2023年2月、ドネツィク②
「ん?まだなにかあるのか?」
「新手のドローン…、あれは攻撃機だ」
長髪の男が首を傾げる。
「ジュネーヴ諸条約違反じゃないの?」
「否。全く違反とは言い切れぬな。非人道的とは揶揄されるが」
なにをのんびり、こんなところに突っ立っていたら然も撃ってくださいと標的になっているようなものだ。
…待てよ。
首を捻る。攻撃機にもカメラは搭載されている。だのに偵察機は残っている。標的にされやすく、たった一発で使い物にならなくなるドローンは目的を果たしたらサッと引き揚げてしまうものだ。だが今以て残っている。なぜだ。
偵察機は『見る』ことだけに特化している。
つまり、これから起こる攻撃を『見たい』のだ!
なぜそんなに『見たい』のか。
『見たい』見たい…監視。違う。観察、か。もうこんなに荒廃した場所に残っているのは自分のような動けなくなった使い捨て歩兵くらいなもの…おそらく、塹壕ひとつにひとりかふたり。住民は逃げ、或いは死に絶えている。ロシア側ももう弾薬はぎりぎり、粗悪な黒色火薬さえを持ち出している。考えろ。
考えろ。
考えろ。
観察。実験。試験。観察。
こんな泥縄なタイミングでなにを試す?
二月末のドンバス。攻撃対象は疎に散り、窪みに潜んでいる。凍っていた地面が融け泥濘と化し、戦車は身動きし難い。砲弾は節約したい。
ふと、下向きにぶら下げられたままの目線の先に、漂う靄のようなものがまだ散らないことに気づく。
無風。
…使い捨ての歩兵。
無人で遠隔操作のドローン。
「…ガス」
「うん?どうした?」
「やつら、ガスを撒くつもりだっ。空気より重いガスなら塹壕を、塹壕なんか一網打尽にできるっ」
長髪の男はあきれたような顔つきになる。
「それこそ国際条約で禁止されているだろう?化学兵器禁止条約だったっけ?」
マウンテンパーカの男が抱えた手の反対側で顎を擦った。
「ふむ…確かにロシアも署名・批准はしてたが…それだけ滅茶苦茶な戦況であるのは、事実だ。そんなものに巻き込まれるのは面倒くさい。寒霏、早くしろ」
「ま、待てっ」
慌ててマウンテンパーカの裾を掴む。
「まだ生きている歩兵もいるっ」
「仲間意識かね?」
「そ…そんなんじゃ、ない。けど」
「けれど?」
「…いっ、嫌なんだ、あれは。苦しい。略死ににきているようなものとはいえ…イペリットは死ぬより辛い。マスタードなら殺してほしくなる」
男はすっと目を細めた。
「イラン・イラク戦争や湾岸戦争に行った経験があるのだったな」
「なぜそれを」
「今それを説明する時ではあるまい。そんなもの使われては寝覚が悪い。貸しひとつということでなんとかしてやろう。以後もう喋るな」
「なんとかするって」
「口を開くな。寒霏、さっさと転じろ、そして水を。あのドローンをだな」
「わかったわかった。偵察機の方は叩き落とすぞ」
靄が一気に濃くなり、長髪の男を覆い尽くした。今度こそ夢でも見ているとしか言いようがない。唖然としているうちに濃い靄が解けるように薄くなり、今度こそ頭がおかしくなったのだと確信した。長髪の男は消え、そこに巨大な幻獣が存在していたからだった。
「ド…ドラゴン?」
「横文字にするとそうなるがな。鯉が龍に成り上がって未だ千年と経たぬ未熟者よ。稲妻さえ飛ばせぬ」
大きな鱗に覆われた銀色の大蛇に似て、しかし四肢がある。各五本の指には鋭い鉤爪、首に、そして四肢にも鬣。背には帆のような背鰭、頭には鹿のような二本の角。顔が長く耳がある。口のあたりに長い髭があり、巨大な眼が炯々と光っている。
巨龍は鎌首を擡げた蛇のように伸び上がり、赤子がするかのように偵察用ドローンを虫の如く叩き落とした。あんなに恐れたのが馬鹿馬鹿しくなる程簡単に地に落ち、小さな火をあげ煙を吹いている。続いて龍はその前足でなにかを戴くような格好を取り、大きく息を吐いたのだろう、靄が一気に躍る。それらは前足の間、龍の胸の前に蟠ってゆき、段々と大きな水球へと変化してゆく。
「…面妖いだろ」
「なにが?」
「あそこだけ無重力なのか?」
「そういうところだけ冷静だな。馬鹿でかい龍がいることは看過するのに?」
「そこはなんていうか、もう特撮というか、映像の世代だから」
男はくつくつと笑った。
「そこまで元気なら、よい。寒霏、そいつの中にボチャっと入れてしまえ。凍らせるとかは…よいよい、未だ無理なのだったな。全く、いつまで経っても修行が進まぬから便利な乗り物扱いなのだ」
男はポケットから白い紙を取り出すと、筆ペンで水滴型の点をひとつ打った。龍の巨大な水球の中に放り込まれた第二のドローンは短絡したのか動きを止めつつ、水球内に小さな灰色の気泡をふたつ程吐き出していた。これでいい?という様相の龍に向かって男は書き入れた白い紙を軽く…上出来な紙飛行機を風に乗せるかの如く宙に放った。紙は意志を持ったように舞い上がり、すうっと水球に乗るように貼りついた。その瞬間に水球が液体をやめたことは明らかだった。球体であったとはいえどこか揺蕩うような危うさを保って龍の前にあったものが一気に氷となり、霜までつけている。
「あれ、どうする気」
「そうさなぁ。クレムリンの避雷針にでもぶさっと刺して置いてくるか?」
「…案外いい性格してるじゃん」
「褒め言葉として受け取っておこう」
氷球を同じ姿勢で捧げ持った龍が少しだけ身を屈めたところに男は遠慮なく攀じ登る。龍の首の背鰭の無い部分は案外広く、そこに放り出された。
「未だ名乗っておらんかったな。賀茂忠遠という。この未熟な龍鯉は寒霏、姓は無い。取り敢えず行き先はモスクワ経由日本。以後なんと呼べば良いかね?」
適当に転がされたままの姿勢で考える。突如なにかが可笑くなってきて、くっと差し込むように笑ってしまった。なんだかんだ考えてばかりだ。だが救い出された、これだけは確かだ。事実、あれこれ衰弱していた箇所が恢復の兆しをみせている。悪いようにはされない気がする。
名前は認識票と共に捨ててきた。クレイウォーターに登録していた名前など、どうせ偽名だ。
「Meilland。姓だ。メイアンと呼べ」