2023年3月、京都①
わかっていたことではあるが、あまりに安寧過ぎる。
錦市場に程近い住宅街に、この辺りでは珍しい庭つきの一軒家の畳の一室をメイアンは与えられ療養と称しかれこれ一ヶ月引き籠り生活を送っていた。忠遠は特に行動に制限をつけるでもなく、食事はダイニングにしているらしい広い部屋に来るよう言いつけた以外なにをしようと全く自由に過ごしていた。必要を感じなかったから求めなかったが、言えばスマホやインターネット環境すら提供されるに違いない。Wi-Fiも完備であるようだ。ドラクエ最新版を毎日こなし、和食中心ではあるが時折不意打ちのようにパスタやシチューなどの洋食も提供される食事に満足し、思い出したように庭や周辺を散策してみる。忠遠は略毎度の食事に姿を見せ、黙々と食べ、給仕の少女二人に礼を言いつつ自ら食器を下げていなくなる。忠遠のそこそこ折り目正しい生活にひとつ箱を放り入れたように組み込まれただけという感じだなと思いながら生活していた。
そう、この家には忠遠以外に住民がいた。先述の給仕の少女二人である。ひとりは熊と呼ばれる十歳前後の女の子で、癖のないボブヘアなのにいつもそれをおばさんのように括っている。もうひとりは菫と呼ばれ、熊と同年代だが両耳の上辺りにいつも違うヘアピンをつけている。寡黙な熊に対し菫はよく喋る。その癖二人共守秘義務のようなものがあるのか、きっちり線引きされた内容以上には踏み込めない。彼女達が知らないから話さないのではなく、知っていても絶対に口には出さない、よく訓練されたメイドのようだとメイアンは思う。
二人は朝になると誰よりも早く起き出してきて小さなエプロンと三角巾を着けて煮炊きと掃除を同時並行で手分けして始める。掃除機もあるのに、バケツに雑巾、叩きと箒塵取りを主に使う。台所で炊飯器が炊き上がり十分前を知らせるといつの間にか配膳に取りかかり、座卓にはすっかり用意が整うという塩梅だ。
忠遠はそれまでにきっちり身支度を整え、雨天以外は庭の散水を済ませて食卓へやってくる。食事の合間はTVが点いていることが多い。それは会話が続かないからとか無機質な生活を嫌ってという理由ではなく、ニュースや天気予報などを得るためという実に目的を持った行動の一部で、食事や必要な番組が終わってしまえば消されてしまう。
因みに、クレムリンに置いてきた氷球の行末についてもこの時間に知った。とはいえ未だ鉄のカーテンの残る異次元からのニュースである。一報と続報が短く伝えられただけだった。一報はクレムリンの屋根の上に巨大な氷球が突如出現したこと、続報は一報とは関連のない形でモスクワの一部地域で危険なガスが漏れたという、なんともささやかでつまらないニュースであったが、裏を返せば当局はクレムリンの避雷針にこれ見よがしに突き刺さる不思議な物体を隠すことができなかったという証左であり、ガスの詳細についてはどうにか規制したものの寒霏と忠遠が施した謎の氷から愚かにもドローンを取り出してしまったという証明を七千三百キロも離れた京都で安穏と聞いたことになる。
現在のニュースといえばWBCで盛り上がり、コロナウィルス流行の落ち着きからマスクを外すか否かという真に平和な話題が主流だ。物価の高騰とウクライナの戦況とか直接ではないか関連を匂わせるニュースは流れるものの、陽射しは麗らかで暮らしは充足している。
熊と菫はまた手分けして食器や鍋などを食洗機にかけ、洗濯機を回したりしてからマスクをして小学校へと行ってしまった。メイアンは今日も怠惰な一日を過ごしてしまうと身体が鈍るなと小さな危惧と共にその怠惰な一日を始めようとした矢先、忠遠がTVを消しながら言った。
「このまま無かったことにしてやるのか?」
忠遠の謂いは宿題やったのか鞄に入れ忘れはないのか程度の口調であったが、メイアンには重く響いた。痛切に受け取ったことを押し隠し、平静を装って返してみる。
「そりゃああんなガス散布決めたやつ、ぶん殴りに行きたいよ?けどさぁ、殴ったところでそういうもんが備蓄されてるわけだし?どうせまた同じことやるでしょ」
「そしてお前さんでない誰かがガスを浴びてのたうち回って死ぬより辛い目に遭う、と」
それが嫌であのドローンを氷漬けにしたのではなかったのか。メイアンは忠遠に見えないように下唇を噛んだ。
「…まあ、な。そういうものを一個ずつ潰していったところで工場生産で世界中広範にばら撒かれたようなもの、先ず不毛というものだな」
理解した上で発するえげつない質問と解にならない自答にメイアンは誰より先に忠遠を殴るべきなのではなかろうかと思いながらも、彼の発した言葉を咀嚼し直してみる。
抑、忠遠は復讐を推奨するようなことは言わない。
どこか人を突き放したようなところのある忠遠は横で人が殺し合いをしていたとしても頬杖を突いて眺めていそうな気がする。それでいて、熊や菫に頼んだお遣いにも礼を忘れず感謝を伝える。寒霏はかなり小馬鹿にされていた気がするが。
「…忠遠。あんた、なにを知ってるんだ」
「あれとこれを知っておりますなんて衒学的なことなど恥ずかしゅうてできぬわ」
笑って躱された。空振りになったまま引き下がれる筈もない。
「させたいことがあるなら、はっきり言え」
ぶはっと忠遠は吹き出した。
「ドラクエを進めて終わらせればよい。今レベルは幾つだ、どこまで進んだ?」
「…あのなぁ。ドラクエさせるためにウクライナから龍の背に乗せて連れ出してくるとか、絶対無いだろうが。馬鹿にするのも大概にしろよ」
「ふふふふふ。メイアンは見てくれと違うて真面目よの。寒霏なぞ同じ状況なら素直にドラクエ攻略に励む」
「それはカンピーがただ阿呆なだけじゃん…」
「では阿呆ではないメイアンはなにしに連れてこられたと?」
「判断材料が圧倒的に足りないのにどう結論を出せっつーんだよ。彼の方って誰だよ。仙ってなんだ」
「質問に質問で返すのはいただけないな」
「回り諄いのは生理的に受けつけない。それとも本当に歯になにか詰まってるなら今直ぐ洗面所行って歯を磨いてこい」
忠遠は目を掌で覆ってげらげら笑い出した。
「答えられぬことと答えられることがある。否、今急いで答えるべきでないことと言う方が正しいな」
「さっさと言えることを言え」
「教えを請う側の癖に高飛車じゃの。薄々気づいているのでは?」
メイアンは座卓に身を乗り出し気味に聞いていたが、一度目を瞬くと眉間を指先で強く揉み拉いた。
「あー…うん、本題として話を進めたい場面ではあるんだけどさぁ、その前に、忠遠…あんためっちゃものの言い方が爺さん臭い。時々『〜じゃ』とかさぁ、でも出ないように気をつけてるところとか、ほんと年寄り臭いったらない」
「それどうせえっちゅうんじゃい」
忠遠は卓上をばしばし叩きそうな勢いで腹を抱えて笑っている。
「こっちもさ、年齢がどうにもなんないところまでズレてきて、困るんだよねぇ。見た目に合ったギャル語とか使うべきなのか?こそばゆい通り越してあんまりに滅茶苦茶な言語に成り果てていて恥ずかしくて気が引ける。そんなとこ、妙に共感する」
にまっと笑った気がした。
「それから?」
「…こっちのこと、どこまで調べた?」
忠遠は思案するように宙に目を彷徨わせた。
「本名、罔象Meilland、フランス人クォーター。四分の三は日本人。なのにその髪。その瞳」
メイアンの頭を真っ直ぐ指した。
瞳の色が緑なのは当初から分かっていたことではないか。緑といったところでファンシーな色味ではなく、所謂オリーブ色、覗き込まなければ薄い茶でも押し通せる。
ウクライナから戻ってからは髪を切っていないからか、伸びてきた髪がなにもしなくとも金色に色が抜けてくる。生え始めの根元は栗色に近いから、短く刈り込んだ姿しか知らぬ者は脱色したと考えるかもしれない。
そう、戻った。
元々は日本で生まれ育った。だがこの色が居辛い。その上にのしかかってきたのが…
「ある時外見が変わらなくなって、居辛いどころでなくなったんだろう?こういう場合、先ずは国内を放浪するものなんだが、とっとと見切りをつけて海外に出た。今の時代なら兎も角、戦前の…それ以前の時代に女の身で思い切ったことをしたものだ。踏ん切りがついたのは、その出自…というより、その身に流れる血の所為かな?未練なく異朝へ渡航できたのは」
「まあね、今と違ってあの時代の方が揃いも揃って誰も彼もが頭真っ黒だったからね!どこをほっつき歩いたとしても浮くことは必定だもんな。ふうん、その辺りよく掘り下げたじゃん」
「ふふっ、人間の心理は多様で個別に異なるというのに、類似性に富んで概ね同じような結論に至ることが多い」
「やだね、みんな似たり寄ったり、だいたい同じことを考えてるって言いなよ。ことの発端は異端な容貌だとは思うけど、二進も三進もいかなくなったのはこの身体の異変だ。これがなんなのか知っているんだろう?」
忠遠はゆっくりと顎を引いた。
「…お前さんはな、仙なのじゃ」
「仙」
「人偏に山、仙人の『仙』」
宙空に指先で描いてみせる。知っとるわ、とメイアンはぶすっと呟いてから一度ぴたっと動きを止めた。
「はあー?」
まだ肌寒い春先、少し早い桜前線が迫ってきている。だからこの家の窓は閉め切られ、エアコンさえもが稼働している。そんな生活騒音に溢れた界隈にでさえ漏れ響いた。予期していたのか忠遠は耳に掌を密着させて完全に塞いでいた。
「龍がいた。背中に乗ってかなりの高高度を風防も無しに飛んだ、だのに無事だった。宙を漂う水、それを一気に凍らせるとか、あああ、でもなんかあの時多少朦朧としてたし?なんか大袈裟にみせる仕掛けとかギミックとかああ同じことか、なんかVRとか?仮に本当に空を飛んでいたとして、結局大きな透明な囲いがあったとか!それでもここは日本で、京都で、烏丸だか四条だとかで!だからボスコ・アルバート・バラカス軍曹みたいに夢でも見させられてる間に空輸されたとかそれでもいいやと思ってた!けど!言うことに事欠いて、仙人?仙人だとう?」
捲し立てるうちに徐々に興奮が募り、メイアンは到頭立ち上がっていた。肩で息をしているのを見上げ、忠遠は耳から手を放すと、座れとも言わずに茶筒に手を伸ばした。蓋に計るような格好で適当に茶葉を出し、急須に移す。電気ポットからこれまた適当に湯を入れて、用意してあった湯呑みに適当に注ぎ分けた。ひとつをメイアンの前に置くや、もうひとつを手にし、息を吹きかける。
「ボスコ・アルバート・バラカス軍曹って誰だ?」
そこ?と息をするのを一瞬忘れる。途端に気が抜けて再び座布団にへたり込んだ。
「…特攻野郎Aチームの通称コングだよ」
「あぁ!あのTVシリーズは面白かったな!そうか、飛行機が苦手で毎度騙されたり薬を打たれたりして大陸を移動させられていたっけ。あんな重苦しかったベトナム戦争のその後をあんな風に笑い飛ばす米国人の気質には畏れ入ったものだよ」
メイアンは湯呑みに息を吹きかけながら呟く。
「あれは…時代だよな。先行きが見えなくとも一応の終結があって、妙な予測が立たない分展望に期待があってさ。略なかったとこにされた朝鮮戦争とは大違い」
「刑事コロンボは朝鮮戦争の従軍歴があったそうだ。本人が言うところによれば前線には出ず炊事当番をしていたと」
「ピーター・フォーク、いい味を出していた。そっか、時代設定はその辺りだったのか…コロンボが壊れかけても車をなんとかして動かそうとする心理がなんとなくわかったような気がするよ」
「それから、メイアン。お前さん、意外と科学的な思考回路なのだな」
すると唇を尖らせてメイアンは横を向いた。
「へっ、科学的なもんか。脳の反対側じゃ龍は翼もないのに空を飛ぶもんだって否定すらしない。仙人、いるいないは置いといて、西欧で言うところの隠者でも行者でもない、どこか好好爺で実は酒飲みでよく碁を打っていたりとかで時々方術というかなんだか魔法みたいなものを使う、そういうのを割と容易に想起して、だからこそ自分が仙人なんかじゃないと簡単に反駁するんだ。反面、仙人ならそういう魔法みたいなもの使えりゃ苦労しないのに!とかよ…」
忠遠は澄まして茶を啜ってから言った。
「成程成程。龍がいて仙人がいるということに確固たる説明がつかなくとも、端から拒絶はしない、とな」
メイアンは髪をがしがしと掻き回した。
「いるたぁ絶対に思ってない。進化の系統樹のどこにも合致しないよう人間の想像力が生んだ、そう、将に幻獣だ。角がある、鱗が如何なる大きさでどんな色をしている、手足がある、指がある、鬣がある、どれをとっても暗喩を積み上げたものでしかない」
「ははは、子供の頃から刷り込まれた特性に逆らえぬと素直にお言い」
「そうさね。鳥居を見れば神域への門だなと思うし、墓石の下には先祖の骨壺が納められていると想像がつく。梅干を見ただけで唾が出るのと同じだ」
「おやおや、文化的特性を条件反射と切って捨ててしまうのかね?」
「ふん。偉っそうなこと言ったところで、見たものを知識として獲得して、反射のように行動に直結する作用でしかないじゃんよ。唾になって出てくるか、神域だ骨壺だフーンと思うかの違いに過ぎない」
「成程成程。龍はそうやって獲得した知性の産物、いいだろう。仙人は?」
「なんら違いはないね。なにかしらの物語や伝承に接する機会は爪弾きな異分子にだって相応にある」
そう、と忠遠は湯呑みを置いた。
「お前さんのフォークロア観がよくわかった。誰もが信じていないし、しかしそんなものがあると知っている。人並みだな」
なにがいけないんだという不満を憮然で隠しながら茶を啜るメイアンに忠遠は笑いかける。
「…ファンタージェンに紛れ込んだ気分は?」