2023年3月、京都⑤
「四角い固形食料を持っていくかと思いきや、握飯とはな」
菫と熊に頼んで米を一升炊き、手分けして握飯を作っていると、忠遠が台所を覗きに来た。
「食べた実感があるんだよな、こういうものって。消化がいいとかエネルギー効率がいいとかそんなの、どうせ大差ないんだ。それにさ、さっきちょっと買い物出たら葉つきの蕪があってさ」
「菜飯にしたのか。しらす、胡麻、鮭って、遠足か」
「五合じゃ足らないかな?」
好きにせい、と忠遠は苦笑いする。
「…さっきさぁ、自分が渇望…って程飢えてたわけでもないけど、あぁこういうのだったんだよな、って思ってさ」
メイアンはその容貌に反して意外に整った三角の握飯を作る。
なんの話なのか咄嗟には分からなかったようで忠遠は促すように顎を抉る。
「ヒュームかなぁ。共感からくる広い感情とか価値観の共有っての?こいつも同じこと考えてる、自分の考えは悪じゃなく善なんだ、こういう肯定感」
「自己肯定感ならニーチェだろう」
「うはーやだねっ、哲学にも精通してんのかよ忠遠?ヒュームより百年後のドイツより、自然科学の芽生えと成長期の英国、特にスコットランドの方が馴染めるね」
「日本人の気質かな」
そうかもね、とメイアンは肯首しながらまたひとつ握り終えて同じように並べる。仙などと如何にも東洋的なことを言う忠遠からニーチェが出てくるとは思わなかった。これが千年以上の時間を使ってきた結果なのだろうか。
「ヒュームを始めカントやデカルトは、己があって、他者と関わることは付随だった筈だ」
「なに詳しい」
「他者と共に生きる、を提唱したのはヘーゲルだ。過去の哲学者や思想家がなんと言おうと、自己を形成するには他者が要る。他者は、必ず合わせ鏡だ」
ヘーゲルときたか。
「うへ、論文書いてそう」
「ふふふ」
忠遠は返事になるようなならないような笑いを返して、支度ができたら呼べ、と言い残し台所を出ていった。
握飯を風呂敷に包み、バックパックにCz75と共に詰め込んだ。服装は態とらしくストレートのブルーデニム、ローゲージのオーバーサイズニットは鹿の子編みでスモークグリーン、オフホワイト寄りのシンプルなウールコート。クリームがかったキャメルのサイドゴアブーツは実はワークマンの安全靴で鋼先芯が入っている。ユニクロのボディバッグは品切れ寸前だったから色が適当。だからパープル。ペットボトルとぎりぎりMacBook Airが入る。
「…あ、あのね?」
珍しく菫が物怖じしながらメイアンの傍にやってきた。
「ん?」
「とのさま…じゃなくてたださんは、ね?実はヘーゲル、読んだんじゃ、ないの」
「そうなんだ。それであんだけ語るって凄いな」
すると菫は目を丸くした。
「読まなくても、いいのっ?」
メイアンは苦笑いする。
「そりゃ全編読み通して読み解くのは素晴らしいさ。でもヘーゲルなんて世界三大難書だよ?それ読破するとなると普通の人生じゃ数時間とはいかない」
「そんなに?」
「難しいんだって。その上哲学思想を理解するには三十年くらいかかるもんじゃないかなあ。ねえねえ、忠遠はどうやってヘーゲルをクリアしたの?」
「…内緒にしてあげてくれる?あのね、国営放送の、四週かけて解説してくれる教養番組、なの」
「ほほう!それは効率的だな!」
「馬鹿にしないの?」
「なんで?人文系の大学生だってそういう教師に先人の仕事をそうやって教え授るんだ。寧ろ映像を駆使して解り易く作ってある分、効率的じゃん。それが契機になって読み始めたらハードル下がるだろうし、連鎖的に関連図書に手を出すかも。知の広がりを読書だけに頼るのは愚直が過ぎると思うね」
メイアンはバックパックを担ぎ上げる。
「狡を…してると思ってた」
「まあ、正攻法ではないけどな。邪道や奇策が悪手では決してないんだ」
「そっか…いいんだ」
「菫も難しいから頁を捲ることもしてないなら、そっちから入ったら?歴史の学習漫画とか、科学図録とか、学校にだってあるでしょ」
「先生はちゃんと本を読んでからって言うよ」
「鶏が先か卵が先かってくらいくだらないね!そんなごんごちには可愛くハーイって返事しといて、読み易い方から取りかかればいいじゃん。得てしてそういう教師は結果的に習得してりゃ自分の手柄だとばかりに喜ぶもんだ。馬鹿には勘違いさせとけ」
「先生は、馬鹿なの?」
「馬鹿、は決してその個人全体を示すものじゃないぞ。知の集積なら先生なるを秀でてる人はいるし、遅れを取ってる人もいる。その先生が馬鹿なのは菫について、だ。そんなの、賢くなられたら、嫌でしょ?だから勘違いさせたまま放っておけばいい。菫は勝手に賢くなっていい」
「ふーん…」
菫は完全に納得した風ではなかったが、ここで切り上げることにしたらしい。こういう部分が賢いんだよな、と思いながら菫の天辺を軽く撫でた。
「行ってくる。留守番、頼むよ」
ボディバッグも肩にかけたとき、玄関の呼び鈴が鳴った。こんな時刻に誰だ、と茶の間に行きながら玄関を窺うと、逆に来客の方に目敏く見つけられてしまった。
「はぁい♡メイアン♡」
「えぇ?池田…霧香?」
彼女は昨晩と同じく秋津運輸の制服で、しかし昨晩見たより動きが軽やかな気がする。ふわっと波打つ髪を軽く揺らして身体を傾げ、奥まったところにいるメイアンに手を振る。仕方無くメイアンは荷物を置いて上り框まで出ることにした。横の忠遠の表情がなんとも読取り難い。
「昨日ね、本体だけ渡してこれ、出し忘れちゃったの」
そう言って差し出したのは黒いショルダーホルスターだった。
「あんな堅牢で正確な銃を持って行くってことは、なにかしようってことじゃない?なのに常に片手が塞がっていたら不便極まりないでしょ。秘匿性からショルダーにしたけど」
「いや、ありがたいよ。どこかで調達しようと思っていたから、助かる」
「消音器とかも必要だったかしら?」
「言い出したら限ないさ。ぶっ潰しに行くんじゃないし」
そう、と霧香は歌うように呟いた。
「…ワグネルはそろそろ弾薬が尽きる頃合いよ」
「草船借箭の計でも巡らすのかね」
「あー…赤壁の戦いね。矢ではないから回収不可能だし、抑あれは三国志演義の創作でしょ」
「あは、そうだね。無論前政権まで酷い汚職が続いてゼレンスキー政権も多分へにゃへにゃだろうという読みが間違っていたんだ。この時点でこの侵攻をやめるべきだったのを、ワグネルフル活用で強行突破しようとしたのが運の尽きだったと思うよ」
忠遠が静かに口を開く。
「なぜワグネルを使うんだ?」
「ワグネルは非合法組織なんだよ。というか、存在そのものがないことにされてる。だからどんなに活躍したって手柄は正規軍のもの。逆に全滅したって、誰も補償しなくていい。悪虐非道を尽くしたとしても、非難する先が無いことになる。戦争における所謂反則を堂々できるってわけだ」
「そこの弾薬が尽きる、とは?」
「供給を渋られてるの。だって戦況はよくないし、全世界から非難されてる。潮時を見据え始めたのね、多分」
霧香は溜息のように言う。
「成程、色々得心がいった」
玄関先で低い唸りがずっと続いている。霧香はにこりと笑った。
「じゃ、またね」
どうやら長距離輸送用の大型トラックが表に停めてあるようだ。彼女はそれを運転してきたらしい。それが去ると途端に静かになった。
「…ちゃんと運送会社なんだ」
「秋津運輸?」
「でなければ企業として成り立たぬだろう」
「あの人が現場に出てるとは思わなかったよ」
改めて荷物を持ってくる。忠遠は熊と菫に戸締りを頼み、暮れ始めた庭に出た。直ぐさま龍の背に乗り、一直線に上空に上る。メイアンはニットの下にもらったばかりのホルスターをつけ、Cz75を収めた。
「…忠遠はどう思う?」
「なにを?」
「クレイウォーターは敵対するワグネルと手を結んで毒ガスを実証しようとしてるじゃん?なんでいきなり毒ガスに飛躍したのかな」
「ふむ。白燐弾を使うような状態の連中だ。毒ガスの方が安価なのでは?」
「白燐弾は焼夷弾だからな、爆撃機から落とす物だぜ」
「ワグネルがやったのではない、と?」
「さあ?陸上部隊が主力の筈だからなぁ。ガスを撒くにしたって、ある程度の装備は要るからガス弾だけ手に入れたらいいってものでもないんだが」
「美味しいところだけの情報で動いているという印象だな」
「ワグネルが?」
「いや、クレイウォーターも。発案の主体は両者どちらにも無いのではなかろうか」
セットアップを終えてからメイアンはクレイウォーターのサーバにアクセスしてみた。個人の権限がないと閲覧できない部分が多くて諦めたが、経理面は緩かった。無論、不正アクセスではあるが。
メイアンはバッグバックから握り飯を取り出しアルミホイルに包んだ握り飯を取り出した。
「忠遠も食べる?」
返答を聞く前にひとつ渡して自分の分を開き、齧り始める。
「本部はヴァージニアのレストンなんだけどさ、ディズマル湿地の訓練場の方に行く」
忠遠は眉を顰めた。
「なんと。クレイウォーターは対ベトコン訓練をまだ続けているのか」
「苛烈さで言ったらあれに勝るものが無いんでしょうよ。結局ドンバスやハリコフでは只管泥を掘って塹壕を巡らして、だったからね。地上の戦い方なんて五十年くらいじゃ大して変わらんのよ」
「…クレイウォーターではハリコフと呼ばわるのか」
「Khar’kov…ああ、ロシア読みってこと?Харьковをまんまラテン文字に当て嵌めただけ…ウクライナ語でХарків、か。国際情勢的にはKharkivだな。あー、英語じゃまだ…違うな」
メイアンは下唇を摘んで言葉切った。
「…忠遠はそう読むのかい」
「そうとしか読み取れぬ」
「嫌だ嫌だ。マッチポンプじゃんよ」
「戦争では百人殺せば英雄だ。街中で平時に同じことをすればただの異常な犯罪者。それを踏まえて言えば周到だな」
「同感。…読めてきたな。ウクライナを奪い取るのにどういう手段を取るか見越していたやつがいる。それがガスを持ってきたんだ」
「ならばレストンの方がわかるのではないのかね?」
「いんにゃ」
メイアンは首を横に振った。
「あっちの方がガードが固い。人の出入りも激しいディズマル湿地なら、かなり穴がある」
「よかろう。やりたいようにするがいい」
「Дуже дякую」
態とウクライナ語で言ってみる。すると悪戯っぽい目で忠遠は笑いながらこう答えた。
「Нема за що」
これには苦笑いするしかない。一体こういうのはどこで即席に身につけたんだい、と改めて菫に問うてみたい。
明日また午前0時10分に更新します。