2023年5月、京都⑨
忠遠は折紙の鷺を見て諜報には向かぬのうと呟いた。確かに、如何に翼があるとはいえ鷺がばさばさやってきてベランダにずっと居座っていたら不審過ぎる。もっと存在感のない無害なものでないと、とメイアンは溜息を吐く。
「自身でそこまで運ぶ手間を厭わぬのならその薔薇でも良かろう。よいか」
忠遠は折紙を一枚手に取り、その張りで眼前に立てて持つ。指を緩めると折紙はその位置のまま重力に引かれることもなく浮かんで、折り線が元からあったかのように一気に畳まれ、鶴の形になる。千羽鶴にする為に両端を折り上げた形ではなく、自然の中に立つように脚が下方に伸びた形にしてある。翼を開いて背が膨らむと、今度は像が霞んで実物の丹頂鶴になり、大きさも現実的なものになった。
「ここまでが第一段階」
「えっまさかこれまんまやってみろとか言わないよな?」
忠遠は不遜な笑みを浮かべる。
「方術にも理論と手順がある。俺とて修得したてはもたもたしておったわ。花でゆくのだから、その場で折る必要もあるまい?完成のひとつ前、持ち運びのし易い形でよかろう。最後の完成時に術を通す。方陣を開く際の…そうだ。それを花に流し入れる感覚はわかるか?」
折ってあった薔薇の最後の部分を開き、再度巻くように折り進める。方陣を描く際は途絶えぬように維持していたが、それを指を滑らすことで放出し、奥へ詰めるような感覚。うん、充填してるって感じだな。
…ん?どこまで入れ続けたらいいんだ?
方陣を描くときは方陣の完成と共に斜めの世界が開いたと同時に無自覚に止めていたから、中断の方法など気にしたこともなかったことに今頃気づく。
「これは奇門遁甲を応用したんだが、いちから説明するととてもではないが身につかぬ。組み立てある式をそのまま与えるぞ」
「忘れちゃわない?」
「カプセルを埋め込むようなものだ、便利に使うといい」
「その裡ちゃんと勉強しよう…」
「よい心がけだ」
忠遠は折紙の花に当てている右手の甲の中央に二本指を揃えて軽く載せた。脳裡に浮かぶ図象が知識となってするりと取り込まれた気がする。
「そうだ。思い浮かべるだけでよい」
さっきの図象は八角形が同心に描かれて、その間に文字と記号のようなもので埋め尽くされていた、それが流れに乗って折紙まで辿り着き、花の根元で展開した。と同時に紙が変貌してゆく。膨らんで反り返るしっとりした薔薇の花弁は厚手でクリーム色。反り返った先端はピンク色に染まっている。同時に白いブルームのある萼は切れ込みが入って原始的に暴れたような印象。薔薇の子房からは細かい棘のある花軸、そしてブルームのついた確りした枝…凶悪な感じの棘もある。生花。
花首だけの折紙の花が枝つきの生花になっていた。
「…ピース」
「まあ、綺麗な大輪の薔薇。ピースというの?」
輝媛は喜ばしげに薔薇を見た。そして無邪気に尋ねて胸を突かれたように息を呑んでいた。
「マダム・アントワーヌ・メイアン、通称ピース…」
メイアンの右目からつっと涙が真っ直ぐ滴った。
「思い出の花?」
恐る恐る尋ねた輝媛にメイアンは洟を啜り上げながら呟くように答えた。
「…極、新しい…古い…とても大切な、花だよ…」
メイアンは薔薇から目を逸らせなかった。これ以上涙は溢れさせたくない。あのとき実物など無かったのに。今ここにあるのは、作り物であるのに。
「新品種ってこと?」
メイアンは首を振った。
「とても初期のモダン・ハイブリッド・ティー・ローズ。この花を元に作られた品種も多い」
忠遠は無言でティッシュボックスを差し出してくれる。メイアンは片手で洟をかんだ。
輝媛の声は優しかった。
「よく薔薇を知ってるのね…実物と遜色ないわ」
「そうだろうか…」
再度洟をかみ、長く息を吐いた。薔薇ひとつでこんなに動揺していては、全く以って使い物にならない。決意をどこへやった。守りたいのに、こんなところで頓挫していては、一初がどんどん遠くなる。
輝媛は思い詰めたようなメイアンに態とあっけらかんとした声で発した。
「花をこう、作りなさいってさせるとね、チューリップの花茎にぎざぎざの鋸歯のついた葉っぱつけちゃったりするの。とても悲しくなる」
輝媛の声色の意味を瞬時にメイアンは悟った。気を遣わせてしまった。未熟なところを無様に晒してしまった。目を瞑り、涙を涙点に無理矢理押し遣る。途端に口に苦い塩味が及んだが、噛み潰すように飲み込んで、厚かましくも夷然とした表情に苦笑をのせる。
「悲しいっつうより情けなくない?」
安堵を見せたくなかったのか、輝媛は睫で目を伏せた。
「そうね。目が開いているのになんにも見てないんですもの。知らない癖に発現させてしまう厚顔さ。だから若い子に教えるの嫌になるのよね」
もう、自分は大丈夫。残った重苦しい空気を一気に払うのは、醜態を晒したメイアンの責務だ。
「輝さんもなにか教えてくれる?」
「四条さま、宜しくて?」
よし、とメイアンは腹の中で握った拳を力強く引いた。
「願ってもない。化けたいそうだが?」
「あら、どんながいいかしら?」
「化けるっつっても二通りあると、聞いた。映像を被せるだけのものと、完全に別物になりきるやり方が」
「そう。カメラに残らない方がいいのよね?」
「いずれどちらもとは思っている。先ずは、うん、残らない方だね」
「そうねぇ、メイアンには…」
輝媛はメイアンの手から薔薇を取り上げて座卓に置くと、両手を繋いだ。
「自分の中に巡るものがあるでしょう…?少しだけ分けて、お腹の辺りに…そうよ、回すようにね?ではこれをまた流れに戻すの。もう一回するわね?そう…分けたぶんをゆっくりにしてみて…速くできる?そうそう。なら、きゅうぅって小さく丸めるみたいには?…ではそれを広げて希薄にしたまま回せる?うん、戻して…流れに戻す。取り分ける量をもう少し…最初の三倍くらいまでなら大丈夫よ。そうね、圧縮、拡散。回して?うん、圧縮、拡散。はい、戻す〜。ここまで」
輝媛が手を離すとメイアンは不思議そうに己の手を見た。
「いきなり独りでやりなさいって言っても平気?」
「ちょっと試してみる。輝さん、今日の予定は?」
「熊と菫が帰ってくるまでなら大丈夫。四条さま?お昼をご馳走になっても宜しくて?」
「メイアン任せた」
「輝さん舌肥えてそうだなあ、なににしよう〜♪」




