2023年3月、ノースカロライナ①
忠遠の同行を丁重に断ってウールコートとニットを預けると、裏のないマウンテンパーカを羽織って訓練場の事務棟屋上に降ろしてもらった。春がかなり駆け足でやってきた京都ではあったがそれでも肌寒かったのに、この湿地帯周辺はそんなに寒くない。
パンデミックで換気が推奨されていたから窓を開けている部屋が多いんだよな、と上から探ると、選びたい放題にどの窓も開いている。不用心が過ぎるんでないの、と口の中で言ちてひとつを選んで慎重に侵入する。
京都を夕刻に発って、流石の寒霏も一っ飛びとはいえジェット機程度の速度だったらしく、十二時間程度はかかってしまった。それについて寒霏を責める気持ちなど毛頭ないが、時差が十三時間のノースカロライナにはまるでまた同じ日をほぼ同じ時刻からやり直しているような気分にさせられる。
とはいえ、事務職にとってはそろそろ終業時刻であり、気も抜けてきている頃合いでもある。籠って時間を待つにはお誂え向きの部屋はどこだったかなという矢先に向かってくる足音に気づき、取り敢えずトイレの個室に駆け込んだ。幸いにも女子トイレ、と安堵すべきか収穫の薄い場所だったかと後悔すべきかと直ぐさま迷い始めたが、そんな頃合いに誰かが入ってきて洗面台を使い始めた。帰り支度に化粧直しかな、そう思っていると、また誰かが入ってきた。この人物も化粧直しらしい。会話は他愛もない、こんな田舎では終業後に遊びに行く場所もない、男旱だ、ここには男はいっぱいいるのにね、というくだりへと続く。軍事会社の事務職の女性が養成中の傭兵に興味を向けることはまず無い。死地へ向かう男とつき合っても無意味だ。マッチョだろうが猛者だろうが帰ってくる確率なんていう言葉がある限り、目を向けることはほぼ無い。
…あぁ、例外があったな。
映画スターにいそうな睫毛の濃いイケメンにだけは、キャッキャしてたっけ、とらしくなく回想していると、ふと片方の女が洩らした。
「結局まだ撒布してないの?」
「一回目でよくわからない失敗をして、なんだか二の足を踏んでるわ。今日も催促がきたの。やんなっちゃう」
「あのフリッツ・ハーバーとかいうドイツ人?」
「ドイツ人なのか、よくわからないの。名前は、ね、それっぽいけど」
それっぽい以上にどう考えても偽名だろ、とメイアンは心中呟く。化学兵器の父の名じゃん、と。
偽名で催促を入れてくる人物、か。
「マネジャーが次の人員輸送のときに一緒に搬出しちまえって猛烈に苛々して、軍曹がその煽りでぶつくさ」
マネジャーってあの女部長のことかな、と知った顔を思い浮かべる。だとすると、軍曹なるは、あいつ…フラナガンだ。
「人員輸送って、今晩?」
「明日の朝いち。夜っぴいて搬出準備しなきゃならないんじゃない?」
大変ねぇ、と言う言葉は軽い。普段現場から上がってくる事務処理に悩まされている分、意趣返しになったことに昏い悦びを覚えているのかもしれない。いずれにせよここから運び出されてしまう前に処分をしなくてはなるまい。
そして気になるのは、フリッツ・ハーバーだ。化学兵器、特に毒ガス研究と実用化に名を残す科学者である。ハーバーといえば、ハーバー・ボッシュ法で化学の教科書の始めの方に出てくる。水素と窒素からアンモニアを作る方法だが、これは後に硝酸や硝石を作る技術へと発展し、第一次世界大戦からナチスドイツのホロコースト…あの大虐殺をこう呼んでよいのかよくわからないが…を支えた、と続く。当時のハーバーの気持ちなど推し量ることはできないが。
不意に、二人のお喋りが止んだ。
こちらを見詰めてる気配がする。メイアンはやっべ、とある結論に思い至った。メイアンの記憶のままならば、この施設には女性は三人しかいない。ぺちゃくちゃと囀っていた二人と、話題に上がった女部長。二人は今この個室にいるのは上司であるという確率の急上昇に、急激な脈拍数や血圧の上昇と発汗しているか、逆に迷走神経反射で脳が貧血状態となって、血の気が引いて冷や汗をかき失神寸前か。
ここまで声高では、ここにいるのが上司ならもう逃げも隠れもできないがな、とメイアンは苦笑いをしながら遁逃の算段を立て始めた。この個室の真上にはお誂え向きに通気口がある。鏡の前の二人は遁走を確かめ合って実行に移した。ここからは秒読みだ。メイアンはトイレの扉が開くや通気口の蓋を外してダクトへ身体を捩じ込んだ。念の為、と蓋を戻して瞬間接着剤を縁にざっと流し込む。ダクトかと懸念したが単に天井裏だと当たりをつけて移動を始める。ここへきて汚れることに忌避は無いが、埃っぽいのは勘弁だな、と最も近い別の排気口を見つける。なんの部屋だっけな、と覗く…人の気配は無い。廊下にあの二人が出て…まだ部屋の主とは出会してないようだ。そう、ここは女部長エリン・スターリングの部屋。蓋を外して音を立てぬようゆるりと降り立つ。取り敢えず保険だな、と部屋の内鍵をかける。パソコンは電源を入れたまま。一時的な離席か。復席の予測は立たないが、とロックを解除。やっぱりIDのままだ。USBメモリを差し込み、メールをコピーすることにした。所要時間は一分強。デスクの上をざっと見渡してみる。在り来たりに決済箱がある。未決箱にはなにも入っていなかったが、既決箱には箱を上回る大きさのパイプファイルが投げ込まれている。delivery slips…納品書がファイリングされた状態でここにあるという不自然さにメイアンは手を伸ばし、表紙を捲った。雑多にファイリングされているように見えるのは、納品順にとにかくファイルされているからか。弾薬だ文房具だトイレットペーパーだと細かくチェックするまでもなく、彼女がなにを見たかは直ぐにわかった。付箋がついていたからだ。納品は半年程前、ガス弾だった。
…半年前にはもう勘づかれていたか。
小さく歯噛みしながらその頁を携帯のカメラに納め、ファイルを元に戻す。パソコンの方もコピーが終わっており、USBを抜いて元に戻していると、廊下から騒ぎが伝わってきた。どうやら部屋の主とさっきの二人組が鉢合わせしたらしい。態度からトイレの個室とは全く無縁だったことを悟り、侵入者かもというところまで一気に辿り着いたか。
内鍵をを外すのは賭けだなと思いつつ、なんとか音を忍ばせたが、気づかれた。つかつかとこちらへ向かってくる気配がどんどん濃くなる。天井裏へ戻るのは無駄だ。窓から出て足で閉めてひとつ上階へ上がる。今度こそ音がしたことだろう。窓が再び開くまで三秒あるかないかだ。更に隣の窓に飛び移り、屋上へ上がる。今の窓に影が映ったのだろう、開いてこちらを見上げているらしい。構っていられるか、と倉庫棟へ向かう。非常ベルが鳴り響く中、棟全体が慌ただしくなる。屋上にいることはばれている。倉庫棟は事務棟とは離れていたが、壁に寄せて駐めてあったポンティアック・フィエロのルーフをクッション代わりに飛び降りれば直ぐそこだ。懐からCz75を出してシャッター脇の扉のノブを撃つ。林に激音が響くが、もうそれこそ構っていられない。ノブの取れた扉に体当たりして中に入ると、木箱が幾つも並び積み上がっている。対ベトコン訓練のような手製の宙吊り逆茂木のような物もまだある。入ってきた扉の前に銃器の詰められた木箱を積み上げ、入口からシャッター部にかけて鉄条網を敷いていると、突然背後からがっと羽交締めにされた。的確に喉を圧迫し、頸動脈を締めつける。苦しい。それ以上に視界が狭まり暗くなってくる。このまま落とされてはかなわないと喉頭と気管の圧迫を避けるべく、急いで締めている腕の肘の窪みに顎を嵌め込む。締めているのは右腕か。その腕を両腕で全体重をかけ引き下げ、右足を掛けて身体を右に回し、その反動で更に腕を引くと勝手に向こうから外れる。その隙を突いて肘を矯めると喉へ向けて一撃。カーキ色のケピに戦闘服の男が仰け反って大きく後ろへ踏鞴を踏む。互いに息が上がってきている。
メイアンは舌打ちした。
この程度でダウンさせられるとは思ってはいないが、倒し切らなかったのは失敗だ。この軍曹、アンドリュー・フラナガンには何度も締められたものだっけ、と苦いものを感じつつ、手近な木箱の裏に隠れた。
こいつが今倉庫にいるということは、搬出準備をしていたに違いない。様子を窺いに身を少しだけ出したが、発砲してくることはない。成程、ここには可燃物と爆発物が多くある。それを懸念している立場なら、やり易い。外もそろそろ騒がしい。軍曹は銃剣を外してトレンチナイフにし、構えてこちらへ向かってきた。白兵戦なんて古いよ、と呟いて木箱を攀じ登ると、全体を見渡してみる。木枠梱包にされた火器類には用は無い。中途半端に引っ張り出されたような格好になっている密閉木箱、あれだな、と目星をつけて角の鍵の辺りを狙って二箇所撃ち抜き、そちらへ飛び移る。間違っていなかった、と確信を持てたのは軍曹の顔色が変わったからだ。天板に立つと残りの二隅も撃ち、蓋を取ってみる。ストレッチフィルムで真空梱包されたドローンが現れる。似た箱が複数あるから、同じ物に違いない。
軍曹も木箱に攀じ登り、メイアンと同じ高さになって突進してきた。メイアンは取り外した木箱の蓋を振り回して投げつけるように軍曹に横から叩きつけた。空気抵抗を嫌って水平に振ったのが効いて、結構なダメージになった筈だが軍曹は耐えたのか、逆手に持って振り上げたトレンチナイフの刃が直進してくる。
しぶといな。
XM5が並べてあるところを狙って飛び降り、一丁手に取る。追って飛び降りてきた軍曹がにやりと笑った気がした。弾が装填されていないことを好機と捉えたのだろう。そんなこと百も承知さぁ、とメイアンはXM5を振り上げ、軍曹の首を狙って叩きつける。軍曹は頓悟したようにトレンチナイフでXM5を受けた。相当重い衝撃だったらしく苦し気だ。8.38lbもあるもんな、と改めてXM5を突き出す。鳩尾を狙ったがナイフで逸らされた。正攻法過ぎたか。けど、手首がガラ空きなんだよっ、とXM5を小さく返して袈裟懸けのように小手を狙った。逸らしたことで油断してたか、軍曹はもろにそれを受け手首に打撃だけでなくハンドガードだのピカティニー・レールだのが不規則に擦過して傷が大きくなったらしい。
それでもトレンチナイフは落とさないか。
軍曹の執念と身につけた訓練の賜物がまだ戦う意志を残していることを読み取らせる。メイアンは身を低くするとXM5を盾のように構え正面に進み出た。また打撃が来るのを予期して中段にナイフを構えたところを狙い、大きく股間を蹴り上げた。これは想定外だったのか。
「あ、ごっめぇん」
ブーツは安全靴仕様になっていて、鉄板が仕込まれていたのだった、と悶絶を通り越して白目を剥いている軍曹を見下ろした。蹴った方の爪先でとんとんとコンクリートの床を叩いてメイアンはXM5を投げ捨てた。
多分この辺りに、と探ってみる。何ヶ所か繰り返すと目的の物は見つかった。全く、戦場での寿命は五分と言われているのに、火炎放射器を配備する意味と必要性なんてあるのかね、と呟きつつバックパックから伸びたホースの先のトリガー部の点火システムを外すと途端にゲル化ガソリンが噴き出す。メイアンは庭の散水の様相でそれらを先程のドローン全体に、その周辺に浴びせかける。あちらにも、こちらにも、万遍なく、と軽くなってきたバックパックを移動させようとしたとき、右足首が動かなくなった。なにごと?と目を落とすと足首を何かが掴んでいる。何か、など考えるまでもない。脂汗に塗れた顔に血走った目でメイアンの足首を掴んでいたのは軍曹だった。執念深い。
「しつこいなぁ。忠誠心がどこに向いてるのか知らんけど、…ん?職業意識じゃないだろ。このドローンの出所に献身を定めてるのか」
「…戦争がなぜ繰り返されるのか、考えてみるといい」
「は?人間の性だろ」
軍曹は荒い息の下で切れ切れに言う。
「…多すぎるんだよ」
「それには賛同するけどね」
「…だから、自滅し合えば、いい」
「はあー?減りたいなら減りたいやつだけ勝手に墓穴に入ればいいじゃん。あんたも減りたい派なら他人を巻き込まずに勝手に減るそのいちになれ」
「いずれそうする。…その前に少しでも多く…」
「馬鹿お言いでないよ!」
メイアンは血塗れの軍曹の手を蹴飛ばした。潰れた蛙のような声がした。
「そんなのに付き合い切れるか!忌々しい!」




