肌を隠したり見せたりチラリズムだったり
肌を隠すことは何かと色気が出るものだ。普段見えているはずの部分が見えずに隠れているはずの部分がでてもちょっとはっとしてしまう。そういう肌を隠したり出したりする話だ。
別にスケベな話ではない。いつもマスクをしているキャラクターがマスクを外したときの素顔にハッとするとか、そういうレベルの話である。当たり前に見えている顔が隠れていることを普通と感じる程慣れた後、顔が露わになるとなにか見てはいけないものを見てしまった気分にならないだろうか。
そういう隠れているものが露わになるということに若干カタルシスを感じることもある。やっと見えたとか、ようやくみんなに知れ渡ったとか、そういう感覚である。正体がわかってすっきりしたようなものだろうか。
何にせよハッとすることは確かだ。当たり前と思っていたところの様子が変わると驚いたり何か新鮮な気分になるものである。そういう驚きに色気を足したのが肌を隠したり見せたりとかいうことにつながるのだろう。
好みとしては隠れている部分が何かの拍子に見えるというやつが好きである。いわゆるチラリズムだ。よくあるものだと手袋とシャツから垣間見える手首とかスカートから見える太ももとかそういうものだろう。
ここで大事なのはモロに見えないことである。見えないからこそいいものがあるのは周知の事実だろう。見えたり見えなかったりするから気になるものなのだ。
それと見たいところを全部見ると人間は飽きるものである。見えない部分があってわからないからこそ飽きずに見続けるところもあると思う。見えない部分への憧憬と想像は忘れてはならない。
背中が隠れているのに大きく開いて背中が見えているというのも中々色気がある。隠れているから気にしないが開かれていると気にしてしまう部位でもある。不思議なものである。
見えない部分について、想像を巡らせることは楽しいことである。見えたらいいなとこうだったらいいなという想像と願いが両立する状態である。そういう想像の楽しみは多い方がいい。
チラリズムの良さは想像の余地があるところだ。見えないなら何を想像したっていいのだ。想像するだけなら自由なのだから。
結局のところ肌を隠したり見せたりすることは驚きと想像を使うものである。驚きに色気が加わるから印象深く残るし、見えないからこそその下に何が隠されているか想像する余地が残される。そういった知的好奇心を刺激するから好みであったりするのだ。




