2023年5月、フライシュタート・バイヤン⑭
「ベルリンを越えて、バルト海まで見えた」
地上にやっと降りたフォルラーニが先ず発したのはこれだったから、メイアンは脱力感に苛まされた。
蛇龍は旋回しながら速度を落とし降りてきたが、後脚がないのを思い出したのか頭から突っ込んできた。どうしたものかと傍らの西洋水木を見たが、既に姿が無かった。殊勝なことを言うようになったと思ったのも束の間のこの態度かともう諦観を抱え早くも訪れたダウンバーストに吹き飛ばされては敵わないとウッドデッキの柱に掴まった。蛇龍は前脚を伸ばしヘリコプターの降着装置…スキッドというよりも引き込み式車輪だなとメイアンは変なところで妙な感想を持ちつつ、前脚を接地に備え出し、地面まであと1mというところで翅をひと羽搏きさせ、軟着陸した。庭は強風で大童になってしまったが、風が止むと全てが吹き飛ばされてしまったので寧ろ整然となってしまっていた。フォルラーニが植木鉢やオブジェを庭に飾る性質でないのが幸いした。
「…発着にはもう少し努力が必要だ」
ぐしゃぐしゃになった髪をむしゃくしゃした気分で直すメイアンを蛇龍は不思議そうに見ている。暢気なことだと思いながら空を見上げると、航空機の姿が映った。陣を張ったままで突入されたら危険だと慌て上空の陣を止め、屋敷だけをドーム状に張り直した。
「いい加減人の姿に戻れよ」
「どうすればいいかわからん」
メイアンは掌で顔を覆った。目も当てられないとはこのことだ。が、蛇龍になったことで自由になったのだろう、メイアンが唸る間もなく蛇龍の姿は消え、小学校低学年程の少年が立っていた。加齢の皺や衰えは除かれていたが確かにフォルラーニだ。
「…可愛いじゃないか」
「こういう年齢を過ごしたことがなかったものでな」
小学校教諭だったギスカール・クロアレックがフォルラーニを学校へ通わせなくてはと焦らなかったのは、そのときの姿が成人手前、高校生くらいだったからなのだろうとメイアンは想像した。エヴァの安全さえ確保できればそれでもいいかというところだったのか。フォルラーニが漫然としていて無害そのものだったのかもしれない。なにせ人になりたてで、右も左もという状況だったに違いない。
「濫りに蛇龍の姿になるなよ」
「わかっている。騒ぎになるのはごめんだ」
フォルラーニはメイアンを室内へ招き入れた。自分で倒した家具や調度を直し、菓子を出す。
「おっ!ダルマイヤーのwaldbeereがあるでないの。これがいいな」
戸棚のガラス越しにパッケージを見つけ、メイアンは笑って出してきた。
「…まだ残っていたか。賞味期限は大丈夫かな?」
「ん、まだ期限内だ。淹れていい?」
「ポットは隣の棚にある」
揃いのカップも取り出して並べる。ポットに丁寧に茶葉ならぬドライフルーツを計り入れていると、両手で頬杖を突いてこちらを射るように見ているフォルラーニに気づいた。
「なんだ?」
「エヴァも丁寧に計って淹れる質だったなと思い出しただけよ。そのダルマイヤーも、エヴァが買ってきてくれたものだった」
「もらってもよかったのかな?」
「淹れず置いておけば無駄になる。なくなったらば買い足せばいい、そんな直ぐには廃番にはならない」
メイアンは内心で直ぐに廃番になっちゃうんだよと呟いた。未だ七十年と生きていないフォルラーニにとっては比較的腰の重い企業の商品のリニューアルは滅多にないことのように思えるのだろうが、もっと生きている時間が長くなれば商品改変のスパンが短く思えてならなくなる。メイアンとてフォルラーニより少し長い程度だが、これについては何度も痛感してきた自負がある。
「…エヴァさん、ここに来てたんだ?」
「エヴァ曰く、私よりも十も年上なのだからって身の回りの世話をしに来てくれていたのだ。アトリエを移しても、何故か探り当てて来てくれるのが嬉しくて、な。絡繰はセルジュの仕掛けたそれだったのだが」
フォルラーニはメイアンが見つけたGPS発信機を指した。
居を移す度、デュファイエはまるで自分だけが転居先を知らされている風を装ってエヴァにはフォルラーニからの信頼が篤いように見せかけ、同時にフォルラーニにはエヴァが既婚でありながら彼の世話と言ってちょくちょく顔を見せに来るその熱意に理由があるように匂わせて、エヴァに強制することなくフォルラーニを絡め取っていたに違いない。
「エヴァさん住まいはフランスなんでしょう?そりゃ嬉しかろうよ。デュファイエの父親…エヴァさんのご亭主は?」
「彼も画商をしていてな。彼は本当の目利きだった。陶磁器や漆器の緩衝材としてくしゃくしゃにして詰め込まれていた浮世絵に美と価値を見出したジャポニズムの隆盛のように、名のあるものでなくとも美しいかどうか、人が手許に置いておきたくなるかどうかという一点において秀でたものだけを買いつけてきていた。留守の多い仕事であったが、エヴァは彼をとても愛していたと思うよ」
「彼は、今?」
「少し前までエヴァと高齢者向けアパートにいたが、先ず彼が、ドミノを倒すように続けざまにエヴァが認知症になってな。Ehpadに移ったよ。記憶が朧になってゆく彼らに会いに行く勇気が無くて、今どうしているのか、わからない。セルジュがなにも隠していないことを祈るばかりだ」
Ehpad。Etablissement d’Hébergement pour Personnes Agées Dépendantes。自立できない老人用施設のことだ。老人の介護問題は国が違えど深刻で難しい。
「可笑しな話だと…私の方が十若いのよと言っていたエヴァの方が先にこうなるとは…ははっ、惚けるべくもなかったわけだ」
「そんな風に言うな。それよりも態々エヴァさんが国境を越えてまで時間を作って会いに来てくれていたのをもっと喜んだっていいんじゃね?」
フォルラーニは沸いた薬罐を持ってきた。ポットに注ごうとしたが幼く変化してしまった所為でどうにも上手くないらしく、危なっかしい。メイアンは薬罐を取り上げ、代わりにポットを満たす。鳥のような形の鍋掴みで薬罐の把手を掴んで持ってきていて、汚れ具合から日常的に使っていることが窺える。表地は白い麻で、使用の邪魔にならないぎりぎりまでたっぷりと綿を入れてある。黒い瞳が布地に埋まる程に縫いつけてあるが、よく見ると真っ黒なのではなく、黒にしか見えない程赤紫をとことん濃くしたガラスビーズである。鳥だと思ったが把手から外して見ると嘴がない。首を作ってあり、…メイアンはふと思った。この顔の形、馬っぽいな。深く切れ込んだ口と馬のような耳が刺繍されている。背中側から手指を入れる構造だが、ポケット部分はデフォルメされているものの蝙蝠の翅のような形、明らかに飾りでしかない両腕、それぞれに爪を模した赤紫のビーズが飾られていて…表地の麻と中綿の間に緑色のフェルトが挟んであり、白い麻から僅かに透けて見える。
「ははっ」
思わず漏れた笑声にフォルラーニは怪訝そうにメイアンを覗き込む。
「だって、ほら」
散々に捏ねくり回すように見ていた鍋掴みを眼前に突き出され、フォルラーニは目を白黒させた。
「これ、蛇龍じゃん。それもフォルラーニ、あんただ」
「へ?下手糞な鳥じゃないのか?」
「下手だなんてとんでもない。これ、とても上手く縫ってある。見ろ、緑の透ける白いボディ。爪は赤紫。目も多分この色のビーズを態々探したんだろうな、あんたと同じ色」
顔の横に並べてみる。フォルラーニの瞳はぱっと見黒だが、実は赤紫がかっている。最近は技術と素材の発達で確かに黒としか言いようのないガラスビーズが流通しているが、十年くらい前までは黒いビーズといえばこの赤紫の濃さを詰めて黒としたものだった。義祖母が黒ビーズが真っ黒でないのを嘆いていたからよく憶えている。
「ご丁寧に腕までついていて、それにだって緑が透けるように作ってあるのに翅には入れてない。あんたの翅もそういう色をしてる。首にぽしゃぽしゃ房が出てるのは、鬣かな?ふふふ、上手いデフォルメだね、上出来じゃん」
唖然としてフォルラーニは鍋掴みを受け取った。
「…まさか」
「あんたが否定してきた蛇龍の姿、エヴァさんは見えてたんだな。恐れず、こんなお茶目な小物の像に表して…エヴァさん、あんたのことを、ご亭主とは違うかたちで愛してくれてたんだね」
メイアンは軽くポットを揺すって揃いのカップに注ぎ分ける。エヴァはアドルフのような神眼の持ち主なのやもしれない。フォルラーニはまた泣いちゃうかもね、とカップを差し出したときにはもう手遅れだった。
「…エヴァに、会いに行かねば」
椅子を蹴る勢いで立ち上がったフォルラーニをメイアンは鋭く制した。
「駄目だよ」
「何故だ」
「ローランサンの署名を描き換えてからだ」
「だがしかし」
エヴァがこの姿を模したということは、白い蛇龍の姿を見ているということである。フォルラーニに黙ってこの世を去るなどということは無い筈だ。そのくらいの幸運を、きっと得ている。
「一週間。それでいいんだよな」
フォルラーニは不服そうではあったがなんとか顎を引いた。
「勝手にフランスに行くなよ。デュファイエに問合せなんか以ての外だ。ああでも手土産の花束とお菓子の準備はしていていいぞ。それと、このお茶。ダルマイヤーのwaldbeere。エヴァさん、きっと好みでここへ来る度あんたと飲みたかったんだろうよ」
フォルラーニの顔は最早ぐちゃぐちゃである。霧香の言葉で言うなら、明日には目が3になっちゃう、である。
「悪いな、ここにいるのがエヴァさんじゃなくて。でも、彼女の気持ち、知れたな」
テーブルに投げ出された手作りの鍋掴みを拾い、フォルラーニの頰に押しつける。フォルラーニは嗚咽と共にうん、うん、と何度も頷いた。




