1 落城
よろしくお願いいたします
赤の王。その名前はあらゆる大陸の文献に残っている。だが、その人物がどのような人物だったのかわかるような記述はほとんどが残っていない。それどころか一体何を成し遂げ、どのようなことを行ったのかすらほとんど判明していない。
その存在のほとんどが謎に包まれた赤の王だが、残っている文献が特定の地域ではなく、世界中から見つかっている事、そして種族や言語の壁を越えて共通の記述があることから、その存在は作りものではなく、確かに存在していたことを表している。
『恐れ、崇めよ。そして叫べ。死の支配者である我が王の名を』
たったこれだけの文章が、あらゆる言語で、あらゆる種族の間で残っている。
赤の王とは何者なのか、現代でわかることは数少ない。それでも、赤の王は時代を超えて多くの生物を魅了している。
赤の王を研究する者たちの間で、いわば標語のようになっていることがある。赤の王を知りたいのならば、時を超え、赤の王と共に生きるしかないと。
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「はぁ、はぁ、はぁ……っ!」
「お嬢様!? 立ってください!」
足が今にも燃え上がりそうに熱い。外を歩くことなど滅多になかった私がもう30分近くも走り続けているのだから無理もないわね。走りずらい社交界用の靴などとっくに脱ぎ捨てた、私の引きこもりで鈍った体のことだからきっと足の裏は血にまみれているのだと思う。そんなことを確認するような暇はないのだけれど。
頭から血を流すようなけがを負いながらも、私に肩を貸してくる侍女。もう私と一緒に走っているのはこの侍女一人だけになってしまったわ。逃げ始めたころは何人かの騎士や私の側使いもいた。
だけど、逃げているうちにみんな死んでしまった。……いや、私を逃がすために死んだのよ。
震える足を無理矢理動かして薄暗い洞窟を走る。
「もう少し、もう少しですお嬢様!」
私たちの城……いや、もうすでに私たちのものではなくなっているか。その城にはいざというときに要人が逃げるための通路がある。いわゆる国家存亡の危機に陥った際に、再起を図るための戦力や人物を逃がす目的でしょう。
ただ今回は違う。逃げているのは私だけ。ただ王の娘として生まれただけの、なんの力もない小娘1人だけ。
どうして? なんで? 私よりも価値のある人間はこの世に星の数ほどいるというのに。そんなことがぐるぐると頭の中で回って止まらない。
「はぁ、はぁ、っ?!」
涙で滲んだ視界に加えて、まともな思考も出来ない状態では走ることなどできず、私は段差につまづいて硬い地面に転がった。
っ……早く逃げなきゃ行けないのに、足が動かない。
「お嬢様! くっ……お嬢様失礼します」
「きゃ?!」
侍女は私の体を力任せに持ち上げ、担いだまま薄暗い洞窟を走る。
「しっかり掴まっててくださいね!」
そう言われても丸太のように担がれたこの状態ではどこも掴めないのよ。できる限り侍女に負担が掛からないよう、必死で掴むけれど。
「見つけたぞ!」
その一言で身体が芯から凍りつくように固まる。怒号に近いその声と共に、私たちが逃げて来た城の方向からいくつもの灯りが見えてくる。
松明の灯りだ。照らされて見えるのは鎧に身を包んだ兵士たち。本来ならば光に照らされて輝く鎧は大量の返り血でどす黒く染っている。
私という獲物を見つけた途端、さらに速度を上げて彼らは私たちを追ってくる。
「着きました!お嬢様!」
良かった! 間に合っ……た……
「……崖じゃないのよ、これ」
侍女から降りて、たどり着いた先の光景を見る。そこにあったのは崖だった。そこが見えないほどの高さの崖だ。
ここが目的地? どうやってここから逃げるって言うのよ!
目的地への希望だけを頼りに体を動かしていたからか、一気に力が抜ける。侍女は崩れ落ちそうになる私の体を受け止め、まっすぐと目線を合わせてくる。
「いいですか、お嬢様。私の言うことをよく聞いてください」
時間がありませんから。
侍女は追っ手の方をちらりと見てそう呟いた。その目に映った覚悟がどれほどのものなのか分からないけれど、私には到底真似できないものなのは間違いない。他人のために命を懸けるのがどういう気持ちなのか、私にはまだ理解できないから。
けれど、その気持ちに応えないというわけじゃない。命を懸けて私を守ろうとしてくれているのであれば、私は己のすべてを使って生き延びなければならないんだと思う。
だから、私は真剣に侍女の言葉を待った。
「今からお嬢様には飛び降りてもらいます」
「……は?」
真剣に聞いたというのにとんでもない言葉が返ってきた。飛び降りるって、この崖を? そこも見えないくらい高いのに?
「落ち着いてくださいお嬢様」
「落ち着いていられるわけないでしょ! どう考えても死ぬわよこんな高さから飛び降りたら!」
「それしか方法がないんです。耳を澄ませてくださいお嬢様、水の音が聞こえてくるでしょう? この崖の下には川が流れています、飛び降りても死ぬことはないでしょう」
この高さだったら水が流れていたとしても死ぬ気がするのだけれど……。侍女はそんな私の心配をみすかしたように微笑みながら、私の胸元に手を当てる。侍女の手が淡く光り私の中に何かが入ってくるような感覚を覚える。
「……これはお嬢様の身体を守る魔法です。魔力の通りずらいお嬢様の身体でも、ここから飛び降りても死なない程度には効果を発揮するでしょう」
微笑みながら言われても困ってしまう。死なないだけで大怪我を負うかもしれない。だって魔法でしょう?! 生まれてこの方、魔法に助けて貰ったことなんて1度たりともないのに信じられるわけが無い。
私は嫌だ、そんな信用度の低い物に命を賭けるなんて……。
……いや、違う。私はここで死んでもいいと、心のどこかで思ってしまっている。苦しんで、怖い思いをして、色々な人の命を踏み台にして、それでも生きていくのが怖い。
「お嬢様。考えていることはわかります」
「え、なんで……」
私は何も言っていないのに、心の内を全て見透かしたような態度の侍女に驚く。
「なんでって、何年お嬢様を見てきたと思っているんですか? 確かに、私は何十人といる侍女の1人に過ぎませんし、最後までお嬢様の護衛を任せていただけたのもただ運が良かっただけでしょう。それでも、私にとってあなたは自分の命よりも大切なんです」
そんなお嬢様の考えていることくらい、見れば分かりますよ。
そう言って侍女はニッコリと笑った。そしてゆっくりと立ち上がる。既に追っ手の声がすぐ側まで来ていて、私は怖くてそっちを見ることが出来ない。
「……時間です。お嬢様」
「待って! 私は……!」
「生きてください、お嬢様。……さようなら」
とん。侍女は私の体を優しく押し出した。身体がふわりと浮く感覚に恐怖が襲ってくる。
それでも、崖に落ちていく私は最後まで侍女のことを見ていた。強い衝撃と冷たさが身体に襲いかかるその時まで。
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