2023年5月、フライシュタート・バイヤン⑯
「答え合わせ、とな」
「グレーゴルに冷たくするのも、威圧的に接するのも、まあ好きにしたらいいさ。だが頭が割れそうなんだとさ。プラムにちょっかいかけないで済んでるのは助かるけれど、そろそろ参っちゃうぞ」
「…構わんではないか」
暖海は鷹揚に笑う。
「いや、笑ってる場合じゃないよ。あの弱々なグレーゴルを連れてチェコに行くのは、面倒だ」
「面倒?」
「逆にプラムがグレーゴルに同情的になってきている。天気がいいだろ。プラムは自分を責めていない証拠だ。身軽い分、グレーゴルに傾く」
「成程」
「正直なところを言えば」
メイアンは掌を頭の後ろで組んで天井を見上げる。
「グレーゴルをここに置いて、プラムをウルテに戻してしまいたい。でもそれやっちゃうと、引き離された分思慕ってのは逆に募るってものだろ?」
「成程」
「それに、ウルテの気持ちがよくわからない。プラムをどうしたいんだ、彼女は?」
「さてなぁ。俺にもわからん。手放したがっているようでもあり、引き留めたいようでもあり。敢えて立場を明確にするなら、兎には思うところなどないが、ウルテには多少助力してやりたい気持ちはある。その上でできることといえば、兎とプラムとの仲はこれ以上深めないということだけだ」
「それでグレーゴルになんかしてんの?なにをしてんのさ」
暖海は低く笑う。
「なにをしていると?」
メイアンは天井を見たまま呟くように言う。
「暖海さん貴方は法螺貝だったな。音の出る、楽器だ。長く生きてるし方陣を始めとする色々な難しい術も使えるんだろうけど、こういう場合、手の込んだことはしない…しない方がいい、しない方が簡単だし、グレーゴルが魔術的なことに疎いようでも気づかれる危険性が高くて対策を講じられる。いや、対策の取り難いことをグレーゴルにしてる?グレーゴルはこの部屋から逃げ出した…暖海さん、貴方から距離を置けば効果がない?貴方が本気を出せば一瞬でグレーゴルなんかぺっちゃんこにだってできるよな?それが辛い辛いと文句が言える程度にちくちくダメージを与えるって…うーん、本人に自覚のない攻撃となると、五感に捉え難いやつだな。兎は視力は弱いが視野が360度ある、視覚に対する攻撃じゃないな。におい?だとしたらプラムだって気づく。毒物ってことはないな、味覚ならその場でなにか出るだろうし…触覚に訴える攻撃ってなんだ?ふむ」
指を折りながら論っていたメイアンだったが、ふと言葉を止めた。暖海は面白げに見えた。
「なんだね?」
「貴方、楽器なんだもんな、音、か」
「ほう」
「まあ、消去法でもあるけどね?うーん、低い音かな?」
「ふふふふふ。いいね。こういう分析能力、あの兎にも備わっておったなら早々にやめてやったさ。言葉で説き伏せに切り替えていた」
「どうだか」
「嘘はない。だがグレーゴル・ザウアーに限らず一角野兎というのは相手を定めてしまうと、理性は留めようとしても本能が己を制御できなくする。せめて自分の置かれた状況が見えておればな…だが能力の低さと、目の前の抗えないものに現を抜かして完全に盲目だ。現況の問題点を全て取り払ったとしても、こういう輩には腹が立つものではないか?」
それが彼の能力値なのだもの仕方ないよという正論と、我々はもっと努力を払っているのだという正義感とが鬩ぎ合い始めている。努力の度合いは尺度が無いというところに加点して、取り敢えず正論に軍配を上げる。でないと暖海を責められない。
「兎は音源定位能力が低い。それから人より低い周波数の音が聞き取れない。仮にメイアンが音を拾ったとしても兎には聞こえない音域がある。それを使った」
「音源定位能力って?」
「音がどこからしたのか特定する能力。人の場合その範囲を一度から二度程度の範囲で細かく判断するが、兎は十五度から二十度の範囲と割と曖昧だ。危険な音と判断したら特定するよりも逃走するという行動に直結しているからだろう」
「兎ってそんなに聞こえないの?」
「人より可聴範囲が少し高めの範囲なだけだ。人は20Hzくらいから聞こえるが、兎は100Hzくらいからでないと聞こえない。代わりに人は23,000Hzくらいまでしか聞こえない。約10オクターブということになる。兎の上限はそれを大きく上回って42,000Hz…猫や犬と比べるとかなり劣るけれども、な」
「詳しいね」
「最近の科学は便利だ」
「便利だからって、悪用しちゃ駄目だよ。つまり音源方向を特定しにくくした超重低音をグレーゴルにしか聞こえない範囲でずぅうっと聴かせてたの?」
「乙な音という」
暖海は痴っと嘯く。
「いわないって。それ拷問じゃん」
「ふ、拷問にかけたくなる程怠慢だと思えばよい」
「いやいやいやいや、グレーゴルは半分くらい本能に踊らされちゃってるんだよ、こればっかりはさあ…ちくちく虐めたくなる気持ちも、わかるけど、駄目な部類でしょうよ。一旦やめようぜ」
暖海は忠遠並の古仙であるようだ。ものの善悪がつかないということはない。寧ろ時代に合わせた善悪の基準に従っている筈だ。それだけにグレーゴルの不甲斐なさというかだらしなさは目に余るといったところか。同時にメイアンとウルテに加勢したい心情も加わって苛烈な結果になってしまったということか。これでは一方的に責められない。
「一旦。全面的に禁止とは、言わぬのだな」
意外な結果を得たという表情の暖海に、メイアンは跋の悪そうな自己弁護的な苦笑いを浮かべるしかなかった。今はこれが限界だ。
「えーっと、それはですね暖海法師。グレーゴルに今あんまりぴんしゃんされても困るっていうのと、音の範囲が小さいから、我々と帯同から外れたら音に悩まされなくなるじゃん?原因は音、と特定はできなくてもいいけど、別行動すると体が楽になるぞ?みたいな感覚があったらいいかもな、と、ちょっと意地悪なことを考えてる」
メイアンの弁明に、暖海は徐々にむずむずと口許を震わせ始め、段々と腹が震え、最後には到頭目に掌を当て、天を仰いで笑い出していた。




