華麗なる『ざまぁ』を魅せて差し上げますわ
「エレオノーラ・ヴァレンタイン公爵令嬢!」
王太子ルシアンの声が、春告げの舞踏会の大広間に響いた。
楽団の奏でるワルツが止まる。
白大理石の床を滑っていたドレスの裾も、貴公子たちが掲げていた杯も、すべてがその一声に縫い止められたようだった。
広間の中央で名を呼ばれたエレオノーラは、ゆっくりと扇を閉じる。
薄青のドレス。
真珠の耳飾り。
白く細い首筋。
誰もが息を呑むほど、彼女は美しく、静かだった。
王太子の隣には、薔薇色のドレスをまとった少女が寄り添っている。
ミレーユ・ヴァレンタイン。
エレオノーラの異母妹である。
潤んだ瞳でルシアンの袖を掴み、小さく震える姿は、まるで嵐に怯える可憐な花のようだった。
エレオノーラはその妹を一瞥し、王太子に向き直る。
「何でございましょう、ルシアン殿下」
そう答えると、ルシアンは勝ち誇った顔をして、高らかに声を張り上げた。
「私、ルシアン・カロラインの名において、公爵令嬢エレオノーラ・ヴァレンタインとの婚約を、ここに破棄することを宣言する!」
広間がどよめいた。
何人かの令嬢が口元を押さえ、若い貴公子たちは互いに視線を交わす。
だが、エレオノーラだけは驚かなかった。
彼女はただ、長い睫毛を伏せ、ほんのわずかに微笑んだ。
ああ。
ようやく、幕が上がるのですね。
ならば、最後までお付き合いいたしましょう。
――華麗なるざまぁを、魅せて差し上げますわ。
「婚約破棄、でございますか」
「ああ、そうだ! おまえは実の妹であるミレーユを妬み、暗殺を企てた。証拠は上がっている。犯人も、おまえに雇われたと証言した」
彼は一歩、エレオノーラへ近づいた。
その碧い瞳には、正義に酔った者特有の熱が宿っている。
「それだけではない。おまえは聖女の名を騙り、人々を欺いてきた偽聖女だ。いや、聖女どころか魔女と呼ぶべき女だ!」
偽聖女。
魔女。
その言葉に、広間の空気が一段冷えた。
エレオノーラの指先が、ほんのわずかに白くなる。
かつては、その言葉で呼吸が止まった。
自分が積み上げてきた祈りも、癒やしも、救ってきた人々の命さえ、すべて踏みにじられた気がした。
けれど今夜の彼女は、怯えない。
ミレーユが、ルシアンの後ろから小さく顔を出す。
「お姉さま……どうして、こんなことをなさったの? わたくし、お姉さまのことを信じておりましたのに」
震える声。
潤む瞳。
いかにも憐れな被害者の姿。
その演技に、周囲のいくつかの視線がエレオノーラへ突き刺さる。
エレオノーラは静かに尋ねた。
「殿下。その犯人は、わたくしに雇われたと申したのですね」
「そうだ」
「では、その者をここへ」
ルシアンの眉が動いた。
「何だと?」
「わたくしは、その者の顔を存じません。わたくしに雇われたと申すのであれば、当然わたくしの顔も、わたくしに命じられた時の状況も、詳しく語れるはずですわ」
「無駄だ。すでに処刑されている頃だ」
「いいえ」
エレオノーラは扇で口元を隠した。
「処刑は、まだ執行されておりません」
その瞬間、大広間の扉が開いた。
王宮警備隊の騎士たちが、一人の男を引き立てて入ってくる。
粗末な上着。
泥のついた靴。
青ざめ、震えきった顔。
その男は広間の中央に突き出されると、床に膝をつき、叫んだ。
「助けてくれ! 俺はそこの薔薇色のドレスの娘に頼まれただけなんだ!」
ミレーユの顔から、血の気が引く。
男は震える指で彼女を指した。
「金を渡されたんだ! 自分によく似た娘が礼拝堂の裏道を通るから、刃物を見せて脅せって! 殺すつもりなんかなかった。悲鳴を上げたらすぐ逃げればいいって言われたんだ!」
「嘘よ!」
ミレーユが叫んだ。
「あなたにそう頼んだのはお姉さまでしょう!」
「違う! あんたらの顔は似てるが、全然違う! その聖女様は、近づけねえくらい眩しい金の氣を纏ってる。見間違えるわけがない!」
ざわめきが広がる。
エレオノーラの周囲には、確かに淡い金の光があった。
聖女が祈りや癒やしの力を使う時に纏う、聖なるマナ。
けれど今の彼女は、何の魔法も使っていない。
ただ、そこに立っているだけだ。
それなのに、その光は薄衣のように彼女を包んでいた。
誰かが小さく呟いた。
「偽聖女などではない……」
「本物の聖女の証だ」
ミレーユが唇を噛む。
ルシアンは苛立たしげに声を荒げた。
「この男がエレオノーラに買収されている可能性もある!」
「では、殿下」
エレオノーラは穏やかに返した。
「こちらもご確認くださいませ」
彼女が軽く視線を向けると、控えていた侍女が銀盆を手に進み出た。
その上には、小さな水晶瓶が置かれている。
中には、薄く紅色を帯びた液体。
「先ほど、殿下よりいただいた果実酒でございます」
ルシアンの顔がわずかに強ばった。
「それが何だ」
「喉を焼く毒が混ぜられておりました」
広間から悲鳴が上がった。
エレオノーラは続ける。
「命には届かぬ毒です。ただし、声を失わせるには十分。もし飲んでいれば、わたくしは今、この場で申し開きもできなかったでしょう」
「ばかな! そんなもの、私は知らない!」
「ええ。そうおっしゃると思っておりました」
彼女の声は少しも揺れなかった。
「毒見役が確かめた後、殿下の従者が杯を入れ替えたことは、すでに確認済みでございます」
王宮警備隊の騎士が、一人の男を連れてくる。
ルシアン付きの従者だった。
男は床に膝をつくなり、顔を青くして震えた。
「申し訳ございません……! 殿下に命じられて……!」
「黙れ!」
ルシアンが怒鳴る。
その一言が、何よりも雄弁だった。
広間の空気が、完全に変わる。
先ほどまでエレオノーラを疑っていた者たちの視線が、少しずつ王太子へ向き始めた。
エレオノーラは、そこで止めなかった。
止めるはずがない。
まだ幕は途中である。
「そして、もうひとつ」
別の侍女が進み出た。
銀盆の上には、黒革と金属でできた禍々しい首輪が置かれている。
その瞬間、年嵩の貴族たちが息を呑んだ。
「炎獄の首輪……?」
「禁制の魔道具ではないか」
「聖女の魔力を封じるものだ」
ルシアンの顔が青ざめる。
エレオノーラは穏やかに告げた。
「わたくしの背後に控えていた従者が、婚約破棄の宣言後、これをわたくしの首へ嵌める予定でございました」
「証拠はあるのか!」
「ございます」
彼女は即座に答えた。
「その従者も、すでに警備隊が拘束しております。殿下とミレーユ様のご指示であったと証言済みですわ」
ミレーユが悲鳴を上げた。
「わたくしは知らない! 首輪のことなんて、ルシアン殿下が勝手に……!」
「ミレーユ!」
ルシアンが振り返る。
「君こそ、暗殺騒ぎを仕組んだではないか! 私は君に頼まれて――」
「ひどいわ! 殿下がおっしゃったのよ。お姉さまは声と魔力を奪えば何もできないって! そうしたら偽聖女として教会に突き出せるって!」
「黙れと言っている!」
愛を誓い合ったはずの王太子と公爵令嬢は、広間の中央で醜く責任を押し付け合っている。
エレオノーラは、その姿を静かに見ていた。
ただ、美しく立っている。
それだけで十分だった。
その時、大広間の奥から重い扉が開いた。
国王陛下と王妃殿下。
そして白銀の法衣をまとった大司教が姿を現す。
ルシアンの顔が、完全に青ざめた。
「父上……」
国王は、しばらく何も言わなかった。
その沈黙の重さに、広間中が息を潜める。
やがて、低い声が落ちた。
「ルシアン。これは何の騒ぎだ」
「父上、これは違うのです。エレオノーラが、私とミレーユを陥れようと――」
「私の目の前で、まだ偽りを重ねるか」
ルシアンの声が止まった。
国王は、王宮警備隊の隊長へ視線を向ける。
「報告せよ」
「は。暗殺未遂の実行犯、毒を混入した従者、禁制魔道具を持ち込んだ従者、いずれも拘束済み。証言および物証は保全しております」
次に、大司教が進み出た。
「教会からも申し上げます。エレオノーラ嬢はこの一年、聖女として病の村を救い、干ばつの地に雨を呼び、北方結界の修復にも尽力されました。その功績は聖女宮に記録されております」
大司教は、ルシアンとミレーユへ冷たい視線を向ける。
「その方を偽聖女、魔女などと呼ぶことは、教会への侮辱でもある」
ルシアンが膝を震わせた。
「私は……国のために……」
「国のために、聖女に毒を盛ったのか」
国王の声が、氷のように冷えた。
「国のために、禁制の首輪を用意したのか」
「それは……」
「国のために、公爵家の令嬢へ罪を着せ、王家とヴァレンタイン公爵家の盟約を、私の許しなく破棄すると宣言したのか!」
エレオノーラは、王太子を見つめる。
かつては、その人に愛されたいと思ったこともある。
認められたいと願ったこともある。
支え続ければ、いつか家族になれるのではないかと思ったこともある。
そのすべてが、遠い昔のことのようだった。
「エレオノーラ」
国王が彼女を呼んだ。
「はい、陛下」
「そなたには、王家として詫びねばならぬ」
エレオノーラは静かに膝を折った。
「恐れ入ります」
「望むことはあるか」
広間中の視線が彼女へ集まる。
金。
名誉。
地位。
望めば、多くのものを得られるだろう。
けれどエレオノーラが欲しいものは、決まっていた。
「では、恐れながら」
「申せ」
「ルシアン殿下からの婚約破棄を、正式にお受けいたします。そのうえで、今後わたくしの婚姻について、王家からの命を受けぬ自由をいただきとうございます」
王妃が、痛ましげに目を伏せる。
国王は深く頷いた。
「認める。そなたの潔白と聖女としての功績は、王家と教会の名において正式に公布する」
「感謝いたします」
エレオノーラは立ち上がった。
その姿は、今夜の誰よりも美しかった。
その時。
ミレーユが動いた。
衛兵に囲まれながらも、彼女は近くの卓上にあった果物ナイフへ手を伸ばす。
誰かが悲鳴を上げるより早く。
黒い侍女服の影が、音もなく滑り込んだ。
エレオノーラ付きの侍女、クロエだった。
クロエはミレーユの手首を押さえ、にっこり笑う。
「だめよ、お嬢さん」
ナイフが床に落ちる。
からん、と乾いた音が響いた。
「その幕は、もう閉じているわ」
ミレーユが震えた。
ルシアンも、衛兵も、周囲の貴族も、クロエの異様な速さに息を呑む。
だがエレオノーラだけは、目を伏せた。
ほんの一瞬だけ。
指先が、かすかに震えた。
「……クロエ」
「大丈夫?」
「ええ」
エレオノーラは、すぐに微笑んだ。
「ありがとう」
「どういたしまして」
クロエは艶やかに笑う。
その赤い唇には、侍女らしからぬ妖しさがあった。
ミレーユは衛兵に取り押さえられ、今度こそ引きずられていく。
「いや! 離して! お姉さまなんか死ねばよかったのに! あんたさえいなければ、わたくしが全部手に入れられたのに!」
その叫びが、扉の向こうへ消えていく。
ルシアンもまた、近衛に腕を取られた。
「待ってくれ、エレオノーラ!」
彼は初めて、縋るように彼女の名を呼んだ。
「私は間違えただけだ。君なら許してくれるだろう? 君はいつも私を支えてくれた。今回だって――」
「ルシアン殿下」
エレオノーラは、美しく礼をした。
「わたくしの役目は、ただ今をもって終わりました」
それだけだった。
ルシアンは言葉を失い、連れていかれる。
大広間に、重い静寂が残った。
誰も踊らず、誰も笑わない。
ただ、すべての者が見届けた。
偽聖女、魔女、悪女と呼ばれた公爵令嬢が、涙一つ見せず、怒鳴りもせず、ただ一つ一つ真実を並べ、愚かな者たちに自ら罪を語らせた夜を。
エレオノーラは、扇を閉じる。
ぱちん、と小さな音が響いた。
それが、幕の下りる音だった。
◇
夜会の後。
王宮の庭園には、月明かりが降っていた。
白い花々は静かに揺れ、遠くの大広間からは人々のざわめきだけが微かに漏れている。
エレオノーラは、ひとりではなかった。
隣には、黒い侍女服のクロエがいる。
「見事だったわ」
クロエが言った。
その声は、先ほどまでの女のものとは違っていた。
低く、甘く、どこか人をからかうような響き。
「さすが、三度目ともなると手際がいい」
エレオノーラの足が止まった。
彼女はしばらく黙っていた。
やがて、静かに息を吐く。
「……意地悪ね、クロム」
クロエが笑った。
その姿が、ふわりと黒い霧に包まれる。
次の瞬間、そこに立っていたのは侍女ではなかった。
漆黒の髪。
浅黒い肌。
赤い唇。
背に揺れる黒い翼。
美しい悪魔のような男が、月明かりの中で愉快そうに目を細めている。
魔王クロムウェル。
雪の牢獄で、エレオノーラが血の魔法陣によって呼び出した存在だった。
牢の床に途中まで描かれていた魔法陣におのれの血を書き加え、願ったのだ。
「だって本当だろう?」
彼は笑う。
「一度目は、声を奪われた」
エレオノーラの喉が、無意識に震えた。
毒で焼かれた痛み。
魔力封じの首輪。
弁解もできぬまま、偽聖女として教会に引き渡され、聖女の称号を剥奪された夜。
そして、雪の牢獄で命が消えかけたあの寒さを、彼女はまだ覚えている。
「二度目は、勝ったと思った瞬間に刺された」
背中が、かすかに痛んだ気がした。
ミレーユの叫び。
ナイフの冷たさ。
遠のく意識。
そして、クロムウェルの舌打ち。
『詰めが甘いな、お前』
あの時の言葉まで、鮮明に覚えている。
「だから三度目の今夜は、最後の刃まで舞台に組み込んだ」
クロムウェルは、心底楽しそうに言った。
「いい芝居だったよ。実に退屈しなかった」
エレオノーラは、扇で口元を隠す。
「芝居ではありませんわ」
「そう?」
「ええ」
彼女は月明かりの中で、まっすぐ前を向いた。
「あれは、わたくしの人生です」
クロムウェルは、少しだけ目を細める。
からかうような笑みが、ふっと和らいだ。
「なら、今度こそ取り戻せた?」
「まだですわ」
エレオノーラは答えた。
「名誉は取り戻しました。声も、魔力も、命も。けれど、わたくしの人生はこれからですもの」
「欲張りだな」
「淑女は、欲しいものを簡単には諦めませんの」
「なるほど」
クロムウェルは喉の奥で笑った。
「それでこそ、俺が選んだ女だ」
エレオノーラは彼を見上げる。
「退屈はしませんでした?」
「ああ」
「では、これからも退屈させないよう努力いたしますわ」
「それは楽しみだ」
遠くで、鐘が鳴った。
春告げの舞踏会の終わりを知らせる鐘だった。
けれどエレオノーラにとっては、始まりの音だった。
翌朝、王都には勅書が掲げられるだろう。
ルシアン元王太子の失脚。
ミレーユの罪。
エレオノーラの潔白と、聖女としての功績。
人々は語るだろう。
偽聖女と呼ばれた公爵令嬢が、いかに美しく自らの汚名を雪いだのかを。
けれど、誰も知らない。
あの華麗な断罪劇が、一度目の絶望と、二度目の失敗を越えて完成された、三度目の舞台だったことを。
エレオノーラは、静かに微笑んだ。
声には出さない。
けれど、その心は確かに告げている。
――華麗なるざまぁを、魅せて差し上げましたわ。
Fin




