2 異世界に転生しました
私、ヘンリエッタ・オズボーンは、生まれた時から日本人として生きていた前世の記憶を持っていた。
赤ん坊だったけれど、大人たちの会話や周りの風景から、自分が生まれたのは日本ではないことが分かった。
初めて鏡を見た時は驚いた。
両親が西洋人っぽい見た目だったので自分もそうなのだろうとは思ったけれど、まさかピンクブロンドとは思わなかった。
瞳の色は蜂蜜色で、なんともまあ甘い顔立ちだ。
一瞬、頭の中に、「ピンクブロンドの男爵令嬢」という声が聞こえて焦った。
前世の乙女ゲーム好きの友人の声だ。
……はは。まさかね。
異世界に転生したっていうだけでお腹いっぱいなのに、ここがゲームの世界だとか――冗談じゃない。
まあ仮にそうだったとしても、私は乙女ゲームなるものをやったことがないので知る由もない。
物心つく頃には、我が家の置かれている状況を理解できた。
男爵位は持っているものの、領地持ちではない。
主に平民相手に薄利多売の商売をしている。
扱う商品は生活雑貨全般。店舗のイメージは前世のホームセンターをうんと小さくしたような感じ。
貴族相手に高額な贅沢品を売れば儲けも大きいが、そのためには貴族として社交に励み、それぞれの家の力関係を天秤にかけながら、常に勝ち組を見極める必要がある。
王都には住んでいるけれど社交をしていない貧乏男爵家には土台無理な話だ。
祖父の代にはそれなりに貴族との付き合いもあったらしいが、父の代になってからはほぼ平民として暮らしている。
おそらく我が家が貴族名鑑に載っていないため、忘れられているのだと思う。
貴族名鑑は毎年改訂版が出るが、ある時、編集を担当している事務官から、「掲載は領主だけに限った方がよいのではという意見があるのですが……」と、思い切り「賄賂を寄越せ」的な打診があったらしい。
興味のない父は、「はぁ……」とスルーしてしまったため、その年から掲載されなくなったのだ。
まあ、国の公式な記録には『爵位返上』という記載はないはずなので、今も父は男爵のままだと思うけれど、どうなんだろう?
私は、幼馴染のルイーザ(もちろん平民)と一緒に、平民が通う学校で初等教育を修了した。
幸い前世で学習した記憶はそのまま保持していたため、この世界での学び直しは不要だった。
もちろん、間違っても『神童』と言われないように試験の出来を加減する配慮は忘れなかった。
この世界は前世の中世ぐらいの文化レベルなので、衛生面や防犯面が心許ない。
前世レベルの『安全な暮らし』はこの世界には存在しない。
護衛に囲まれた高位貴族だって、権力闘争の最中では、毒殺や暗殺といった危険が常に隣り合わせだろう。
ないものねだりをしても仕方がないので、現状を受け入れて最善を尽くすのみだ。
前世では空手初段だった私も、体の発育を待たなければ自己防衛ができない。これが一番悩ましかった。
小さな体ではいくら必死に走って逃げたところで、すぐに捕まってしまう。
だから危ないところにはできるだけ近づかないように、いつも信頼できる大人の近くで過ごした。
ただ、成長したらしたで、女性特有の危機が増すことになる。
八歳になった私は、思い切ってルイーザを誘ってみた。
「ねえ、ルイーザ。もう少し大きくなったら大人の男たちに気をつけないといけないって知ってた?」
「知ってる。宿屋のカレンさんが出かける時はいつも使用人を連れている、アレでしょ?」
「そう。力比べだと女は男に敵わないからね。悪い奴は力ずくで女をどうこうしようとするから、私たちは逃げる術を身につけておくべきだと思うの」
「すべ? ヘンリエッタは相変わらず難しい言葉を知ってるね。でもまあ、言いたいことは分かるよ」
私の口調が子どもっぽくないのは今に始まったことではないので、ルイーザはいちいちツッこんだりしない。
「それでね。私は体を鍛えようと思うんだけど、ルイーザも付き合わない?」
「へえ。何だか面白そう。いいよ」
かくして、私はルイーザに、柔軟体操や、スクワット、腕立て伏せなどを伝授し、お互いに時間が合えば一緒に原っぱで鍛えた。
お互い、家の手伝いをしなければならなかったので(ルイーザの家は八百屋だ)、時間が合わない時は自主トレに励んだ。
憧れは、オリンピックで金メダルを取られた選手の、『一トンの蹴り』。その数十分の一でもいいから到達してみたい。
十歳になると、本格的に家業に口出しするようになった。
贅沢をしたいとは思わないけれど、蓄えはあった方がいいに決まっている。
この世界の文化レベルを逸脱しない範囲で、誰もが思いつきそうな便利グッズを父に提案した。
『フック』だ。あの両面テープで壁に貼るやつ。
さすがに両面テープはないので、壁に接する平らな部分に小さな穴を開け、釘を打ちつけて使うよう説明しながら販売した。もちろん木製だ。
これが狭い家に住んでいる平民にウケた。
最初は使い道が分からなかったらしいが、他人の家で使われている様子を見て、じわじわと口コミで広がっていった。
模倣されても構わないと思っていたけれど、そもそもこの世界にヒット商品の紹介やランキングなどは存在しないので、競合は現れなかった。
気をよくした私は、カラビナのようにあちこちに取り付けられるS字フックを導入した。
これはめちゃくちゃ売れた。売れすぎて心配になるほど売れた。
間違ってどこかの貴族の耳に入ったらどうしようかと心配になったが、嬉しいことに競合が食い付いてくれた。
今では五社から販売されている。他社の店舗の品揃えや客の購買行動を観察した結果、おそらくウチの商品のシェアは三十%くらいで二位か三位くらいだと思われる。
次は椅子や机、棚にキャスターを付けて売り出そうと思っていたけれど、さすがに立て続けにヒット商品を生み出すのは危険なので、しばらく凍結することにした。
父に商売っ気がなくてよかった。
私がフックを思いついただけで満足してくれたのだ。
そんな風に過ごしていた私の元へ(正確には父宛に)、ある日、恐れ多くも国王陛下の名が冠された手紙が届いた。
初めて見た封蝋がされた手紙。
それは、貴族が通う王立学園の入学試験の案内だった。




