2023年3月、京都⑨
久我が真っ青になっている。
からん、と音がした。手に力が入らなくなったのか、箸が滑り落ち、座卓の縁に当たって畳に転がり落ちたのだった。熊は黙って拾ってやるとメイアンに目配せした。
成程、呼び鈴は久我の脅威であるようだ。メイアンは黙って立ち上がると、忠遠にひとりてゆく、と合図して玄関に向かった。久我があれ程震え上がるとはどういうことだろうか。メイアン達が焼き鳥にするだのツボ抜きするだのと散々に言った時も相当に震慴していたが。
「どなたさま?」
声をかけながら玄関を開くと、白い三角巾、白い前掛け、白い厨房服に白いゴム長という白尽くめの女性が立っていた。頃合いは二十歳前後、片手に岡持ちを提げている。ラーメンの出前といった風情だ。
「…出前は頼んでないよ」
「いぃえぇ、弟、こちらでご厄介になってるようやさかい」
べたべたな京都弁である。
今ここで弟、と宣ったら大概久我のことしか思い当たらない。彼女が久我の姉で、久我はこの姉に畏怖しているのだろうか。それに、久我は五位鷺が人に変化しているものだ。ということはこの人物も五位鷺なのか。
「貴女は、誰?」
「うちはアキと申します。弟を引き取りに来たんどす」
「アキさんね。弟?物凄くガクブルってるけど?」
アキは肩を竦めた。
「やったことの責任は自身でとらなあかんの」
「それには賛成するけどね、失神寸前まで追い込むのは姉弟といえどハラスメントじゃない?」
アキはメイアンを直視しながら言う。
「逆にお訊きするけど、あんた、うちのあほ弟にバイクを盗まれそうになった筈。それ贖わせのうてええの?」
メイアンはけろりと返した。
「単車なら全く無傷で返してもらったよ?」
アキは鼻に皺を寄せた。久我の対応に不満を持ったのでも、メイアンの暢気な考え方に腹が立ったのでもなく、不法行為を口実に遂行しようとしていた別の用件を阻止されたことに苛立っているようだな、とメイアンは噫にも出さずに思う。
「盗んだ返したで済んだら警察要らへん」
「いいじゃんよ。よく粘ったよ?秘技なの?」
アキは額を抱えた。
「そやさかい四条には近づくなって口を酸っぱして言うといたのに」
「忠遠ん家だから?」
「当たり前どすえ。敵わな分かってるのに危険冒す必要あらへん」
メイアンは態とらしく首を傾げる。
「あのさぁ。パーツ集めて売り捌くのは貴女がやらせてんの?」
アキは鼻白む。
「はあ?そないなことさすか!」
「ふーん。ならどうして、四次元ポケットが使えるのさ?」
さっと蒼白になる。やはりこれか。
「…あんたさっき秘技なのか言うたやんな。訊くまでもあらへんやろ」
「いやいや、訊かなきゃならないでしょ。まあ、その反応で四次元ポケットなのは確定だな」
図星だったらしい。
「いけず」
「池の端の芋茎だなんて褒め過ぎだろ♡」
「褒めとらん」
「…で?貴女、弟に折檻するの趣味なの?」
「なんなん」
似たような反駁をする。姉弟というのは強ち間違いではないようだ。
「うーん、流石にね…あの怖がりようといったら尋常じゃないんだな。幾ら死に難いとはいえ、HP1まで痛めつけたらそりゃトラウマになるだろう」
これには言葉に詰まったようだ。メイアンは態とらしく小指で耳の穴を掻く。
「窃盗が理由如何で許されるとは言わないさ。でも貴女が目論んでる体罰は多分窃盗に対してじゃないだろ。四条に近づくなってのも、忠遠に暴かれたら拙いからでしょ。そんなに大事なの、あの魔方陣」
アキはあああー!と叫びながらしゃがみ込んだ。できれば玄関先でやめてほしい。
「断っとくけど、まぁ割と頑張って自白させたし、簡単に見抜ける人も揃っていたから。知りたいのはそこじゃない。なんでそんなに強硬に秘匿するか、だよ」
アキは苦虫を噛み潰したように吐き捨てた。
「あの安本丹の表六玉が。業突く張った変な小遣い稼ぎなんかするから!」
「梼昧なのには同意するけど、答えになってないよ。それとも貴女も明確な答えを持ってないってことかな?駄目と言われたから駄目としか答えないのだとしたら、貴女も弟と同類項だよ」
アキは答えない。
「答えることさえ禁忌なの?それじゃぁ貴女達姉弟共々なんとかに刃物じゃん」
埒が開かないな、と嘆息しかけたとき、いつの間にかメイアンの両側に張りついていた菫と熊が口を開いた。
「河図洛書は強力なんだよ」
「気安く使ってはならないのです」
「どうして?」
「河図洛書は簡単な図形で陰と陽と数字を表します。これに配置を与えることによって斜めの世界…よくある言葉で言うと次元の違う世界とか、パラレルワールドとか、そんな感じの場所と繋げてしまうことができてしまうのです」
「マジか」
「マジマジ〜」
「なんか理解できたよ。つまりあの魔方陣は一定の座標を狙って開けたり閉じたりができるんだな?」
アキの顔がどんどん険しくなる。
すると横合いから忠遠がうっそりと現れた。
「…そう追い詰めるでない」
「忠遠?」
「初めまして、じゃな?亥の入道には聞き及んでおるよ。彼奴相変わらず名づけのセンスが皆無だの」
「へ?」
メイアンの間の抜けた返事に、アキは若い女性らしい剥れた表情になる。
「久我は空閑、空いた空間のことだ。アキ、は空、を当てるのじゃろ?」
アキはぶすっとしたまま伏し目がちに頷く。
「1990年代に相次いで鷺の仙を拾ったと聞き及んでおる。小鷺だったかの?」
「違う。中鷺っ。あんな気の短いのと一緒にしないで」
「中鷺?」
「田圃なんかでよく見る白い鷺には種類がある。小鷺中鷺大鷺と大まかに分けると三種類。小鷺は割と活発で脚で泥を掻き回したりするんだが、中鷺や大鷺は嘴広鸛のようにじっと待つ習性がある。そうやって水田に佇む姿は美しいぞ」
「ふーん。…じゃあ久我とは実の姉弟じゃないんだ?」
「五位鷺だからのう。しかし鷺は種類を越えて群れることも多いし互いに仙だ、肉食をよしとしない亥の入道だがああいう鼻息の荒い奴の傍にいるとなれば自ずと姉弟のような情も湧くのではないか」
「五位鷺はあほやさかい嫌なんよ」
アキは吐き捨てる。
「あっはっは、神泉苑に入り込んだが故に醍醐天皇の目に留まって五位の位を授かったという、あれかな」
「碌に飛べもしいひん癖に平気で人の傍に行く習性、どないかしてほしおす」
「よいではないか。逃げようとはしたものの状況を見極めて大人しく捕まったから、今に名が残っておる」
「ペンギンに紛れてるのも?」
「ははは。水族館で飛ぶペンギンだと時折ニュースになるのう。よいか、人というものはの、ちょっとくらいお零れに与ろうと小賢しくしてる奴のことは嫌いではないのだよ。寧ろ水族館の宣伝になると多少多目にも見てくれる。上手く人間を利用して経済に乗っかるのも、それはそれで知恵ではないか」
「甘いねんな」
反駁しようとしたメイアンを忠遠は軽く押し留めた。
「単車も戻ってきた、入道にも伝えておくから、そう叱られもすまい。そう目角を立てなさんな」
忠遠に押し留められ本題の口出しを控えさせられたメイアンだったが、岡持ちに目を留め首を傾げた。
「バイトでもしてんの?配達の最中?」
「丼回収してきたとこ。序でにあほ弟も拾うて帰ろう思て」
「働いてるんだ。なら、仕事上がりにおいでよ」
するとアキはさっと青褪めた。
「ううううちを食べても旨ないで!」
横で忠遠がくつくつと笑い出した。メイアンは直ぐに合点がいったらしく慰めるように言う。
「安心してよ、貴女中鷺なんでしょ。鳥猟してはならないと定められてると思うけど?」
「…法律?意外」
「そう?貴女は縛られる必要はないけどね、こっちはこういう形なもんで。忠遠も獲って食おうとかしないよ」
「その後ろのも?」
アキは熊と菫をも警戒しているらしい。
「ここは京の台所四条だよ?そこら辺の野鳥を捕まえて野趣溢れる料理を繰り広げなくっても、市場に行けばなんでも揃うっての。残りの仕事、気をつけて頑張ってきな!賄いとかあるの、無いならなんか用意しとくよ」
不承不承という風ではあったが、アキは日付の変わる少し前に再度現れた。ライトブルーのジーンズに真っ白なTシャツで、三角巾はもう無かった。
「お疲れちゃん。あの後ちょっとひとっ走り魚屋行ったら鰯しかなくてさ〜梅煮とか、食べられる?」
「好物やで。鰯煮るの手間やない?」
「あは、煮たのは熊だから、詳しいところは熊に訊いて。ご飯がいい?酒にする?」
「くれるん?」
「おっ、いける口だね?どこの酒にする?発泡酒から正統派ビール、ワイン、ウイスキー、シェリーとかもあるよ。それとも缶チューハイとか?日本酒もあるよ」
途端に目をきらきらと輝かせ始める。
「う…うちを酒で懐柔するん?」
「してどうすんのさ。NSRをこれ見よがしにしてたのはこっちだし、防犯対策が足らなかったのは事実だ。邪な気持ちを実行した久我は愚かだけど、結果的に皆が皆NSRに振り回されちゃった訳じゃん?三方一両損でよくない?」
「えぇ〜大岡越前〜?」
「あははっ、京都所司代の板倉勝重が本家じゃない?」
「そうなん?」
「落語で大岡越前をサゲの駄洒落に引っ掛けて使ってるけど、史実に無いらしい」
「マジ?」
「板倉政要を元ネタにしたんでしょ。子争いは列王記由来だし、江戸時代の落語家って博識だよな」
「列王記ってなんなん?」
アキはズブロッカのバイソン・ロゼを見つけて目を輝かせた。
「列王記は旧約聖書に収められた古代ユダヤの歴史書だよ。クリスマスにやった宣教師の劇を見たのか、イスラム経由で北宋に伝わったのを耳にしたのか。いずれにしてもよく目と耳を開いていたよね。情報の伝達手段や検索方法が限られていた時代なのに、凄いと思う」
ピンクのズブロッカを小さめのグラスに注いでやる。何かで割るかと目で問うと、アキは氷だけを所望した。
「うはっ、思いの外呑兵衛だな。ロックで飲むなら先に言いなよ〜♪」
菫が持ってきたアイスペールを受け取り、氷をグラスに慎重に沈めようとしたとき、襖を前置きなく忠遠が開けた。
「メイアン。ハーバーが動くぞ」
メイアンはトングで掴んでいた氷を戻した。
「なにがあった?」
アキはズブロッカのグラスを掴んで差し出したまま固まっている。
「このコロナ禍がやつには幸いした…というか、換気で窓を開けているのがわかっているからこういう手段を取ったのかね」
「窓から逃がそうとかそういう?」
忠遠は静かに首を振った。
「超小型のドローンが通信文書を運んできた」
「ここでもドローンかよ…」
頭痛になりそうだ、とメイアンは呟く。
「密書には深夜に弁護士をやって釈放に漕ぎつけるとあった」
「証拠残るじゃん」
「破いてトイレに流しておったよ」
「どこのスパイ合戦かっつーの」
アキはグラスを置いた。
「なに首突っ込んでんねん」
メイアンはちら、と忠遠を見る。アキに話してしまってよいものか…忠遠は責任を持ってくるな、と太息を吐いた。
「…亥の入道にはここに来ることは伝えたのかの?」
アキは素直に顎を引いた。
「酒が沢山あるぞって笑うとった…けど?」
「入道がこの事態を見越していたとは思わんが、空気感は掴んでおったろうな。アキよ、聞かないで帰るなら今だが?」
ズブロッカのグラスにラップ張っておいて、と熊に言って立ち上がった。態とらしく屈伸してみせる。
「入道はんが四条や言うても止めへんかったのは、多分こないなことなんやろ。四条はんは仙の安寧を考えてるんやって入道はん言うとったで?」
悪戯っぽい言い回しに忠遠は面映い思いをしたようだったが、それをさっと引き締めた。
「危ういようなら手を引くのだぞ?」
アキは軽いノリで頷く。忠遠の心労を慮りつつ、メイアンも立ち上がった。熊に急いでもらったのにごめんね、と謝る。熊はいいのだ、という風にくるくると首を振った。
「梅煮、残しといて。食べたいねん」
すると熊は苦笑と別のものが混ざった笑みを浮かべ、お待ちしております、と頭を下げた。




