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狐と踊れ  作者: 墺兎
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2023年4月、新潟⑨

アバルトが駐車場から出る為に白線の引かれたスペースから移動を始めようとしたとき、メイアンはダッシュボードを掴みはっとしたように声を上げた。

「待って、タカさん!」

アバルトは止まり、九頭龍とクラが驚いたようにメイアンを凝視した。

「トイレか?」

それならトンネルを出てから、と言いかけたところでメイアンは首を振った。

「ちょっとぐるぐるしてる、こんな状態でトンネル入っても訳わかんなくなっちゃう」

「ぐるぐる、とは?」

「今石油はがんがん掘られて悉く燃やしてるし、海水温上昇とか海洋汚染とかで珊瑚礁も随分駄目になってるでしょ?これはもう明日になったら睡蓮の葉で埋まる池なんじゃないの?」

クラが首を傾げた。

「睡蓮の葉?」

「一日で葉が一枚から二枚になる睡蓮がある。六十日で池は葉で覆い尽くされてしまった。この場合、池の半分が葉で埋まったのは何日目?」

「えぇ?うーん、三十日くらいですか?」

九頭龍は一度目を瞬いた。睡蓮の葉の設問を解いたというよりも、メイアンが言った例えで気づいたらしい。

「クラ?これは算数…数学だ。一日で、二倍。六十日目で二倍になって池が覆われた。二倍なったということは、前日は半分だ。つまり答えは五十九日目」

クラはぴょんと両耳を立てた。

「メイアン?そないにお主が世界の環境危機に神経を尖らせてどうするのだ?」

「や、別に、独りでどうこうしようとかそんな思い上がったことは考えてない。だけど、火星とかには住みたくないんだよ」

「火星?あぁ、イーロン・マスクがそんなこと言っていたな?」

「イーロンが言ったからじゃなくて、なんていうのかな、結局地球にいるありとあらゆるものは、今の地球の上で繰り広げられている環境に適応してるんだよ。どんなに近い環境を再現できたとしても…やっぱそれって、贋物だと思うんだ」

クラはメイアンの腕にぽん、と前脚を載せて真っ直ぐに目を見上げた。

「メイアンは、星の子ですねぇ」

すると珍しくメイアンの頬に朱が差した。それを自覚したのか指先を揃えた両掌を顔にべたりと当てた。

「うわーやだー、なんか特別みたいじゃん」

「特別ですよ、ねえ、九頭龍さま」

九頭龍は薄く笑った。

「クラの言う特別と儂の思う特別が同一かどうかは確かではないが…メイアン?大切にしなければならぬことを、見失ってはいけないよ」

メイアンは掌を下ろし、くるりと顔を回した。

「…忠遠から聞いてると思うけど、グレイシャ計画っていう…秘密結社?みたいのが、ね?」

「ああ。人間が多いとかトチ狂ったことを声高に、恐るべき実行力で活動しているという?」

恐る恐る、という風に切り出したメイアンだったが、九頭龍の言い回しに虚を衝かれたように目を丸くした。

「…九頭龍さんは、環境問題の解決に人間の急減は近道だとは思わないの?」

「思わないとは言わないが、そういう安易なことは、しない」

「安易…九頭龍さん、この環境の急激な変化を憂いているんだ」

「そりゃあ、な。それに」

一旦言葉を切って九頭龍はタカに出るぞ、と言った。

「沈埋トンネルなんて、人間がいなきゃできなかろ?」

アバルトが走り出す。如何にも海辺の様相だったのが、右側の法面の木が少しだけ疎らになり、左側は砂の砦が出来上がってきていた。軈て道が下りになり、ふと気づくと左右が擁壁で固められぽっかりと横長の四角い穴が開いていた。その外側右手向こうに塔が見える。アバルトは開口部へ突き進んでゆく。

ルーフが無いのは良策ではなかったのではと思ったが、クラやタカは実体が無生物であるようだし、気にしないのかもな、と思いながらトンネルに突入する。まだ下っている。

「ここからふたつ分の函で下がると、四つ分で四百メートル程の区間、信濃川の真下になる」

急に耳が遠くなった気がして、意図せず耳抜きをしていた。そんなに気圧が変わるものなのかと驚き、平らな部分を暫く進む。この真上に大量の水があるのかと思うと薄ら寒いような気もする。トンネルは左にカーブしているのか先が見通せないまま進み、そしてアバルトは上向きに変わった。水の下を抜け、もう直ぐ出口なのだろう。トンネル内部は照明があり、前照灯こそ要点灯ではあったが視界は確保されていた。そういえば対向車が見えなかったな、と思ったのはトンネルの上部が切れて空のもとに出たときに反対車線に走る車が見えてからだった。

「トンネルの中はこっち向きとあっち向きの車線は壁で分離されてたんだね」

「函を沈める前からもうあの壁は作られていたそうだ。左右に自転車や歩行者の通路もあるのだ」

「そうだったの?うわ、あの距離を歩くの?」

「マラソンのルートにもなっている」

「走るの?!」

調子が戻ってきたな、と九頭龍は笑った。周辺は白い石油の超大型貯蔵タンクが幾つも並んでいる。ぐっと右へのカーブの内側はタンク群ではなくなにかのプラントのようだ。発電所らしい。

「左岸は住宅街と砂浜の海岸だったのに、右岸はコンビナートだ!」

全く違う様相にメイアンは目を瞠る。しかし九頭龍は逆に目を伏せた。

「ここはな、1964年に石油コンビナート火災を起こしているのだ」

「えっ、なにそれ」

「1964年6月16日に起きた新潟地震で最大6mの津波があり、液状化現象により橋が損壊した」

「消防が…」

「消防云々以前に、揺れで灯油やガソリンが溢流したところに火花が散り、引火。保管されていた金属粉と海水が反応し発熱、揮発性の油がそれで更に火が点いてしまった。地震発生から58時間経過した6月18日23時、ボイルオーバーが起こった」

「ボイルオーバー?って?」

クラも初耳だったようで、小首を傾げた。

「ボイルオーバーは原油や重油の長時間の火災の後、燃料層に生じた高温層(ホットゾーン)がタンク底部に存在する水に触れて、水が突然沸騰することで爆発的な火災になる現象と定義されてる。ボイルオーバーは次々に起こり、もう手のつけようがなかった。火災は6月28日まで続いた」

「なっ…十日も…」

九頭龍は飯塚昭三さんの声がイメージ。

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