2023年5月、フライシュタート・バイヤン⑪
斜めがけにし、腰の辺りにあったバッグのジッパーがじりじりと微かな音を立てて少しだけ開いた。
本来、彼らにはそんな作業は必要なかったのかもしれないが、メイアンに気づかせるために音の立つことをしたようだった。面白がっているのか、態と開いた隙間から躪り出て、バッグの上に座ると、指一本程しかない体全体をチェックして、ワンピースのプリーツを直してふわふわのベレーを被り直し、黄色いワンピースの裾を重ね直したりして二人並んでメイアンを見上げた。
「西洋大根草。西洋夏雪草」
宿の傍で種子をくれた本体より少し幼いように思えたが、見通したような琥珀と蜂蜜の瞳は全く同じだった。
「しーっ。ゼップは私達のこと見えてないし聞こえないから、メイアンは黙っていてね?」
口の前に人指し指を立て悪戯っぽく片目を瞑る西洋大根草の精にメイアンは小さく頷く。
「ゼップはドイツやオーストリア、スイスに伝わる翅ある龍、蛇龍なの」
蛇龍。バーデン⹀ヴュルテンベルクやバイエルンでも市章やシンボルとして使っているところは少なくない。
「それも白い蛇龍」
白い。確かに、大概のものは黒か緑だった。黒いのはもしかしたら単色刷りの名残故かもしれないが、緑なのは意味がありそうだ。そこを差し置いての白い蛇龍であるというには、なにか意味がある。
しかし、何故ドイツ語圏の龍がサン⹀トゥアンで恩人?と出会った?
「サン⹀トゥアンといえば?」
今のメイアンが真っ先に思いつくのは選手村建造だが1955年とフォルラーニは言った。そんな過去に現在の計画など無い。
「クリニャンクールだよ」
西洋大根草と西洋夏雪草は代わる代わる言う。クリニャンクールの蚤の市か。1955年、フォルラーニも言ったではないか、ワルシャワ条約機構結成の年だと…ドイツの超混乱期、ドイツの凡ゆる物が海外流出した時期だ。
クリニャンクールの蚤の市はそこら辺のガレージセールに毛の生えたようなフリーマーケットとは別物だ。世界中の目利きの古物商が集まってくる。
ということは、フォルラーニはなにか価値のある物であったのだろうか…?
でも、どうやってドイツの蛇龍がクリニャンクールでできあがるのだろうか…地域など関係ないのかなとも同時に思う。現にドイツ生まれのペルシャの伝説上の生き物一角野兎がいる。
フランスにだって、リントヴルムに似た姿の龍の伝承は、ある。ヴイーヴルという、鎖蛇を元に龍として想像された龍だ。
「やっだなメイアン。ヴイーヴルは雌しかいないって伝わってるでしょう?ゼップ、雄だよ」
雄雌の表現でいいのだろうかと急に不安になる。同時にこの小さな花精に考えていることを読まれているのかと、並行的に不安になった。すると西洋夏雪草が声洩れてるのよとくすくす笑った。
「抑ゼップはバイエルンとバーデン⹀ヴュルテンベルクの間くらいのところにあった小さな都市の市章の、ラペルピンだったんだよ。市町村の統廃合で不要になってしまって捨てられたのを、古物商がクリニャンクールに持ち込んだの」
ラペルピン。ピンズ、ピンバッヂともいう。略綬や略章、社章などに用いられることが多い。無論ただの装飾品ということもある。役場の職員の身分章などであったのだろうか。
クリニャンクールに持ち込まれた際にはまだラペルピンで、エヴァ・クロアレックに出会ったときには既に人の姿をとれる蛇龍だった?
「古物商の出店でエヴァが熱心にラペルピンを見ていたって広場の菩提樹が言ってたって聞いたよ」
眼前で蛇龍になったのなら、エヴァは相当肝を潰したであろうし、小さなものとはいえ売れたのではなく紛失したのなら古物商が黙ってはいまい。エヴァが手に取ったのは偶然に過ぎず、別の契機でフォルラーニは蛇龍に、そして人の姿になったのではないだろうか。
「エヴァがゼップを蛇龍にしたんじゃないよ。次の日にエヴァがお小遣い握り締めて古物商と交渉しようとしたんだって〜。でももう売れちゃってた」
売れた。紛失ではなく、買い手がいた。
「メイアン、誰がゼップを蛇龍にしたかを追及するのは無駄だと思うよ〜?菩提樹はドイツ人っぽいお婆ちゃんが懐かしそうに買ってったって言ってたけど、それ、今要らないでしょう?」
成程、出身者が郷愁に駆られて購入した、そしてフォルラーニは今の身を得ることになった…そこにどんなドラマがあったのかは不要だ。フォルラーニは手持ちが無く泣く泣く諦めざるを得なかったエヴァに接近を図ったであろうし、エヴァはもしかしたらフォルラーニにラペルピンに共通するなにかを感じ取ることができたのかもしれない。そして幸いにもエヴァの父親ギスカールが大変良い教育者であった。
西洋大根草と西洋夏雪草には感謝頻りだなと微笑むと、二人の花精は嬉しそうに手を取り合って、ふいと姿を消した。
「ゼップ・フォルラーニ。デュファイエに本気で抗わないのは、贋作として評価されて金になるからか?それとも、エヴァの息子だからか?」
フォルラーニは下唇を噛んだ。顔が涙でてらてらとしている。
「心の裡なんて、白と黒に完全に分けることなんかできやしない、そんなのは百も承知さ。贋作なんか作りたくない。贋作を評価されたい。贋作で腕前を評価されたくない。どれも本当だろうよ。贋作師扱いして軽侮してくるセルジュ、だが彼はエヴァの息子、ギスカールの孫。距離を置きたいが、突き放すことはできない?そんなもんだ」
「…できることなら、セルジュを説き伏せ、こんなことはやめさせたい…」
フォルラーニは拳が戦慄いていた。
「うーん、多分無理だろうなぁ。安易な稼業の泥沼からは、そう容易くは足を洗えまい」
ギスカールに恩を感じているからこそ、フォルラーニはデュファイエを説得したいのだろう。だがデュファイエがギヨーム・キュシェを使っていたように縦の繋がりが出来上がってしまっている。ここから抜け出すのは難しい。デュファイエが改心したとしても、組織が許さない。
「今直ぐは、諦めろ」
「しかし」
「フォルラーニ。デュファイエは署名偽造者も失った。その絵の署名の出来はどうだ?さっき自分で言ったよな。酷い出来だって」
「そんなの、次を、代わりを直ぐ見つける」
「デュファイエは四枚の輸出に失敗した。そう簡単ではない」




