2023年3月、京都⑯
輝媛は正座した膝の上に指先を揃えて重ねていたが、徐にぽん、と掌を拳で打った。
「熊。寒天とお砂糖。ドーヴァーの製菓用洋酒は揃えてあるわね?」
熊の目の奥が光った。
「モナンのシロップもありまする」
「菫、お庭で薄荷を摘んできてちょうだい。それから四条さまのお酒も」
「パルフェ・タムール、ブルーキュラソー、ティフィン、カルア、モーツァルト、それからパッソア、ヒプノティック?」
「あら迷うわね。両方にしましょうか」
「バイソンロゼ…」
アキが呟く。相当気に入ったらしい。
「いいわ。それも出して。バカルディラムはある?」
「ゴールドとスペリオールどちらに致しましょう。グランレゼルバエスペシャルもございまする」
「16年ものなんか使ったら四条さまが可哀想。ご覧、あそこで泣きそう」
「赤玉もありまする」
「ん〜良いわね!」
「媛さま媛さま!熊のお手製リモンチェッロは、どう?」
輝媛は破顔する。
「そんな素敵なものも?楽しみね。それからぁ…オレンジジュースはポンジュースにする?トロピカーナにする?蜂蜜とぉ…去年はジャムはなにを拵えたの?苺もいいわね、お抹茶も」
一体なにが始まった、とメイアンは茶を啜りながら達観するしかない忠遠に躙り寄った。
「…忠遠、蒐集品が荒らされてるぞ?」
忠遠は湯呑を掴んで重い息を吐いた。
「あの方には敵わぬ。メイアンがいけないのだ」
「なんだよ、いきなり迸りかよ」
忠遠は首を振った。
「妙なところで落ち込んだりしたではないか。輝媛の心にすっと入り込みよって」
「言い方〜!」
「あの方の本能に火が点いてもうた。次々に並べておる」
本能?と座卓に次々と並べられる洋酒や果物、抜き型に流し缶やジャム壜を見てメイアンは首を捻る。
「尚侍さまに飴を差し上げたときとなんら変わらん」
その話どこかで聞いたぞ、と思いながら続く忠遠の愚痴を聞いてやる。
「あのときも秘蔵していた香辛料を綿々と使われてしもうだのだ…‼︎」
わっと顔を覆う。メイアンは同情的に肩を撫でてやる。
「16年ものが使われなくて良かったじゃんよ。…ん?えっ、なに、もしかして慰めてくれるつもりでやってんの?」
「酒をそのまま飲ませようという試みではないぞ。楽しみにしておれ」
湯呑を置いて蹌踉蹌踉と出て行った忠遠を目で見送ってメイアンは息を吐いた。
「…アキ?バイトの時間は、いいの?」
壁の掛時計に目を遣り、酷く残念そうに立ち上がる。輝媛達に丁寧に中座を述べて、それでも名残惜しそうに出ようと上着を羽織り始めた。
「アキ、そんなに未練があるの?」
「…ええねん」
言葉とは裏腹に悔しさとも落胆とも言えぬ悲哀が声色に滲んでしまっている。メイアンは直ぐ戻るよ、と熊に声をかけ、ダウンジャケットに袖を通した。
目を丸くするアキに店まで案内してよ、と笑って靴を履く。
「入道さんだっけ?会ったことないからね♪」
「普通〜なおっちゃんや」
NSRを取り出してエンジンをかける。
「すっかり慣れてもうたなぁ」
「あははっ、自分の車庫だもん、自在に使えなきゃ」
アキを乗せてスタートさせる。西院だというから、そんなに遠くはない。アキの道案内に従って進むと、京福電気鉄道嵐山本線の際まで来てしまった。線路を挟んで向こう側は島津製作所の敷地である。住宅と工場の入り混じった場所にその拉麺店はあった。店名は張々湖だった。
「冗談きついぜ」
NSRを仕舞うと、グローブを外しながらアキに続いて店に入る。
「入道はんお晩どすぅ」
暖簾を出そうとしていたのか、背を向けていた大柄で肉づきのいい男が振り返る。
「うわ、006」
マジか、と呟くと、入道と呼ばれた男はにやりと笑った。
「おう、四条のが遥々ウクライナまで出向いて拾ってきたってのはお前さんか」
茶色みを帯びた髪はくるくると癖が強く、団子鼻が大きい。黒目がちで、蓄えた髭が泥鰌髭のように細く巻いていたら…張々湖だ。
「メイアンと呼んでくれ。入道さんでいいのかな?」
「はっは、構わない。言っていいぞ、サイボーグ006ってな!」
アキはなんのことだと眉を顰めている。
「オリジナルの張々湖より、最近リメイクしたキャラクターデザインに近いと思うよ。大人って呼びたくなるね!」
背丈があるところは異なるが、印象が似通うところは自覚があって、それを店の特徴にしているのだろう。白いTシャツのしたは隆々としており、白い前掛け、白い作業ズボンに白いゴム長。アキが出前の序でに寄ったときの姿とほぼ同じ。
「赤は着ないの?」
「あれは戦闘服だ。料理人は、白!」
アキは着替えようと店の奥へ入ろうとした。メイアンは彼女の腕を掴んで引き留めた。
「メイアン?」
「入道さん、今日さぁ、忠遠んところに輝媛さんが来てるんだよ。んでさ、女の子らでなんかわちゃわちゃ楽し気なこと始めちゃったんだわ。代わりに働くから、アキもそっちに行かせてやってくんない?」
輝媛、というところに入道はぴくりと反応した。アキは肝を潰したようにメイアンを凝視する。
「唐花模様が四条に行く話は聞いている。楽し気な、ほう。そうか」
入道は目を細めた。
「代わりに働くとな。良いだろう。アキ、仕事着を貸してやんな。ちゃんと三角巾もさせろな」
「えっ、ええっ、入道はん?」
何度もメイアンと入道を見比べるアキをロッカーまで引っ張って全部着替える。三角巾を着けると、アキを店から追い出した。
「メイアン、だって、なんで」
「行っといで。輝さんとお菓子、作るんだろ?もう開店みたいだから四条まで送ってけなくてごめんな」
ぐいぐいと背を押す。
「暗くなってきたけど、飛んでける?さあ早く行かないと。熊も菫も手際いいんだからな」
アキの姿が真っ白い鷺に変わった。鷺は物言いた気に振り返りつつも、大きく翼を打って舞い上がり、行った。がら、と店の戸が開き、身を屈めながら入道が出てきた。空を見上げ、暮れ泥んできた空に消えていった白い鳥の姿を目で追う。
「すまないな」
「いや、なにも悪かない」
無理を言ったのはこっちだとメイアンが笑うと入道はしょんぼり気味に言った。
「あの娘なぁ、どうにも女の子らしいことをさせてやれなんだなぁ。輝に会わせても萎縮するばかりだったんだが…」
「なんか、酒を色々使ったお菓子を作るみたいだよ。アキはズブロッカが好きらしくて、それもバイソンロゼ。忠遠がもう、こう、なんてぇの?泣きそうなんだよ」
入道は低く笑い、暖簾を出した。
「四条が探していた酒がある。帰りに持っていってやれ」
忠遠が探すような酒があるのか、と思っていると、入道は厨房に入りながら言った。
「全く手に入れられんものなぞ、この世には無いのだ。しかし己の懐へ辿り着く適時というものがある。奴にはそれが遂ぞ巡って来なかっただけさ」
どんな酒なんだと興味が立ったが、がらがらと引き戸が音を立てて客がやって来、訊き逃してしまった。
西院の外れにある入道の店だが、案外繁盛していて、切れ目なく客がやって来る。入道は常に麺を茹で、隙を見ては焼豚を切っていた。
メニューは拉麺一本で、サイドメニューは無し。ビールさえ出さない。スープは豚骨と塩、どちらも細麺。支那竹と菠薐草、海苔、小口の薄切葱。焼豚と鳴門。なんとも突慳貪な拉麺である。
トッピングに煮卵や焼豚などの増しがあってどれだけニーズに対応しているのか心配になる程だが、客は自分の食べたい量を少しだけ調整して満足して帰ってゆく。
「人気あるんだ?」
「飲食店、特に拉麺屋ってのは五年も続けば上出来なのさ。物珍しさを如何に脱却するかが鍵だな」
そろそろ看板にするか、と明日の仕込みを始めながら入道は言った。メイアンは割箸や胡椒を補充し、水のジャグの回収を始める。厨房を覗き込むと、入道は豚骨を寸胴に入れ、火を点けたところだった。
「凄っげぇ。そこから作るんだ」
「はははっ、共喰いだとよく言われる」
「塩はどうやってるの?」
「おいおい、店の秘伝を軽々しく訊くなよ」
しかし笑っているところを見るに、訊いてはいけないという意味ではないらしい。
「塩は鶏がらと白醤油を使うんだ。ちょっと味醂を入れるのが、アレだな」
「白醤油?」
「醤油は小麦と大豆を発酵させるだろう?大豆を使わないで作ったのが白醤油だ。最近は作るところも増えてきた」
「初めて見た」
「ひひひ、ビブグルマンに載ってる店が使ってるってんで使ってみたんだ」
「入道さんの野望はビブグルマン掲載かぁ!」
笑いながら表の暖簾を降ろしに出ると、山伏が入道はいるかね、と声を掛けてきた。山伏が普通に闊歩してるのか。とメイアンは妙な感慨を持ちながら降ろした暖簾を傍に寄せ、中に誘なう。
「おぅ、暖海!この生臭ぁ!」




