2023年5月、セーヌ⹀サン⹀ドニ②
スターリングの襲撃を報せてくれたのも、確かレイヴンモッカーだった。
「ᏏᏲ!」
「何語?」
メイアンと忠遠は全く線対象に顔を見合わせる。
「あのな、話者が複数いて、暫く聴いてなきゃ話せないし、わからないの」
「つまり英語でもフランス語でもない、と」
「彼女がレイヴンモッカーなら、チェロキー語が考え得るが、それは話せないぞ?」
「そんなのあるのか」
「文字を作ったのは19世紀に入ってから、正式採用は1825年だが、言語そのものはもっと前からある。ネイティヴアメリカンは文明レベルが低いと勝手に思われてるけど、変な風に工業化へ走らなかったナチュラルな暮らし。雄叫びを上げて意思疎通してたわけじゃない」
「む。それもそうだな。永らく文字を持たない種族だったのか」
「…忠遠はレイヴンモッカーに会うのは、初めてなの?」
「抑大陸を越え太平洋を越えて来ない」
「本州には、だろ?北海道では見られるから、アイヌは老大なるカラスと呼んでいた筈だ」
「詳しいな」
「アイヌは話者が複数いた〜」
ジャージー・デヴィルの背からぴょいと飛び降りたのは一言で言えばコスプレイヤーだった。
耳当てのついた飛行帽にゴーグル、フライトジャケットからは白いシャツと朱色のネクタイが覗くも、白いスカーフが覆う。白いガントレット、焦茶の皮ベルト、ズボンに長靴。そしてご丁寧に黒い丸眼鏡、上を向いた口髭、玩具の豚鼻をご丁寧に綿ゴムでつけている。再現できていないのは体型と性別だけ。
雨で早くも庭の土埃が落ち着いてきたのを見計らって忠遠は窓を空けた。高校生くらいの女の子が駆け寄ってくる。
「ᎣᏏᏲ! I heard from Dankai that she was here...Ah! There she is!」
また知らない単語が出たなと思ったら、流暢に英語が繰り出された。米国にいる以上、英語が使えないということはないのだろう。メイアンは忠遠を軽く押さえて顔を出す。
「Are you talking about me? Who are you?」
「Wurteh. I'm Wurteh, the Raven Mocker. This is Plum, the Jersey Devil.」
このくらいなら聴き取れている、と忠遠は小さく顎を引く。
「I'm Meilland. Can Plum get smaller? You both are getting cold, how about some tea?」
忠遠は小さな声でなににすると尋ねた。
「お薄」
「諾」
忠遠のその返事が合図であったかのようにバスタオルを携え菫と熊が出てきた。
ウルテと名乗った少女はジャージー・デヴィルに頷くと、忽ち細身の女性の姿になった。否、女性なのだろうか。驚く程鮮やかな紫の髪の、顔立ちはとても角ばって男性的だが髭のあった形跡のない、胸も起伏が少なく肩幅が確りしている、性転換中の人物のような印象だった。ハイウェストのベージュのパンタロン、真っ黒なハイヒールパンプス、身体の線を隠すようなローゲージニットは正直肩を強調してしまって逆効果だなとメイアンは思う。髪は地毛ではないようだ。
さっと広げられたバスタオルの上にウルテは長靴を脱いで上がるとプラムはそれに倣う。菫も熊も物怖じせずそれぞれにタオルを被せるように渡し、届く範囲で水分を取ってゆく。ウルテは飛行帽を始め頭部につけていたものを全て外し嬉しそうに拭いてもらう。プラムは少々恐縮気味だが、菫がお構いなしに、しかし優しくぽんぽんと拭き取ってゆくのにされるがままになっている。忠遠は座敷の襖を開けた。いつもは正面にテレビ、真ん中に座卓が鎮座坐ましているのだが、それらは無く、違棚だの花入だの掛軸だのがすっかり用意されており、釜では湯が沸いていた。座布団はルール違反だが、座るところを明確にするにはよい。
「Don't step on the edge of the tatami mats. Follow me.」
タオルはいつの間にか回収され、熊が菓子盆を用意してもう待っている。メイアンは正客の位置に座り正座をしたが、二人には座布団を示し足に無理のないよう座るように言ってやると、ウルテは目を輝かせて正座になり、プラムは正座をしてみたもののこれはいけないと思ったのかどうやって座ろうか試行錯誤している。痺れ難い座り方を示してやるとほっとしたようにその通りにした。二人が落ち着くや、熊は菓子皿に懐紙を敷いて、菓子を差し出した。輝媛の琥珀糖だった。奇抜な味ではなく、苺、青林檎、伊予柑のようだ。先ず菓子を食べ、口が甘くなったところを茶ですっきりさせるんだ、とだけ言ってメイアンは食べ始める。忠遠は薄めに立てた茶を次々に菫に運ばせ、各人の前に置く。プラムは菓子が綺麗だと手をつけるのを少し躊躇っていたが、意を決したように口に運ぶ。ウルテはもう三つ目、どれもこれもフルーツ味であることに嬉しそうだ。メイアンは茶碗の正面は器の最も美しい言わば顔だからそこを少しだけ避けて無地のところで飲んでみてね、熱いよ、と数回に分けて飲み干した。色々作法は飛ばした。幾ら正しくても感覚に合わないことは、合わない。口をつけたところだけ軽く指で拭うと、そういうことなのだと理解した二人が倣う。
忠遠は手を突いて頭を下げた。あんなに甘い菓子を食べたのに、香りまでも口からすっきりと消えていることに二人が満足した様子がわかったからだ。




