2023年5月、フライシュタート・バイヤン⑬
態と底意地悪そうに笑んでみせながら肚の底で考える。エヴァ・クロアレックが嫁ぐのを見送ったのも、もしかしたら己の身体の特異性を早い裡から気づいてこんな自分がと卑下したからかもしれない。好きな女に無用の負担をかけられぬと身を引いただなんておやまあなんて美しい愛の形でないのと皮肉に思った。その結果が強欲な息子による贋作騒ぎなのだから。
フォルラーニは圧し負けて掃き出し窓からウッドデッキへ、更にそこから庭に転げ落ちる。
左手でフォルラーニだけ、と陣を動かす。
瞬時に先程見た、緑が透ける白い蛇龍が芝生に蜷局を巻いたまま憔悴してなんとか顔だけを擡げた姿に変わっていた。
龍らしく口が大きく裂けて二裂の舌が覗く以外馬のような顔の蛇龍は、その目に先ず飛び込んできた自身の前脚にぎょっと瞠った。グーパーと握っては開いているところを見るに、それが己の手であると確認しているのだろう。蜷局がばたばたとうねり動いたのは後脚がない蛇龍なら足はどこだと驚いてばたついたからか。逐一驚きと共に耳が動き、鬣が立った。
「…感想は?」
白い蛇龍ははっと我に帰り、メイアンを見据えて大きく息を何度も吐き出した。鼻があるのに、深く切れ込んだ口の左右から息が漏れている。人の身ならば肩で息をしているといったところなのだろう。
「…白い」
そこ?蛇龍といったら先ず緑か黒なのだろうかとメイアンはつい笑い出してしまった。
「はははっ、なかなか美しい姿でないの。レッドトルマリンのようなマゼンタの爪も」
白い蛇龍は腕を持ち上げて爪に目を落とした。
「クリムゾンレーキを溶き油とジンクホワイトでのばしたような色だ」
画家らしい感想だ。
「カーマインやマダーじゃないの?」
「メイアンは油彩を?」
「透明色と不透明色くらいはわかる」
「カーマインもマダーも赤の透明色だ、メイアンの言う通り。カーマインはクリムゾンと語源が同じと言われているから、色も近い。けれど青を含んだクリムゾンレーキが、この爪に最も似つかわしい」
白い蛇龍はぼとと水滴を落とした。どうやら涙だったようだ。どうにもフォルラーニは泣き上戸のようだ。
「レーキは、水溶性の染料を金属イオンと結合させて不溶性にして顔料として使えるようにしたものだ。クリムゾンレーキは不溶化で染料の透明性を油彩に持ち込むことができた古い絵の具なのだ…」
歴史ある色を身に纏う喜びがあるのか。
「表面を覆う鱗や爪は略半透明の乳白色のようだな。うん、綺麗だよ」
人としては老人の姿をしていたフォルラーニだったが、容姿を褒められることは吝かではないらしい。
「つ…翅は、動かせるのだろうか?」
「あんたの身体だろ。おっと、その姿が目撃されるとギージング中、ミュンヘン中大騒ぎになってしまう」
メイアンはフォルラーニの屋敷を頂点にした逆さまの円錐形に不可視の陣を張る。いいとも言わない裡に白い蛇龍は翅を不器用に動かし始め、あっという間にこつを掴んで羽搏く。体の大きさに対して小さいように思えたが、拡げると案外長さがあり、数回動かしただけで空気を打って舞い上がった。庭の草木が大きく薙ぎ、メイアンもその風に翻弄されそうになり肘で顔を覆う。肘の隙間から目で追うと、白い蛇龍はあっという間に空高くなり、愉快そうに旋回していたときには庭の強風は止んでいた。
「やっと、ゼップは蛇龍になれた」
弾んだ声がして振り向くと、真っ赤な衣と真っ赤な杖の西洋水木の樹精が傍で空を見上げていた。
「…よくもやってくれたな、西洋水木」
樹精は悪びれもせず、にっこりと笑みを空に向ける。装いの割に若い男の姿の樹精は見上げたまま言った。
「人の七十年は老境だが、蛇龍ならまだまだ赤子だ。幼い癖に達観したような気になって、蛇龍にもならないものだから、あと少しで命が尽きていた」
仙の自覚がなく、気の流れが読めなくば、定命の者として生を終える。確かにメイアンも忠遠を始め多くの古仙にそう言われた。フォルラーニ自身は人として人生を閉じてもいいと思っていたようだったが、この樹精やギージングの植物達は蛇龍の命を惜しんでいたらしい。
「…お節介め」
西洋水木の精はやっと顔をメイアンに向けた。
「礼を言う、メイアン」
「もういいよ。白い白いってなんのことかって謎も解けたし」
西洋水木の精はふと芝生の上に柔らかに光を弾くものを見つけ、拾った。
「…ふむ」
「なぁに、それ」
「ふふ、ゼップの鱗だね。蛇龍は滅多に鱗を落とさないものなのだが」
鱗はゴルフボール程の大きさで、乳白色、角の取れた鈍い菱形である。
「燥ぎ過ぎてるんだよ」
「然も有りぬべし」
「蛇龍って鱗、落とさないんだ?」
「全く無いことでは、ないのだが。蛇としての性格が残ったのか、基本、脱皮する」
「脱皮」
「蛇なので正確には脱殻。脱殻の際は立ち合ってほしい」
「ゔ〰︎っ、態々ギージングまで来るの、面倒だなぁ…」
「ならば、時期に訪わせよう」
「それも迷惑なんだけど…わかったわかった。ほやほやのときってつまり危険なんだね?」
「理解が早くて助かる」
「蛇龍って白いのは、珍しいの?」
「これも全く無いことではないのだが。絡繰からいえば龍というものは、人の想像の産物。人がこうと定めた公知の範囲内で顕現するのだ。蛇龍が時代によって色や性格が変わるのは仕方のないことだが、長らく市章などに使われて緑や黒が定着したから、皆緑だ黒だと思っているのだろう」
「でもフォルラーニは白いよ?」
「うむ。おそらく、ミヒャエル・エンデの影響かの」
「エンデ?はてしない物語の幸いの竜フッフールは確かに真珠貝色だけど、この本が発表されたのは1979年だ。フォルラーニは1955年にクリニャンクールで仙になってる」
「ふふ、詳しいね。エンデはこの頃までバイエルン、特にミュンヘン辺りが生活圏で、物語にするかは兎も角、多様な構想やまだ妄想段階のアイデアを幾つも持っていたのではないかな。幸いの竜という考えがどこかの伝承にあったのやもしれぬ、或いは全くの創造であったかも、しかしそれが地域の龍、蛇龍になんらかの影響を与えたとしても不思議はない」
「真珠貝色じゃないじゃん」
「ふふふ、メイアンは日本の子だから、珠母のそれはもう特上の照りを持つ真珠を容易に想像するのだろうが、浅蜊や蛤だとて真珠を作るのだよ。単なる白い塊にしかならないが」
「うへ、想像力」
「それでも真珠の美しさへの憧れは残ったのだろうね、ほら、ゼップの鱗も美しい」
樹精は鱗を陽の光に透かして見せた。乳白色の輝きが確かに柔らかい光にして通す。
「確かにね。でもふふふっ、絵描きの爺さんの一部だったと思うとちょっと微妙な心持ち」
これには流石に西洋水木の精も苦笑いした。
「白い龍を見かけたら幸運が舞い降りるという真しやかな、そうさな、都市伝説のようなものが多分に当時からどこかにあったのだろうよ。だからゼップは事実幸運の龍」
白いのに自分の為に使わない、そう言った花精がいた。幸運の龍の天恵を自分の為に与えることができるのかはわからないが、ゼップ・フォルラーニの人生を辿ってみると不運だったとは言わないが、全てにおいて好調だったとは言い難いかもなとは思う。ただ要所要所運のいいところも見受けられる…ギスカール・クロアレックに出会った、とか。
「フォルラーニの最大の幸運は、この家に住んで貴方西洋水木に見守ってもらってたことだよ」
樹精は嬉しそうに破顔したが、一抹の哀惜も含んで言った。
「人として一生を終わらせた方が幸せだったかもしれない」
「機会損失について論じるのはやめようよ。ゼップ・フォルラーニは元々蛇龍だったんだから、封じ込められてたものを取り戻したんだ。ほらご覧?あんなに嬉しそう」
蛇龍はまだ天高く舞っている。
「ふふ。良いね、メイアン。流石は薔薇の愛し子」
「あー、そういうのやめてくんないかな。薔薇だけじゃなく植物達とはできる限り対等でいたいんだ」
葉や茎、根から花から実に至るまで毟って刻んで、更には食べてさえしまう以上、対等だなどということはないのだが、それでも彼らの上になどと驕ったことはしたくない。
「貴女に種子を託した紅花橡の気持ちが解る」
「ああいう強引なのはなぁ…」
「西洋水木の種子も持ち帰ってほしいところだね」
我も我もと種子を押しつけられないようにと一初に注意されたのを思い出したが、メイアンはふっと笑って言った。
「…もらっても、いい?貴方の赤い枝や葉はとても綺麗だもの」
西洋水木の精は目を丸くした。
「誰もが貴女に種子を押しつけてしまうことになりかねない」
「もらえないものはもらえないよ。育てる場所は村上だからね、夏は暑くて冬は豪雪。育たないものは育たない。そんな不幸なことはできない。だからもらわない、断るよ」
西洋水木の精は差し出されたメイアンの手に三粒の種子と、蛇龍の鱗を載せた。
「西洋水木、これは貴方のだ」
返そうとすると、樹精は首を横に静かに振った。
「断るにも、運が要る。もう既に白い蛇龍を見た貴女には幸運が宿っているけれど」
「…なら、ありがたくいただくよ。絵描きの爺さんのものだったということは、思い出さないようにする」
冗談にして笑うと、西洋水木の樹精は安堵の笑みを見せた。
「それよかあの蛇龍、もしかして降りられなくなってるってこと、ない?」




