2023年3月、京都㉒
忠遠は黄緑色の琥珀糖のうちのひとつを物憂げに持ち上げて口に入れた。
「変化の修得は可能だろうよ。仙でなくとも人が化ける方法がある、それをおいおい特訓するとよい」
「うふ、教えてあげるわ」
「本当?やった!」
小躍りしそうになったメイアンだったが、礑と止まった。
「あ、でも九頭龍さんと新潟行ってこなきゃなんないんだった。その後でもいいかな?」
「あら素敵!九頭龍さまと旅行だなんて」
そんないいものになるだろうかね、とメイアンは苦笑いする。
「輝さん、こんなにいっぱいの琥珀糖ありがとう。忠遠、コレクションを荒らしちゃって、ごめん」
忠遠はまたひとつ黄緑色の琥珀糖を摘み上げ、灯りに透かしてから口に入れてにやりと笑った。
「よい。ただ飲み散らかされたのとは意味が違うしな」
「ふふ、暖海法師、レイヴンモッカーのお姐さんにもよくよくお礼を伝えといて。いつか自分で言いに行くけど」
「承知した」
メイアンの前に銘々皿をどけて膳が置かれた。
「ああ熊、夜食をありがとう。うは埋み豆腐だね!美味そう〜いただきまぁす!」
メイアンが輝媛に琥珀糖専門店を開くべきだと力説して解散となった。輝媛はじゃあねおやすみ〜と草履を履いて手を振って振り返るやふいと姿を消した。暖海には迎えの車が来て後部座席に乗せて行ってしまった。
「はぁ〜、到頭ファンタジアを是認しなければならないところにきてしまったらしい」
アキをまた泊めることにして、先に湯を使わせている間にメイアンは忠遠に零した。
「なにを今更。龍鯉で遠に納得しておらなんだか」
「納得っていうかね。前にも言わなかったかな?映像の世代だもんで、感覚は簡単に受け入れちゃうんだわ。でも理詰めでいけば通らないことばっかりでさ」
忠遠は薄く笑う。
「理屈という表現では語弊があるが、現代の科学という知識で理論を積み上げれば確かに行き詰まるだろう。結局まだまだ途上な、或いは科学とは異なる体系を知らぬのならばな」
「えぇ?世界は素粒子でできてるんじゃないの?」
「クォークだのレプトンだののことか?なんでそういう方面の言葉がすらすら出る?」
「あは。'90年代に日本に戻ってくる度にニュートンとかブルーバックスとかよく読んでた〜。忠遠も読んだ?」
忠遠は口許を緩ませた。
「一足飛びに科学の真理に飛びつける」
「でも肝心なところはやっぱり学者のような裏づけが無いともやっとしか把握できないんだよな〜。ま、把握するったって数値で証明するわけじゃないんだけどさ」
「反粒子だの陽電子だの、いざ他者に説明しようとするとどこかに粗があって上手くいかぬ。アインシュタインのような選ばれた脳細胞を持たねば不可能なのではないかとさえ思って、あれこれ恨んだりもした」
「恨んじゃう…そうだね。無力を痛感するもんなぁ。生きて暮らすにはなんの支障も出ないのに、どうしてむきになるんだか…で?重力子も光子も電子も関係ないの?」
「正確には、重なり合っている、というのが正しいのだろう」
忠遠は居住まいを正して言った。
「結局物質がなにでできているどうできているを突き詰めず、どう動かしている原理を明らかにしないまま文字式と記号と曲線と音で操る法則を経験的に積み重ねてきたのだ。物凄い圧力や温度、速度を必要として状態を変化させるとは違う方法だが、それぞれ同様に、または違うように変化させられる」
そうかあ、と顎を擦りながらメイアンは天井に目を巡らした。
「…九頭龍さんはそういうこと、教えてくれるんだろうか」
「どうだろう。龍鯉にはよく伝わらなかったようだが?」
漠然としたものを得てこいという意味だろうか、とメイアンは忠遠の目から探ろうとしたが、よくわからない笑みに覆い尽くされ徒労を悟った。
「そういえばさ」
「ん?」
「入道さんがくれた酒…」
ぴりっと忠遠に緊張が一瞬だけ走ったように見て取れた。あまり直截に訊くのは、多分不正解だな、とメイアンは質問の趣旨を逸らして問う。
「獺祭って、どういう意味?」
「酒蔵のある地域の古い言い伝えの、子供を化かして追いかけてきた古い獺がいたということから名づけたというそうだが。獺祭そのものは獺の習性を揶揄した言葉だ。獺の獲物の魚を捕えると岸に神に祀るように並べる習性を、祭りを行う獺という意味で獺祭という。転じて、人が詩歌や文を作る際参考資料なんかを広げて並べることを獺祭という」
メイアンはくすくす笑い出した。
「へぇ、知らなかった。獺ってそういう習性があったのか。獲物を並べて、どうするんだろうね。本当に祀っていたのだろうか…己を含めて誰かを喜ばせていたのかな、ねぇ?」
「かもしれんな。…そうだな」
忠遠は目を逸らし、その先で笑っていた。
「越後から帰ったら、開けようか。無事の旅を、祈ろう」
メイアンは自室の窓辺で携帯にイヤホンを繋いで音楽を聴いているようだった。横に並べた布団に横になっていたアキは身を起こした。
メイアンは片耳を外した。
「あぁ、ごめん。起こしちゃった?」
「うぅん、ちゃう。なに聴いてたん?」
「インコグニートのDon't You Worry 'bout A Thing。スティーヴィー・ワンダーがオリジナルなんだけど、インコグニートのカバーの方がコーラスが綺麗で好きなんだ」
「どないな曲?」
メイアンは外したイヤホンを差し出した。アキは躊躇わず耳に押し込むと、目を丸くした。
「これ!SING!で象が歌ってた!」
「あははっ、現代っ子だな。いろんな人がカバーしてるんだ」
「そうなんだ…新潟行くの、嫌なん?」
驚いたようにメイアンは目を剥いた。
「… Don't You Worry 'bout A Thing、だから?いやいやいや自分を励まさなきゃなんないようなことじゃないよ」
「ほんまに〰?」
「次の曲はタイム・アフター・タイム。シンディ・ローパーではなくてエヴリシング・バット・ザ・ガール。ラ・バンバはリッチー・バレンスじゃなくてロス・ロボス。あは、古くてわかんないか」
アキは暫く黙ってイヤホンに耳を集中させていたが、軈て顔を上げた。
「オリジナルよりカバーの方が秀逸だと思ってるってこと?」
「いや?クィーンのボーカルはフレディ・マーキュリーで、アダム・ランバートは絶対違うと思うよ?」
「誰やアダムなんちゃらって」
「あはははは、フレディはわかるんだ〜!」
一頻り笑ってからメイアンは立てた膝に腕を横に載せ、顎を載せた。
「出発はいつも多少ナーバスになる。未知な場所は普段の生活とは勝手が違って戸惑うのではないか。結局人間のすることに大した違いなんかない。その程度の揺らぎさ」
アキからイヤホンを受け取り、片づけた。
「寝よ寝よ!明日の出発だってのに、まだ行程を決めてないんだぜ!」
ばふっと布団の音を立てて態とらしくもぐり込む。アキはメイアンも不安とは言い切れないが安定しない気持ちがあるのか、と思いながら消灯した。




