2023年5月、フライシュタート・バイヤン⑰
翌日になってもグレーゴルは宿酔いも斯くやという程憔悴した状態でハンブルク行きのドイツ鉄道のインターシティエクスプレス、通称ICEに乗り込んだ。
「…まだ続けてんの?」
止めろと言ったのになと思いながら問うと暖海はもう止めてあるのだがなと皮肉げに笑った。
「継続的な音による不調というのはそんなに直ぐには好転しない。列車内で静かになってよいではないか」
「事態としてはいいんだけどさ、現象としてはとてもよくなくない?」
「謎の日本語を使ったな。よくない、の根拠は?」
「たってなんだか麻薬中毒者みたいじゃん。国境を越えられるかな?」
「越えられなかったら置いてゆけばいいではないか」
「貴方偶に非道なこと言うね」
そうだろうかと暖海はにやにや笑いながら列車の旅を楽しんでいるようだ。
ミュンヘン中央駅からハンブルク駅までのICEは最高時速300㎞/hの区間もある高速鉄道である。ドイツは全国に都市が分散しているので、直通列車だけを運行すると、本数が極端に少なくなってしまう。そこでターミナル駅同士を繋ぐような運行形態とし、パターンダイヤにして乗車機会を保つ工夫がされている。所謂特急扱いで、新幹線やTGVとは異なっている。
今日も薄曇り。
雨にならないが明るい陽射しは望めない感じはきっとプラムの所為だなと窓枠に肘を突き頬杖にしてメイアンは思った。思い返してみれば昨日ギージングではほんの10㎞と離れていないのに雲は散り、抜けるような青空が広がっていた。蒼天に舞う白い蛇龍という構図は印象的だった。
昨晩夢渡りでやってきた一初は口数が少なかった。メイアンを見るなり小さく息を呑んだようだったが、小さくよく頑張ったと呟いて翼を広げ、メイアンを包み込んだ。あれこんなに大きかったかなと思ったが、ここは精神世界である。大きさなど自在なのだろうと構わないことにした。羽の下にいるとほんのり暖色の中に閉じ込められたようで、やっとほっと息を吐いた気がした。
明日はミュンヘンを発ってプラハへ向かうと伝えると、あまり生き急ぐなと嘆息のように言われた。一初にこんなに心配されるようなことをしたのだろうかと、今も不思議でならない。
「絵描きとはどう話を纏めたのかね?」
「昨日話した通りだよ?」
「四枚の絵を携えて行っただろう」
極力代名詞を使ったのはグレーゴルに聞かれてもいいようにだろう。彼もジャーナリストの端くれだ。
「その中の一枚だけ、自署し直して渡すことにしたんだ。とても気に入ってくれていたからね」
「直すのか」
「とはいえ油絵だから、消しゴムで消し消し消しとはいかないし、水彩じゃないから描いてドライヤー当てたら乾くというものでもない。本当は年単位で保管してからなんだけど、待ってるとあの持ち主が他界しちゃう。取り敢えず一週間経ったら持っていける程度の作業と決めた」
「相当超特急なのだな」
「そうだね。絵描きの方にも急がなきゃなんない理由ができちゃって、それと折り合っての一週間でもある」
「理由?訊いても?」
「うん。恩人の先がそう長くないことを直前まで諦めていたのだけど、諦めきれなくなったってとこかな」
「ざっくりだな」
「細かく言うの、面倒くさい。あれが、いるから」
メイアンは出来る限り小さなゼスチャでグレーゴルを指した。暖海も小さく肯首した。
「時に、如何にして絵描きの本性を暴いた?」
「如何にって、忠遠が右手と左手にそれぞれ術を埋め込んで、それを使っただけ」
「術ぅ?」
暖海はメイアンが引く程驚いて目を剥いていた。
「えっ、なにか、駄目なの?」
「駄目ということはないのだが…」
暖海は頬杖にしている右手を見ていた。
「あ、こっちには本当の姿が見えるってやつ。仙が化けてると、然も見ろとばかりに唸るんだよねぇ、忠遠に言って改良してもらわないと」
「唸る…」
「あは、近づいたらアラートが鳴るのとは違うよ。逆に左手には対象指定で本性に戻しちゃう術。こっちは静かなものだから助かってる」
ひらひらと振った掌を暖海は瞠って、驚きを隠そうともしない。
「やっぱ駄目な部類?」
「い、いいや、すまない。四条があまりにとんでもない術を施しているもので」
暖海は非礼を詫びたが、興味と驚きは尽きないらしい。驚きは軈て眉間に皺を寄せてゆく。
「とんでもない?どゆこと?」
「ううむ…悪いものではないのだが…四条め、どうしてこんな術にしたのだか…」
「こんな?だって、対象の変化を解くだけでしょう?」
暖海は合谷を開いて顎に当てた。まだ首を捻りながら左手を見ている。
「これで術者の意図する範囲を…うむ…解除は二段階…?なんだこの小難しいのは?えぇ…む?術後即時発動…向きは…何故術者に向かう?」
唸りながら左手を見ている裡に気になるところを事細かに見る為か、暖海は到頭メイアンの手を掴んでいた。
「熱烈過ぎない?暖海法師?」
「ああ、申し訳ない」
やっと放してくれたが、忠遠が組み立てた術式がどうにも腑に落ちないようで、暖海はぶつぶつと呟きながら指に謎の動きをさせている。
これは放っておくに限るなとメイアンは車窓の外に目を投げた。案外と古仙というのは勤勉だなと思う。
ミュンヘンを出て一時間を少し過ぎた頃、列車はニュルンベルク中央駅に到着した。乗り換えだが大丈夫だろうかとグレーゴルを見遣ると、ここまで眠ってきたらしく多少の回復が見て取れた。
ニュルンベルクは人口50万人を超えるバイエルン州第二の都市である。
「ドイツ全体では十四番目」
「そこ重要?」
レギオナルエクスプレスに乗り換え、席を占める。
「先程の列車とどう違うのかね?」
「ICEはそうだなぁ…言うなれば超特急。最高時速300㎞/hだからね。内装も良かったでしょ。国外の主要都市とも接続してるんだよ。国内主要都市を結ぶのがIC、インターシティ。これは最高時速200㎞/h、特急といったところかな。ユーロシティやTGVも走ってるけど、ここは省くよ。ここまでが優等列車で、国内なら端と端の都市を結んでる路線なんだけど、都市近郊やローカル線に乗り換えることで鉄道網が完成される。これはRE、レギオナルエクスプレス。快速列車ってとこかな。ICEやICと併走区間もあるから、案外長距離路線だったりすることもある。もひとつ下のローカル線がRB、レギオナルバーン。普通列車って扱い。これより更にローカルなSバーンっつってトラムだったり地下鉄だったり…第三軌条方式だったりトロリー方式とか、そうだな、駅から割と放射状に広がってる。まあ、各駅停車って扱い」
「日本の快速・普通・各駅とは違うのだな」
「そうだねぇ、基本追い抜きとかなかった筈…ダイヤは基本どれもパターンダイヤだし、目的地まで快適な移動を着席のまま実現する。ドイツもさ、日本と同じくらい車社会なわけ。あんまり電車乗らないのよ。でもEUとの関係やモーダルシフトで貨物列車を廃止することもできないじゃん?だから苦肉の策でDBは直通列車を作らず、なんだか豊かな感じの鉄道旅って展開してるんだよ」
「おお。世界の車窓から、だな」
「…暖海さん、最近東京にいるの?」
「いいや?」
その心は?と問われメイアンは肩を竦めた。
「最近地方でネットされなくなってきてるらしいから」
「ほう、そうなのか。京都や和歌山では放送されている筈だが。言われてみるとあの五分間番組を積極的に見ているかと問われたらば、是とは言えないな」
「長寿番組だから、見た回数は多いけれど、それを狙ってチャンネルを合わせる程には」
「ふむ。鉄分が強くない」
その結論を導かれるのを待っていたように暖海は駆け込むように言った。メイアンはぷっと吹き出してしまった。
「あははははっ!鉄分ね!」




