目は出ない。
二回目は切られた。
三回目には、繋がらなくなっていた。
美月からLINEが入る。
「どこ行ったの?」
颯真は返事をせず、教室を出た。
すぐに美月が追いついてくる。足首の包帯はもう外れていて、歩き方もほとんど普通に戻っていた。
「音羽、クラス変えたの?」
「らしい」
「でも音羽って、途中で投げ出すの一番嫌いだったじゃん。どうするの?」
「探す。俺に怒ってるだけだろ」
学内の知り合いに何人かメッセージを送った。
少しして、高校から同じ大学へ来た友人から返事が来る。
『水瀬なら、さっき芸術棟で見たけど』
二人はそのまま芸術棟へ向かった。
横を歩いていた美月が颯真の腕を掴む。
「会ってすぐ怒らないでね。音羽、今は意地になってるだけだと思う。別れるって言ったのも、きっと引き止めてほしかったんだよ」
少し間を置いて、美月は続けた。
「私とは距離置くって言えば、たぶん戻ってくるよ」
颯真の肩から力が抜けた。
「やっぱり美月は音羽のこと分かってるな」
「ずっと友達だったからね」
芸術棟の廊下で、音羽を見つけた。
床にしゃがみ込み、グレーのボードをカッターで切っている。向かいには知らない男がいて、金属定規を押さえていた。
「ここ、あと二ミリ残したほうがいいよ。立体構成初めてなら、最初からギリギリで切らないほうがいい。最後の接合でずれるから」
男が鉛筆で印をつけると、音羽は頷いてカッターを持ち直した。
颯真はその手元に、買ってきた塩バターロールを置いた。
「まだ怒ってるの?」
音羽は顔を上げない。
「光遮ってるから、少しずれて」
颯真の眉間に力が入る。
「音羽、コースまで変える必要ある? 金融なら就職先だって広いだろ。俺に腹立てた勢いで将来まで変えるなよ」
向かいにいた男が顔を上げた。
「すみません、今作業中なので、話ならあとにしてもらえますか」
「俺と音羽の話だから」
男が何か言いかけたところで、音羽が金属定規を渡した。
「高瀬くん、ちょっと持ってて。すぐ戻る」
立ち上がり、膝についた紙くずを払う。
「私、昔から絵を描いてたよ。大学に出したポートフォリオも評価はかなり高かったし、最初から一番やりたかったのはデザイン」
颯真の口が止まった。
高校の文化祭ポスターは音羽が作った。初めて貰った誕生日プレゼントも、彼女が描いた肖像画だった。
「だったら、何で最初からデザインにしなかったんだよ」
「颯真と美月が金融に行くって言ったから」
今度は言葉が返ってこなかった。
「あの時、一回だけ自分で決めるのをやめた。今は元に戻しただけ」
「そんな大げさにすることかよ。まだ申請取り消せるかもしれないだろ。一緒に学務課行こう」
「行かない」
「音羽」
颯真が手を伸ばした瞬間、音羽は一歩下がった。
「触らないで」
伸ばした手が宙で止まる。
「救護室のことだけで、ここまでやる?」
「『だけ』じゃない。美月がふらついてたとしても、颯真の意識ははっきりしてたよね」
「美月は倒れた直後だったんだ。本人も説明しただろ」
音羽は視線を逸らさなかった。
「じゃあ、夜中に『明日キスしよう』って約束してたのも、体調のせい?」
颯真の顔から色が引いた。
後ろにいた美月も動きを止める。
「……起きてたの?」
「全部聞いた」
美月の目に涙が浮かんだ。
「音羽、私……」
「名前で呼ばないで」
音羽は颯真を見る。
「二人がキスしようが、これから付き合おうが、もう私には関係ないから」
「俺は別れるなんて言ってない」
「別れるのに、颯真の同意はいらないよ」
音羽はそのまま作業へ戻った。
高瀬から定規を受け取り、またボードにカッターを当てる。
颯真はしばらくその場に立っていたが、音羽はもうこちらを見なかった。
床には、持ってきたパンの袋が残っている。
清掃スタッフが通りかかり、足を止めた。
「これ、捨てても大丈夫ですか?」
「はい。お願いします」
音羽は手元を見たまま答えた。
颯真は振り返らずに歩き出した。
6
デザインコースへ移ってみると、好きだったからといって簡単に追いつけるわけではなかった。
絵そのものは続けていたけれど、レイアウトやタイポグラフィ、立体構成を体系的に学ぶのは久しぶりだった。ほかの学生が一時間で終える作業を、私は何度も直して夜中まで残ることもあった。
初めて提出した課題では、教員から十か所以上の修正点を指摘された。色の組み方、文字同士の間隔、視線誘導。返却された作品は書き込みだらけだった。
指摘されたところへ一つずつ付箋を貼り、作業台に戻る。直すたびに、さっきまで気づかなかった歪みが見えるようになった。
新しいルームメイトの森川千夏は、朝早く来た日は私の分まで作業席を取ってくれた。高瀬くんは基礎演習のノートをコピーしてくれ、担当教員も不足している分野の補講に参加させてくれた。
制作室を出る頃には日付が変わっている日もあった。寮へ戻ればシャワーを浴びて、そのまま眠った。
*
翌週、颯真は教室を間違えて二十分遅刻した。
次の日は提出書類を一枚印刷し忘れた。
グループ発表の日には、パソコンを開いてから最終版のスライドをまとめていないことに気づいた。
「神谷、最新のやつどれ?」
「昨日まとめたって言ってなかった?」
メンバーに聞かれ、颯真は無意識に音羽とのトーク画面を開いた。
『最終版のPPTって音羽のところにある?』
入力したところで、送れないことに気づく。
以前、パソコンの中に散らばっていた資料は、いつの間にか音羽が授業ごとにフォルダを分け、日付をつけて整理していた。重要なファイルはクラウドにも保存されている。
颯真はフォルダを開いては閉じ、検索欄にファイル名らしき単語を何度も打ち込んだ。
その晩、結局最新ファイルを見つけられず、発表資料をほとんど作り直した。
午前二時を過ぎた頃、美月から通話が入る。
「今日、全然連絡くれなかったよね」
「明日の発表の資料やってる」
「前は忙しくても電話してくれたじゃん」
颯真は眉間を揉んだ。
「美月、明日朝一で発表なんだよ」
少し沈黙したあと、美月の声が震えた。
「じゃあ今は、十分話す時間もないの?」
机の上には、まだ半分近く残ったスライドがある。
そのあと、美月からもう一通届いた。
「ごめん。邪魔だったよね」
颯真の指が止まる。
「別に。電話していいよ」
結局一時間ほど話し、通話を切った時には午前三時を回っていた。
パソコンへ向き直った時、高校時代の音羽の声が頭をよぎった。
「明日テストだから」と言えば、返ってくるのはいつも短い言葉だった。
「分かった。じゃあ早く寝てね。終わったら話そう」
颯真は目元を擦り、残っていたスライドを開いた。
新歓ライブの一週間前、軽音サークルのリハーサルがあった。
ギターケースを開き、予備弦を探す。
サイドポケットは空だった。
以前は弦が古くなる頃には、新しいセットが入っていた。ピックもクロスも切らした記憶がない。
奥を探ると、小さく折られたメモが一枚出てきた。
『3弦、切れやすいから予備を一本多めに入れておいてね』
日付は去年の冬だった。
颯真はしばらくメモを見たあと、折り目に沿って畳み直し、ケースへ戻した。
リハーサル後、美月へLINEを送る。
「帰りに楽器屋寄れる? 弦、一セット買ってきてくれない?」
「私、ギターのこと分からないよ。間違えたら嫌なんだけど」
「店員に型番見せれば分かるよ」
「でも雨降ってるよ?」
颯真はそこで返信をやめた。
結局、自分で雨の中を楽器店まで歩いた。
寮へ戻る頃には、服の半分が濡れている。
ルームメイトが振り返った。
「彼女、傘持ってきてくれなかったの?」
「彼女なんていないけど」
「え、佐伯さんと付き合ってないの?」
笑われる。
「みんなそう思ってるぞ。歌うわネックレス渡すわ、日焼け止め塗るわ、毎晩電話するわ。それで違うってほうが無理だろ」
颯真は濡れた髪をタオルで拭きながら、何も返さなかった。
7
新歓ライブ当日、颯真は舞台裏から音羽へメールを送った。
LINEでは連絡できない。
『七時半から、前に約束した曲を歌う。これで最後にするから、来て』
返事はなかった。
午後七時半。
大学のホールには多くの学生が集まっていた。
ビジュアルデザインコースの席も見える。
ステージに上がった颯真は、イントロを弾きながら何度かそちらへ目をやった。
音羽の姿はなかった。
*
その頃、私は制作室で課題を仕上げていた。
スマートフォンは机の端でマナーモードにしていた。
千夏が動画を見つけ、画面をこちらへ向ける。
「音羽、これ元彼?」
動画の中で、颯真は私が贈ったギターを抱えていた。
曲は『君のとなり』。
客席の一列目には美月が座っている。
曲が終わると、司会役の学生が笑って尋ねた。
「神谷くん、この曲、誰か特別な人に向けて歌ったんですか?」
颯真はビジュアルデザインの座席へ目を向けたあと、少し間を置いてマイクへ口を近づけた。
「俺にとって、大事な人に」
客席から「美月!」という声が上がった。
すぐに同じ名前があちこちから飛ぶ。
カメラに映った美月は口元を手で覆い、涙を流していた。
千夏がこちらを見る。
「大丈夫?」
「うん。続きをやろう」
スマートフォンを返し、私はレイアウト画面へ戻った。
*
ライブが終わり、颯真がギターをケースへ戻していると、美月が舞台裏まで来た。
そのまま抱きつく。
「颯真、私、好き。友達としてじゃない」
颯真の手はギターケースの上で止まったままだった。
美月は顔を胸元へ寄せる。
「音羽とはもう戻れないかもしれないけど、私まで颯真と離れるのは嫌」
美月の首元には、あの星と月のネックレスが下がっていた。
芸術棟で聞いた声が蘇る。
『二人がキスしようが、これから付き合おうが、もう私には関係ないから』
颯真はしばらく黙ったあと、美月の手を取った。
「じゃあ、付き合おうか」
*
翌日、美月のInstagramに写真が投稿された。
二人の手が繋がれている。
『今度は、勘違いじゃない』
颯真もその投稿をシェアしていた。
私が三年待っていたものを、颯真は美月には一晩で渡した。
知り合いからもスクリーンショットが送られてきた。
一度だけ見て閉じる。
向かいでは高瀬くんがデザインコンペの申請書類を整理していた。
「音羽、ここ学籍番号必要」
「分かった」
記入を始めると、高瀬くんが机の上のホットミルクをこちらへ寄せた。
「顔色悪いけど、大丈夫?」
「昨日ちょっと寝るの遅くて」
「今日は早めに帰ったほうがいいよ。残りは俺がまとめてもいいし」
「共同制作なんだから、一人に任せるのは嫌」
「分かった」
高瀬くんはそれ以上何も聞かなかった。
ただ、こちら側が暗くならないようスタンドライトを少し動かした。
私は温かいカップを両手で包み、申請書へ戻った。
8
美月と付き合い始めた翌日、颯真は教室へ入るなり友人に笑われた。
「やっぱり付き合ったんだ」
「前からそうだと思ってたわ」
それからは二人で授業を受け、食事をし、サークルにも顔を出した。美月は写真が好きで、出かけるたびInstagramへ投稿した。颯真もコメントを残し、頼まれればカップル動画にも付き合った。
以前のように「美月と近すぎない?」と聞かれることもなくなった。
一か月ほど経ったある朝、颯真は女子寮の前で美月を待っていた。
四十分経って届いたのは、一通のLINEだけだった。
「眠いから先に行って。朝ごはんも今日はいいや」
颯真は一人で教室へ向かった。
昼になると、美月は胃が痛いと言い出した。
颯真は保健センターへ付き添い、そのまま専門科目を一つ欠席した。
夜、同級生にノートを借りる。
「音羽、前は神谷の分もまとめてなかった?」
颯真の手が止まった。
「今、音羽の話するなよ」
図書館へ行くと、足は無意識に窓際三列目へ向かった。
そこには以前、音羽が席を取るために置いていた水筒があった。
軽音の練習では、一曲終えるたび客席側へ目が向く。
音羽はいつもスピーカーに近い席で最後まで聴いていた。
「二番のサビ、ちょっと音外したよ」
「最後、息足りなかったでしょ」
演奏が終われば水を渡しながら、そんなことを言った。
美月はリハーサルを最後まで見ることが少なかった。
「部屋暑いから、ちょっと買い物行ってくるね」
十分ほどで席を立つことも多い。
ある夜、練習が十時まで続いた。
スマートフォンを見ると、美月から十数件のメッセージが来ていた。
「何で返信しないの? 歌ってるほうが私より大事?」
「前は私が落ち込んだら、すぐ来てくれたのに……」
颯真はギターケースを床へ置き、眉間を押さえた。
十二月、青凪市が急に冷え込んだ。
風邪を引き、寮のベッドで寝込んでいると、美月から電話が入る。
「今日映画行くって言ってたよね?」
「熱あるんだ」
「だったら、もっと早く言ってよ」
「朝からなんだって」
少し沈黙したあと、美月の声が低くなった。
「本当は行きたくないだけじゃないの?」
颯真はそのまま通話を切り、スマートフォンをベッドへ投げた。
三十分ほどして、ドアがノックされた。
身体を起こしてドアを開ける。
外にいたのはデリバリーの配達員だった。
「神谷さんですか? お粥と風邪薬です」
ルームメイトが注文してくれたものだった。
袋を受け取る。
入っていたのは梅がゆだった。
颯真は昔から梅干しが苦手だった。
風邪薬の成分表示を見ると、以前飲んだ時に具合が悪くなった成分も入っている。
ルームメイトが頭を掻く。
「適当に選んじゃった。これ駄目だった?」
「いや、大丈夫。ありがとう」
颯真は袋を膝に置いたまま、しばらく動かなかった。
高校二年の冬、部活の合宿先で高熱を出したことがある。
消灯後、音羽は宿舎を抜けて近くのドラッグストアまで薬を買いに行き、戻ったところを顧問に見つかった。
翌日、反省文を書かされていた。
「そこまでしなくてもよかったのに」
熱が下がった颯真が言うと、音羽は保温ボトルを差し出して笑った。
「治ったならいいよ」
颯真はスマートフォンを取り、音羽の名前を開いた。
LINEでは送れない。
SMSに切り替え、短く打ち込む。
『熱出た』
送信ボタンの上で指が止まる。
しばらくして、入力した文字を一文字ずつ消した。
9
冬休み前、青凪総合大学で学生デザイン展が開かれた。
私たちのグループ作品はメイン展示に選ばれ、指導教員から実物モデルを作り直すよう言われた。
一週間ほど、毎日午前二時近くまで制作した。
最終提出の前日、私は作業机に伏せたまま眠ってしまった。
目を覚ますと、肩に黒いダウンジャケットが掛けられていた。高瀬くんは隣で模型を切っていて、薄いニット一枚になっている。
「起こしてくれてよかったのに。寒くない?」
「昨日三回作り直してたでしょ。少しくらい寝たほうがいいよ。暖房ついてるから、俺は平気」
高瀬くんは手を止めずに答えた。
私はジャケットを椅子の背へ掛け、洗面所へ顔を洗いに行った。
戻ってくると、机に温かいお粥が置いてある。
「千夏が、音羽は胃弱いって言ってたから」
「ありがとう」
「今度から自分でちゃんと食べて」
それだけ言い、高瀬くんはまた模型へ戻った。
展示会の初日、大学公式Instagramに作品が紹介された。
署名は、水瀬音羽、高瀬蓮の順。
模型の前で撮ったグループ写真も掲載された。
*
颯真は大学公式アカウントで、その投稿を見つけた。
写真を拡大すると、音羽は髪を短く切り、眼鏡も変えていた。高校二年の時に颯真が渡したミサンガも、もう手首にはない。
高価なものではなかった。
音羽は三年間、ほとんど外さず身につけていた。
颯真は音羽の新しいInstagramアカウントを開く。
高校卒業の写真も、体育祭も、旅行も、学校行事も残っている。
二人きりで写った投稿は見当たらなかった。
フォロー申請を送ったが、承認されないまま夜になった。
十一時を過ぎた頃、以前のLINE履歴を開く。
最後のメッセージは二か月以上前。
颯真が送ったものだった。
『あとで美月に謝れよ』
その下に、音羽からの返信はない。
指で画面を上へ遡った。
『朝ごはん、机に置いておいたよ』
『今日寒いから上着持っていって』
『昨日欲しいって言ってた楽譜、見つけた』
さらに上へ送る。
一日に何十件もやり取りしていた時期がある。
少し下ると、音羽から届くメッセージは数件になった。
『着いた?』
『ご飯食べた?』
『おやすみ』
最後のほうに残っている返事は、もっと短かった。
『うん』
翌日、颯真は友人にスマートフォンを借りた。
「一回だけ電話させて」
自分の番号では出てもらえない。
連絡先を入力し、発信ボタンを押した。
*
私は展示室で照明を調整していた。
知らない番号から電話が入り、材料の配送業者だと思ってそのまま出る。
「はい、水瀬です」
相手は数秒黙っていた。
「俺」
声ですぐに分かった。
画面の番号を確認する。
「何?」
「何でInstagramのフォロー通してくれないんだよ。別れたからって、今までの全部まで消す必要ある? 俺たち何年知り合いだと思ってるんだよ」
私は展示作品のほうを見た。
「別れた相手と、ずっと繋がってる必要ないでしょ」
向こうから息を呑む音がした。
「いつから俺は元彼になったんだよ」
「私が別れるって言った日から」
「もう本当に、俺と話す気ないの?」
「ないよ」
通話を切った。
その番号も着信拒否に入れた。
10
デザイン展最終日、颯真が会場へ来た。
後になって聞いた話では、その日は美月に何も言わずに来ていたらしい。
展示室には多くの人がいて、私は高瀬くんと並び、指導教員や見学者へ作品の説明をしていた。
私たちの作品は、二枚の透明なパネルを重ねたものだった。
最初はそれぞれの色が保たれたまま重なっている。
進むにつれ、一方の色がもう一方へ侵食していく。
最後には、片方の輪郭がほとんど見えなくなる構成になっていた。
指導教員が尋ねた。
「水瀬、この作品で一番見せたいのはどこ?」
私は二枚のパネルを見た。
「最初の部分です。二枚が重なっていても、それぞれの輪郭は残っています」
指で後半を示す。
「でも片方の色だけが広がり続けると、最後はもう一枚が見えなくなる。近くにいることと、相手の形を消してしまうことは違うと思って、この構成にしました」
説明を終える。
人の輪の外に、颯真が立っていた。
少しして、こちらへ近づいてくる。
「音羽、少し話せる?」
高瀬くんへ一言断り、展示室の外へ出た。
冬の風が建物の間を抜けていく。
数か月ぶりに近くで見た颯真は、少し痩せていた。目の下には薄く隈が残っている。
「音羽」
しばらく黙ったあと、低い声で言う。
「俺、後悔してる。音羽がいないの、こんなにきついと思ってなかった。もう一回、やり直せない?」
私は颯真の顔を見た。
以前なら、その声を聞いただけで胸の奥がざわついた。
今は、風の冷たさのほうがはっきり分かった。
「颯真、乗り遅れた便はもう待ってくれないよ」
颯真の表情が止まる。
「さっきの作品の説明、聞いてたでしょ」
「……聞いてた」
「私はもう、あの頃には戻りたくない」
「俺、知らなかったんだ。音羽が俺のために、そんなに色々諦めてたなんて。今なら変えられる。俺もちゃんと――」
「でも、もう待ってないよ」
颯真の目が赤くなった。
「音羽……」
「前は本当に好きだったよ。だから、颯真が困らないようにって、ずっと先回りしてた。時間割も、資料も、薬も、ギターの弦も」
少し離れた展示室から、人の声が聞こえてくる。
「でも、それって私の役目じゃなかったんだよ。私に全部やらせておいて、私が欲しかったものだけ美月に渡すのは違うでしょ」
颯真はしばらく何も言わなかった。
やがて俯き、小さく息を吐く。
「……ごめん」
「うん」
私は頷いた。
「これからは、自分のことは自分で大事にして」
そのまま展示室へ戻った。
それからしばらくして、颯真と美月が別れたという話を聞いた。
最初のうちはうまくいっていたらしい。けれど少しずつ喧嘩が増え、美月は「前みたいに優しくなくなった」と不満を言い、颯真は彼女から連絡が来るたび疲れた顔をするようになったという。
最後はかなり揉めたらしい。
共通の知り合いからそんな話が耳に入ることはあった。
私は聞くだけで、それ以上詳しく尋ねなかった。
今、私は高瀬くんと全国学生デザインコンペの準備をしている。
制作室の机には新しい模型と図面が広がっている。少し離れたところでは、千夏が「またプリンター詰まった!」と騒いでいた。担当教員からは、ついさっき新しい修正指示が届いたばかりだ。
私はペンを取り直した。
冬の光が机の上へ差し込んでいる。
そのまま、新しい図面に最初の線を引いた。




