2023年3月、京都⑫
アキにはまだ酒を飲ませるんだったっけな、と鬱屈と沈痛を完全に塗り込めて歩み寄った。
「ただ〜いまっとぉ」
「どうやった?」
説明しないわけにもいかないか、と小さく息を吐く。
「気持ちのいい話じゃ、ない。久我、悪いんだけどNSRと一緒に一旦魔方陣に納めて離れたところまで運んでもらえないか」
「メイアンを斜めの世界に?」
「できればアキも」
夜目の利かないアキを夜空に飛ばしたくない、と久我に言うと久我は心配気に言った。
「…斜めの世界は全く白くて長くいると頭がおかしくなるっていうんだ」
「御託はええさかいちゃっちゃとやり」
気短に詰め寄るアキをメイアンは宥めた。
「心配してくれてありがとう、久我。こういうアキといれば大丈夫だよ。少しでいい、太秦から離れたいんだ。あまりうろうろしてると」
久我は渋い顔で頷いてメイアンとアキとNSRの上で軽く手を振った。途端に夜道の住宅街だった視界が一瞬にして目に痛い程白いなにもない空間に変わる。太秦の夜の住宅街は行き詰まった距離感があったが、白い空間はどこまで続いているのか把握し切れない曖昧さが気味悪く思える。
「ふふっ、アキは短気だな」
立っていても疲れるだけか、と取り敢えず床面に相当する部分をNSRを見て把握し、胡座をかいた。高さにも幅にも奥行きにも目測が全く立たず、かといって浮遊感があるのでもない。存在感のない硝子の上にいるかのようだ。アキは極まり悪そうにしゃがんだ。
「久我が鈍いんやわ」
「アキは気がついちゃったか〜…ハーバーはね、ここに自殺しに来たんだわ。多分、弁護士って迎えに来た奴も」
「えぇ?」
「弁護士とハーバーはクローンでね。二人して仲よく自殺となれば、ハーバーが身分証も持たずに銃を裸で持ってた、などという事件はこれで終わりさ。他殺の可能性って引っかかっていじいじ調べられたら事件はいつになっても終わらないし、迷惑だ。だから久我に頼んだ。ごめんね、説明が後になって」
「や、謝られても。クローンが揃って自殺するって、双子が悲観して…ていう?」
「そういうシナリオがシンプルで納得し易いんじゃないかな。それで幕引きして、日常に埋没させるんだろう。警察官もいち労働者で全部の容疑者や関係者を記憶しておけないだろうって、人間が馬鹿みたいにいっぱいいるっていうことに依存した計略だよな。全く矛盾してる」
「人多すぎるって憤っときながら、それにまんまと便乗するん?」
メイアンは頷いた。
「杜撰だよな。他人の記憶力をなんだと思ってんだか。ハーバーのことなんか誰も思い出すことなんてない、なんて」
床に目を落とそうとして、落とす先が無限でどこまでも明るいのにどこまでも深淵で、これが久我のいうところの『おかしくなる』の一因なのだろうかと思う。
「あれ?久我のやつ、なかなか出してくんないな?ここって時間の流れもおかしいのかい?」
アキは首を傾げた。
「久我の開ける陣は大体は単なる並行世界だけやった筈やけど。さっき開いたのも同時並行の、所謂四次元ポケット」
「ならどこまで運んでくれる気なんだ?」
最近ガソリン高騰してるからありがたいけど、と苦笑いした。
「ガソリン高値いの、メイアンが行っとった戦争の所為?」
「最大要因だとは思うよ。けど、どんどんグローバルネットワークは縮まってるからねぇ」
「風が吹いたら桶屋が儲かる的な?」
「あっはっは、按摩が増えるのは困るね」
げらげら笑うメイアンを見てアキは不思議そうに言う。
「メイアンってさ、ほんまに傭兵やっとったん?」
「ん?そうだよ?なになに?胡散臭い?」
「だって背も低いし、女の子やん」
「女の子って言われた!」
腹を抱え手足をじたばたさせながら笑い転げるメイアンは少年にしか見えない。アキは不満そうに口を尖らせた。
「ごめんごめん、ありがとね、髪も刈り込んでたし、無い胸だしな?戦場は極限状態だからあんまり性別女を出すと厄介だから、そんな癖がついちゃってね。確かに二十歳前後で止まっちゃったから、女の子で通用するんだなあ。新鮮だ」
「メイアン変…」
「いやいや、女の子ってもっとふわふわの、でもきりっとしてて、可愛いもんじゃん?」
「メイアンは意外とむきむきやさかいなあ。タンデムしとったら腹ばきばきしとって吃驚したもの」
「アキやらしー。おっ?」
また不意に白く眩い世界が一気に暗転した。ただ、太秦の古墳周辺とは異なり、夜空は真夜中を回って尚薄明るく、街の赤みを帯びた光がまだ残っている。
平凡な草木のようでいて稍珍しめなラインナップのこの庭は、忠遠の庭だ。人型になっていた久我にメイアンは礼を言う。
「ありがとう、四条まで運んでくれたんだな」
「あっ、あの、NSRを街中で突然出すの変だし。夜中だから音、気になるじゃん?」
「へへへっ、久我は気遣いの子♡ただいま〜忠遠…忠遠?」
忠遠は出る前に座っていた縁側にまだ座っていた。帰着に反応し手を上げたが、眉根を寄せなにかにまだ囚われているような顔つきである。
「もしかして、まだハーバー達を見てる?」
忠遠は顎を引いた。
「二人揃って首吊ったんじゃん?」
「然り」
「…なんでまだ見てんの?」
忠遠は眉間の溝を深くした。
「メイアンが単車に戻った頃に、二人を運んできたタクシーが戻ってきおったのだ」
危うかったな、と流石のメイアンも血の気が引く。
「そのタクシーの運転手が警察に通報した。今高畠墓周辺はパトカーが犇いておる」
「えぇ?なんでぇ?」
「運転手は警察にはこんな便の悪いところに真夜中に降ろしたから、とな。どこかの家に入ってゆく様子もなかったからと弁明しておった」
「ん?面妖いな?タクシーなんか直ぐに走り去ったよ?」
忠遠は頷く。
「左様。直ぐに去ったわ。そしてメイアンと入れ違いに戻ってきて、即陵墓を登った」
「え?確信?」
「然り」
そして戻ってきて、汚れた靴を拭きながら通報した、と忠遠は言った。
「くはー…タクシーまでグルだったのかよ」
メイアンは忠遠の横に座ると目を覆って天を仰いだ。
「そこまで確実に警察に死亡を知らしめたかったのか」
「メイアンが追ったことは気づかなかったようだ、安心せい」
「あぁ、それはどうも…」
メイアンは熊にアキと久我になにか出したって、と疲れたように言った。アキは黙って熊と菫の手伝いに立つ。
「もういいよ、忠遠。疲れたろ」
「警察が引き揚げるまでは見ておく。瑣末な禍根を看過したくない」
任せるよ、と吐息のように呟く。
アキは数時間前に飲み損ねたズブロッカを鰯の皿と共に盆にのせて持ってきてメイアンの横に腰を下ろした。ズブロッカのラップを剥がしながら言う。
「グレイシャ計画ってどないな規模なんやろな」
「メンバーにクローンって物凄い家族経営的のようでいて、無尽蔵に人材があるようにも見える。ノースカロライナに働きかけているのに、京都に二人も投入して二人共失った。でもタクシーの運転手まで仲間だときたもんだ。もうどこ向いて喋ったらいいのかわからなくなりそうだ」
今度こそズブロッカに氷を入れて嬉しそうに口に運ぶ。
「これ美味しいね!」
珍しく可愛らしげに言ったアキにメイアンは相好を崩した。
「普通ズブロッカなんてがぶがぶ飲まないぜ」
ショットグラスを持ってくると、八分目まで注いだ。淡いピンクの液体を湛え、凡庸なグラスが輝く。鼻先に持ってくると、ラズベリーと桜餅の香りがした。世界はあちこちに小さな輝きがあって、華やいだ香りや美味が五感を楽しませるものがごろごろ転がってるんだぜ、とアキに気づかれない程に小さくグラスを掲げ、祷りに代えた。




