そういえば憎しみとか
そういえば憎しみについて書くと筆が乗る。思うことが多いからだろう。昔は憎しみを原動力に生きていたくらいだった。
今は大分凪いで憎しみよりは楽しみで生きるようになってきたので平和である。楽しみを糧に生きた方が健康にもいい。だが仄暗い憎しみで強く足を踏みしめることができるのも確かである。
昔はよく憎しみを抱いていたものである。かつて自分を理不尽な目に遭わせた人間とかに抱いていた。そういう人は多いことだろう。
そもそもいきなり憎いとはならないものである。嫌な気持ちを味わった経験からそれに仕返しできないとか我慢させられるとかで熟成されて憎いという気持ちができるような気がする。憎しみ熟成職人である。
熟成した感情が憎しみなのだろう。嫌とか不快とかではない明確な害意とかが混じっている。嫌な気持ちを害意にまで熟成させるようなことをされてきたのだと思うと呆れてしまう。
まあ本人はゴミ箱にゴミを捨てたくらいの気持ちだろう。憎しみは大体受ける側はなんとも思ってないことが多いものである。憎しみを抱く方は結構根深くなるのだ。
なんともアンバランスな気がする。憎しみはそもそもアンバランスな感情かもしれない。変なものができてしまったものである。
私の憎しみは怒りとか悔しさとかそこら辺の外向的な感情がメインの成分である。悲しみとか辛さは少なく単に自分が舐められていることが我慢ならなかったのだろう。自分がかわいそうと思うより相手に突っかかるタイプの憎しみを抱いていたのだ。
よく復讐についての話題でするしないがあるが大体の人が憎しみを抱いたことがあるから何度も議論されるのだろう。吐き出したり発散させられるならやりたくなるのもわかる。それはそうと他者を害することを禁じるルールは両立するので罰は受けるだろう。
やるやらないの是非は他に任せるとしてやるならその分罰として返ってくることくらいは受け止めるつもりでいればいいのではないか。やらないならやらないでため込んだものをうまく発散すればいい。どのみちすぐに答えは出ないものである。
あと憎しみは抱いていると割と疲れやすいので早めに何か別の感情で生きた方がいい。憎しみは発散するとそれきりだが楽しいとか嬉しいとかは次につながっていくのだ。できるだけ持続できる感情をエネルギーにして生きていきたいものである。




