2023年5月、フライシュタート・バイヤン⑫
メイアンはつかつかと画材の木箱に歩み寄ると軽く絵の具を払い除けた。絵の具の下には更に紙箱があり、ぼろぼろにはなっていたが当初は初心者用のセットだったことが伺える。それを退けると小さなプラスチックの追跡用GPS発信機が出てきた。
「こんなもの取りつけられてもまだデュファイエを庇いたいのかい?」
フォルラーニは押し黙った。
謎だなとメイアンは発信機を矯めつ眇めつしながら思った。セルジュの姓はデュファイエだ。ギスカールはクロアレック。つまりエヴァはデュファイエという男に嫁いだということである。
フォルラーニはエヴァが嫁ぐのを黙って見送ったのだろうか。
「まあいい。この絵は置いてゆくよ。このGPSはもらってってやる」
踵を返そうとしたメイアンの腕をフォルラーニは慌てて掴んだ。
「あとの三枚は?」
「持ってるけど?」
「セルジュが入れさせた偽の署名が入ったままだろう」
メイアンは肩を聳やかした。
「世に出すなら消すさ。無銘の絵画になる」
フォルラーニは口許を強張らせ、震える声で言った。
「…描き直させて、くれないか」
メイアンは膝を折って縋りつくような格好になったフォルラーニを冷ややかに見下ろした。
「どうやって消すつもりか知らないが、部分だけ剥がせば、その絵の傷…疑念の材料として残ってしまう…」
「痕跡を残さず手直しする気なの?」
フォルラーニは顎を引く。メイアンは長い息を吐いた。不満や面倒だと嫌厭を示しているのかと弱腰気味に窺うと、逆に満足げな様子に拍子抜けしてしまい、間抜けに口が開いたままになってしまった。
「…いいよ。ゴンチャロワもジュリー・マネも返してあげる」
「ロ、ローランサンは?」
「うん、描き直してよ。でもできればそれを直前まで所有してた人に返してあげたいんだ」
気に入ってくれてたからね、とつけ加えると、フォルラーニはメイアンに縋りついたまま、掴む手に力が加わった。
「気に入って、くれていたのか」
「そ。あの絵だけ、オーダーがあったんじゃない?モデル女性に似せて描いてくれって、さ」
意を得たようにフォルラーニは小刻みに頷く。
「ローランサン風だからね、生き写しとかじゃないんだけど、少しアンニュイで儚げな印象を充分描き出せていたんだと思う。偽ローランサンだというなら持っていると恥だが、ローランサン風の作品なら、手放すのは惜しいってさ」
メイアンは再び腰高に方陣の口を水平に細長く開く。真正面に開くとフォルラーニにぶつかってしまうから、今度は右横に。フォルラーニは突如ジッパーで開いたような虚無的な黒い空間に目を剥く。そのまま固まってしまいメイアンは彼を引き剥がしてから方陣を開くべきだったと少し後悔した。
そこに手を入れ、一枚、また一枚と三枚の絵画を取り出す。どれもモネ風の絵画と同じように紙に包まれていた。
「…メイアンといったな。一体何者だ?」
正体を隠していたつもりはなかったのだけどなとメイアンは苦笑いした。フォルラーニと対峙すると、どうにもテンポが少しだけ狂う。なにか噛み合わないというのか…これが相性ってやつかね、と夕飯の頃合いであろう一初へ呟く。
「あんたとご同類さ。蛇龍ではないけどな」
「なっ…」
ぎょっとしたような顔をフォルラーニはこちらに向けた。少々想定外の反応だ。
「七十年近く絵を描くのだけに邁進してきたんだな。生きた年月の分確り老けた形をしてるけど、蛇龍には戻れないの?」
「蛇龍に、戻る…?」
メイアンは茫然としてそのままになっているフォルラーニの手を外してやり、三枚の絵画を握らせる。
梱包されたキャンバスの手触りに思考を取り戻したのか、それぞれの包みを少しだけ解いて中身を確認し、ほっと息を吐いた。メイアンは近くにあった椅子を引いてくるとぐるりと回して背凭れを前にし跨ぐ。背凭れに肘を置いて顔を載せた。フォルラーニは絵をイーゼルに架けることでなんとか自分を保とうとしているように見える。
「本気で綺麗に油彩を乾燥させるには年単位の時間が必要なのは知っている。その上で訊きたい。ローランサンの署名は、何日で直せる?」
蛇龍から話が逸れたからか、フォルラーニは多少平静を取り戻したらしい。
「完全にというなら、勿論五年はほしいところだが」
「その絵を気に入ってくれてる人は御年確か八十八だったかな、あまり時間をかけている暇はない。触って崩れない状態にさえなっていればそれでいいとさえ思っているのだが」
中高生が授業の課題で油彩を描き、提出できるレベルの乾燥でいい。フォルラーニはそうだね、と考えを巡らせた。
「モネのようなマチエールの強いタッチではないから…勿論ワニスをかけたりする仕上げは省かねばならまいが、五日…一週間なら充分だろう」
「五日から七日だな。では早速取りかかってもらおうか」
「気が早いな」
「仕上げ剤はその人が亡くなってからでも遅くはない。フォルラーニ、あんたはその人よりもずっと先まで生きられるから」
フォルラーニは贋ローランサンの絵を掴んだままメイアンを凝視した。観念したか。
「蛇龍だから?」
メイアンは肩を聳やかした。
「答えとして五十点だな。蛇龍だから、確かにそうだ。だが蛇龍だけではない」
「…メイアンは、メイアンも龍なのか?」
メイアンは払い除けるようにひらひらと手を振った。
「やめてよ、龍だなんて」
「龍は…忌避すべきものなのか?」
メイアンは礑と気づいて一瞬動きを止めた。
フォルラーニは蛇龍に戻ったことがないようだ。だが蛇龍についての知識はある。そして蛇龍の善悪について尋ねてきた。
つまりフォルラーニには伝承としての蛇龍は知っているが、自身としての蛇龍は知らないということなのだ。
「龍が善か悪かだなんて阿呆なこと訊くなよ。そんなのそこら辺で遊んでる兎の善悪を問うようなもんだ」
メイアンはふっと笑う。
「蛇龍って牛で釣り上げられたって言い伝えがあるんだっけ?」
フォルラーニは少しだけ鼻頭に皺を寄せた。
「川の主で、旅人に悪さをするので懸賞が懸けられたと…オーストリアの言い伝えだ」
「へえ?その話、嫌なんだ?」
虚を突かれたようにフォルラーニは息を呑んだ。思っていたより回転がいい。
「私がこの伝説で不愉快になる理由などない。だのに忌々しい。何故だ」
「そりゃ自身の尊厳を傷つけられるからだろ」
「私が、蛇龍だから…?」
「あはっ!面白いなフォルラーニ。あんた蛇龍なんだろう?けど自分が蛇龍だとどこか信じていない。だのに本能が蛇龍を否定されることを厭う。なぁ、逸そ蛇龍に戻ってみるがいい」
フォルラーニはがたがたと辺りのものを倒しながら後ずさった。
「い、嫌だ!私は、私は人間なんだ」
メイアンは立ち上がり、一歩、また一歩とフォルラーニに近寄る。後退で蹴躓き、腰が抜けたのか尻餅をついたが、それでも尚フォルラーニは後ずさり続ける。
…全ての龍が高い志と共に龍になるわけではないってことだよな。
メイアンは己の知る龍をひとつずつ思い返してみる。九頭龍は川の化身だ。積年の川への思いを受けて龍になったという。度量が広いのも頷ける。クラとタカ、ふたりの龗も同様だ。だが寒霏は朱乃君が池の鯉を龍にした。龍になったことに満足や自負はあるようだが、朱乃君ももう亡い今、寒霏には強い目的意識があるわけではない。多分寒霏に緊張感が欠如して見えるのは、こういうところに理由がある。
フォルラーニもなんとなく仙の身を得てしまっただけで、本性が象っていたから蛇龍になった…そう考えると何故か可笑しい。
「嫌だ?怖いの間違いじゃないのかい?ああ、怖いから嫌なのか。金につられて退治されてしまう蛇龍だなんて、って?」




