2023年5月、京都㊹
酔いにならなかった酒をシャワーで抜いて、メイアンは朝食の席に着いた。
「ふわわわわ」
欠伸をし、怠そうに俯く。
「寝不足なのか?」
「少しね…セヴンホークは観念して純恋ちゃん家に帰るみたい。今日のところは」
「危ういのか」
「怪我もしてるし、今日が金曜、土、日と娘もいて全国的にもゴールデンウィーク。動くのは、月曜だな」
忠遠はテレビの電源を入れながら監視を代わろうかと言ったがメイアンは断ろうと顔を上げたところで画面に釘づけになった。
「Шойгу́! Гера́симов! 」
忠遠もぎょっとしたように画面に見入る。
画面はどこかの動画サイトを引用したものらしい。テレビとは明らかに違う画質のなか、武装した迷彩柄の兵士の真ん前中央に、兵士というには鈍重そうな体型の、しかし同じ装備を纏った男がカメラを睨みつけている。ロシア語で激しい剣幕で捲し立てて、一分と経たず動画は終わり、スタジオ風景に戻った。
「なんだ、今のもっちゃりした男は」
「エフゲニー・プリゴジンだ」
「…何者だ」
「プーチンの料理人と呼ばれた男…なんで全世界に顔を晒してるんだ?」
「裏働きか?」
「まあ、公然と、だけど。でも基本表には出てこない筈… インターネット・リサーチ・エージェンシー、コンコード・マネジメント・アンド・コンサルティング所謂コンコルド・グループ、そしてГруппа Вагнераを統括している」
メイアンは眉を寄せ続ける。
「IRAは…ひと昔前はアイルランドの対英テロ闘争を行ってきた武装組織を指していたけど…ロシアにのSNSで世論操作をする、オリギノの荒らし工場のことだよ。通称Glavset」
忠遠も硬い表情を崩さない。
「コンコルド・グループは住宅や設備なんかを扱う会社ってことになってる…傘下にケータリング屋があって、プーチンが饗すときに働く…これが料理人と呼ばれる所以」
「グルッパ・ワグネラは、英語ではワグネル・グループ、だな?」
「その通り。プーチンの私兵とも呼ばれ、主にアフリカで活動していた。が、突如2014年からウクライナ侵攻で暗躍し始めて名が広まった」
不穏な様子を汲んでか菫と熊が気配を殺して食卓を整えてゆくなか、忠遠は顎を摘むように擦って少しだけ首を傾けた。
「プーチンの饗応を受け自国に帰ると、世論は混乱してプロパガンダが通り易くなっていて、武装抵抗勢力が低減しているという仕組みか?まるでフィクションだな」
「全くだよ。漫画だってここまで酷くない。けれど、こんな馬鹿な機構を作り維持しているのが今のロシアなんだ」
「実にくだらない」
忠遠は吐き捨てた。
「そ。くだらないの。それなのにね、誰も止めらんない。独裁って往々にしてそういうものだけど、プーチンが死ぬまでロシアは変わることができないだろう」
「気の毒に」
「しょーがないじゃん。独裁者はいきなり湧いて出てぽんと将棋の駒のように据えられるものじゃ、ない。何十年とかけてじわじわと国民が容認してきた結果さあ。こいつにトップ張らせておけばうちの国、強くて儲かって俺達働かなくてよくなる、なんて風にね」
「働かざるもの食うべからず」
「自由自由と喚呼する割に、自由を奪われても家畜のように食わしてもらえればいいと思ってる節があるよな、人間って」
「マトリックスレザレクションズで主人公はあんなに戦ったのにまた夢の世界に戻ってしまうものな?」
「謎だな。ウォシャウスキー兄弟…いや姉妹か?監督はそういう人間の本質を見抜いていたんだろうか…あ!熊!菫!ごめん、なんにも手伝わないで!まだやることある?」
「もうありません。食べたら片づけにご協力ください、それで構いません」
熊はぴしゃりと言った。怒ってはいないようだが、気を散らすなという風ではある。
「ちゃんと食べてね〜」
菫と熊が席に着くといただきますだけ斉唱して食べ始める。
「ショイグ!ゲラシモフ!弾薬はどこだ!この連中は志願兵として来てお前たちのために死んでいった。お前らが豪華なマホガニーのオフィスでぶくぶく太っていけるように、と訳がついておったが?」
「うん、妥当」
「ショイグとは?」
「セルゲイ・ショイグ国防相」
「ゲラシモフは」
「ヴァレリー・ゲラシモフ総司令官。以前から…というかまあそれなりにちょくちょくSNSではこの二人を名指しして批判してきてたけどさ…世界で一番怒れる男とは呼ばれても、こんな風に茶の間の話題に顔の出る人物じゃないんだ。ワグネルも志願兵とは言うけどある意味懲役みたいなもんで、プリゴジンがその人命の重さに気をかけるとは思えない。なんだ?なにがあった?」
箸が止まりがちなメイアンに熊は出汁巻き卵を勧める。
「あ、美味しい」
「それはようございました。メイアン、食べるのが止まるので先に言わせていただきます。あの太った吠える男は、切られたのです。だから資金も絶たれ活動資金不足となり、先ず消耗品である弾薬から不足が出ました。あの男と抱える組織人員に未練がないので、引き揚げ費用など用意する筈もありません。寧ろ全滅でもして跡形も無く痕跡を消し去ってもらえたら一石二鳥とでも思っているのでしょう。あの男も意図がわかっているので、保身の為に全世界に顔を晒しているのです。さあ食べるのに集中くださいませ。今日の銀鱈は身が厚いです」
「熊怖っ」
メイアンは熊の気持ちを察して表情を緩めた。ロシアがワグネルをどう扱おうと、メイアンには全く関係のないことなのだ。モスクワにいるのでもない、ドンバスにいるのでもない、クリミアにいるのでもない。クレイウォーターは死んだ者として処理するしかなかったし、フラナガンもスターリングも死亡して、グレイシャ計画が持ちかけた裏取引を知る者は…まだいる、な。
「どうした?」
「エリン・スターリングが連れてきた強襲部隊…あは、括弧笑い、だったけど、あのなかにティズマルの事務員がひとり混ざってたな、と思い出したの〜」
「ああ、張々湖のところでの?」
テレビは早々にプリゴジンの話題を切り上げ、チャールズの戴冠式の話題に移っている。
「うん。みんな纏めてエントロピーのゴミ袋にして太平洋の真ん中に捨ててもらったから、もう鮫の糞になってるだろう」
箸を止めると熊が気にする。極力なんでもないことのようにメイアンは味噌汁を口に運ぶ。
「事務員は、もうひとりいたな?」
「うん。メイジー・イニスっていう」
「もうひとりの方は確実に海の藻屑なのか?」
「ヘザー・カーペンだった。カーペンは元々傭兵として入った訓練生でね…けどどうやっても筋力がつかなくて、マシンガンの引鉄を引くと必ず天を向いちゃって味方まで撃ち抜いちゃう。危なっかしいどころの騒ぎじゃない。結局事務員に降格したって経歴さね。稼ぎが天と地程違うんでカーペンはどうにか訓練生に戻りたくて、対テロ訓練とか受けて専門性だけは身につけていたから、スターリングに駆り出されたんだと思う」
忠遠は眉根を寄せる。
「…こやつらもクローンなどということは?」
「可能性ゼロとは言えないけど…カーペンは借金抱えてたから、じたばたしてたんじゃん?」
グレイシャ計画のクローンとしてクレイウォーターに送り込まれたのなら、部門替えなどの手続きを踏まずとも目的のポジションに的確に配置される能力を持った人間を送り込んでくる筈だ。それが偽装でないのならば。
「イニスの方は大学を中退しててね。学費が底を突いちゃったって。2008年頃かな?」
忠遠は気づくだろうか。この頃に世を騒がせていた事態に。
「2008年頃…?む?経済が混乱しておったような…?」
「サブプライムローンに端を発した、リーマンショック。憶えてない?」
流石に忠遠だけでなく、熊や菫も箸が一瞬止まった。
「確かに…あった。イニスはその煽りを食ったのか」




