1923年9月、ヴァール④
瞬きができなくて乾燥していた一初の目が滂沱でぐずぐずになった。
「…泣かせちゃった」
「泣くよ!つかお前が泣けよ!」
枕許のティッシュボックスを前に置いてやると、恥も外聞もなく洟をかむ。ゴミ箱も要るな、と目で探そうとしたとき、一初は洟を啜り上げながら言った。
「脱げ」
「えぇ?いっちゃんえっち」
「馬鹿言ってないで、脱げ。背中見せろ」
「せくはら〜」
混ぜ返しながらも背を向けてTシャツを脱ぎ捨てる。改めて一初に背中を向けてやると、暫く凝視したのち、そっと傷に沿って指が触れてきた。
「こちょばい」
「変に戯けるな。はぁ。鋸の傷だったな。こんなでかい痕になるって、あぁ、傷が治る前後が成長期だったんだな、本当なんてことしやがる」
「百年前の人にいっちゃんが怒ることはないよ。不況にファシズム、漂う不安感。人類が厨二病な時期」
一初は頬をメイアンの背中に寄せた。涙が残っているのがわかる。
「いっちゃんもヴァールの爺さん婆さん達みたいだ。ほっこり優しくてちょっと頑なで。ときどき思うよ…あんな風に一家惨殺に至らず、折を見て集まっては家庭料理の晩餐なんてことができてたらなって。でも家が焼け落ちて、薔薇園も焼けてしまって、守るべきものが失われて、だのにひとり残ってしまった。思い返してみれば、多分ここで仙になったんだろう」
「確信的だな」
まだ鼻をすんすんいわせている癖に一初は強がってみせる。こういうところが可愛いんだよと、直接言ったら更に反発するだろうなと笑みが浮かぶ。
「瓦礫被ったし火事の中から救出されたのに、全く無傷ってのは面妖しいでしょうよ。五人の葬儀を済ませて家の残骸も片づけて」
「再従兄も弔ってやったのかよ」
「だって死体を転がしとくわけにもいかないでしょうよ。関わり方が違ったらちょっとやんちゃなお兄ちゃんだったかもなあとか、思っちゃうのよ」
「はぁーっ、お人好しめ…」
「ひゃひゃひゃ背中で溜息吐くなってばっ」
一初はやっと我に返ってメイアンの素肌にずっと触れていたことに気づいたらしかった。ぱっと離れるや、ぼすんと音を立てて掛布団に顔を埋めた。
「こっち向き直るなっ、服を着ろよう」
「んも〜脱げとか着ろとか面倒臭いなぁ〜」
Tシャツを拾って袖を通し裾を直したのを見計らい一初は顔を上げぶはあっと盛大に息を吐いた。
「嫌なこと話させた」
「そんなことない。盆供養みたいなもんだ。死んでしまえばさ、優してくれた人も危害を加えてきた人も皆んな仏さま。生者が時折思い出さなきゃ小さな化合物でしかなくなっちゃう。これであの人達を憶えてる人が増えた。いいことをした」
「いいことって、あのなぁ…」
メイアンはもぞもぞと布団に潜り込む。
「ふふ、温い」
口まで潜っているのを見て一初は諦めたように横になり、布団を掛け直してふたり共がはみ出ないようにした。
「なあ、ヴァールの家…その後どうした?」
もうメイアンは目を瞑っていた。
「直ぐにはどうこうできなかったけど、なんのかんの金を作って似たような家を建てて…庭と育苗園をえっちらおっちら作った。いや休暇の度に雑草だらけなもんだからいい加減頭に来て、離れたところに家作って人を雇った。今法人化して運営してもらってるよ」
「そうか」
一初はメイアンに額をつけるように向かい合って目を閉じる。一族をメイアンも失ったんだな、と一初は眠りに落ちる寸前でやっと気づいたが、そのまま意識は落ちてしまった。
朝はタカが忍び足で部屋に入り込んできたが、跫でメイアンは目を覚ました。
「あぁタカさんおはよ〜」
タカは悪戯っぽい表情で口の前に人差し指を立てた。
「おはよう。九頭龍さまから聞いてる。いっちは納得した?」
小声で尋ねる。重い話になったであろうことは想像がついたのだろう。なにか仕掛けて心を軽くしてやろうと企んでいるに違いない。
「全部話した。事実しか話してない」
「そっか。じゃ、話を合わせてくれる?」
返事は顎を引くに留める。再度寝てるふりから、タカは部屋に入ってきたばかりという体裁から。
「いーっちーっ!いつまで寝てんの〜っ!おっはよーっ」
布団を剥がしかけてひとりではないことに気づく、という流れへ。
「ぬわ!メイアン?おいいっち、いっち!」
メイアンは片目を開いて布団に散らばったままの鼻紙をこっそり指し示した。
「ふわ〜っタカさまおはようございますう…」
タカは一初の横で丸くなって未だ眠っているふりを続けているメイアンに驚いたように一初を問い詰める。
「いち!これはどういうことだ⁉︎」
「どう?あぁ、メイアン…メイアン、起きろよう」
「う…う〜ん…あは〜っいっちゃんおはよ〜ん」
態とらしく目を擦り、伸びをし、先に身を起こしていた一初の首に腕を回し撓垂れかかる。
「ふふ。昨日は凄かった♡」
「メメメメメイアンなにっなに言ってんの!」
ぶわと耳が一気に赤くなるも、ブリザード級のタカの冷たい視線にざっと血の気が引く。
「…メイアン?説明して?」
メイアンは一初の首にぶら下がったまま胡乱気にタカに目を遣る。
「タカさ〜ん、おはよ〜。へへっいっちゃんひいひい言わせちゃった♡凄かった〜♡」
タカは然も嫌そうに丸めたティッシュペーパーを摘みゴミ箱に入れてゆく。
「タっタカさま違います違いますっ、メイアン!嘘ぶっこいてんじゃねえ、しゃんとしやがれっ!」
「してるしてる〜いっちゃんたら、いきなり脱げとかもう、イヤン♡」
「イヤンじゃねえよ!タカさま違います!違いますから!」
ティッシュボックスを無言で枕許に戻し、深く溜息を吐いてみせる。最早一初は蒼白で震え始めている。それでもメイアンを突き飛ばしたりはせず、肋の辺りを箱でも持つようにそっと離そうとしている。
ドアの辺りからくつくつと笑う声がした。
「…んもーっ、クラさん、台無しだよ」
「冤罪も程々にしなさい。一初、おはよう。メイアンに迷惑をかけなかっただろうね?」
やっと揶揄われたことに気づいた一初はへなへなと額を抱えた。疾にメイアンは腕を外していた。
「目、覚めたらおいで」
タカとクラが出て行くとメイアンもくるりと脚を布団から出し、持ってきた枕を掴んだ。
「悪い、慌てたおれがいけなかった」
「いっちゃんは男前」
「格好悪かったよ〜言い方はアレだけど、メイアン事実だけしか言ってなかったのに」
「引っかける気満々だったもの。なにも疚しいことはしてないされてない。タカさんもわかってるよ」
メイアンは身を屈めて一初の頬に唇を押しつけた。一初が慌てなかったのは顔が離れてからリップ音がしたからだった。これは友への欧風な挨拶だと直ぐにわかる。
メイアンが部屋を出て行って、ベッドに胡座で取り残された一初はそちらの頬を軽く撫でてみる。こういう態度をとるときの方が余程女っぽい、と。




