2023年2月、ドネツィク①
「AK74だけなのか?そんなちょぼい装備しか支給されないとはどんだけ貧窮してるんだ」
朦朧としかけた頭の上から響いた言葉は日本語だった。到頭三途の川なりステュクスなりを渡ったのかと思う反面現況を具に指摘してくるなどなんて白けるのだろうと縁にしている自動小銃に力をかけることでやっと瞼を持ち上げる。
「塹壕足になりかかっているじゃないか。濡れたままこんな蛸壺みたいなところに蹲っているからだぞ。足を失ったたら幾らお前さんでも取り戻すのに何年かかると思っているんだ」
面妖なことを言う。非凍結性の組織障害である通称塹壕足は組織の壊死に始まり、大体壊疽となり、大概切断しなくてはならなくなる。だからもう死を覚悟していたというのに。抑、なぜ日本語。ナショナリズムを強く意識してウクライナ語を使う自陣と、むきになってロシア語で叫ぶ敵陣との真っ只中にいるのだ。これはやっぱり幻影か。しかし体が訓練された通りに動こうと、古めかしい自動小銃を水平に構え直し、銃把を握り床尾板を肩に当てる。
「やめなさいって。もう握力も残っていない癖に」
顔の前にきていた照門が浮かされたように左へ動いてしまった。なんのことはない、眼前の男が照星の辺りを手の甲で押しやって払い除けたからだった。こんな簡単に押し退けられてしまう程消耗しているのを痛感する。まあ、照準を合わせようにも目がもう霞んでしまっているのだが。しかし男の間伸びしたようなものの謂いに目の周りが動いたからか眼球に潤いが戻ってきて、少しだけ視界が開けてきた。ぼんやりと色だけしか見えていなかった男は良くも悪くも凡庸な東アジア系の中肉中背、如何にも確かに日本人だなと思えた。だが冬の終わりの激戦のドンバスあって粘土のような泥濘にも全く塗れておらず、かといって官僚が高級車から降り立ったばかりのようなプレスの効いたスーツ姿でもない。靴はスニーカー、黒だがジーンズ、青緑の目の詰んだハイゲージニットはタートル、ムートンの裏地のマウンテンパーカなんて、ちょっと先の公園に犬の散歩にでも行く服装だ。勿論ヘルメットなどかぶってすらいない。
「…な…にが、したい」
「ここにいても無意味でしょ、連れ出しに来た」
「契約が、残ってる」
「契約?ああ、軍事会社?全くもう、派遣社員するなら事務職でもやんなさいよ」
「勝手なこと言うな」
「年齢と外見が合わなくて登録できなくなってきたか。ははっ、だからって傭兵になるのは飛躍が過ぎるだろう」
男は薄く笑う。
「…クレイウォーターは脱走を許さない」
「クレイ…?ああ、軍事派遣会社ね。だからっていちいち探しになんか来ないでしょうが。認識票拾うのが精々でしょ」
男は遠慮会釈なく首元に手を突っ込み、ボールチェーンを引き出した。首から引き抜くと適当に放り捨てた。
「ん?写真だの身体的特徴だのが押さえられてるっていうのははっきり言っとくが杞憂だぞ。馬の耳になんとやらだとは思うが、傭兵なんざ使い捨てだ。違約金なんか気にしなくていい。戦地で死ねばそのまんま慰労金扱いの筈。ここで死んだ。そういうことにしておけ」
「…無茶苦茶だよ…」
体に絡まるように引っかかっていたAK74をぐい、と剥がして、男はそれも放り投げた。
「49年も昔のカラシニコフをロシアに向けさせる時点でそういうもんだ」
AK74はソ連で開発された自動小銃だ。74の数字が示す通り、1974年にAK47の後継として採用されて、今に至る。改良・改変、近代化が施されてきたが、基本設計は元のままなのだから男がちょぼいとか言うのも致仕方無い。
…この男、どうやってここまで来たんだ。
疑問が連鎖的に増える。クレイウォーターが傭兵として送り込んだのは自分だけではない、他の連中には…、なぜ年齢のことを…、ここに無傷且つ全く汚れず立っていること自体謎でしかない。
男はつと空を見上げた。甲高い唸りが聞こえた気がする。
「あのドローン、ウクライナ?ロシア?」
目を凝らしたが遠景を見る程には視力は回復していなかった。だが、確実に言えることはある。
「自陣に飛ばしてなんの意味がある。ロシアの偵察ドローンに決まってる」
周辺にТ-72が這い回っている筈だ。直ぐにこんな所は見つかってしまい、51口径125mm滑腔砲の餌食になるのは目に見えている。
「おや、まだ生きる気力はあるようだ。なんと名乗っているのか知らないが、その名前ごと置いていけ。寒霏、帰るぞ」
カンピとはなんぞやと思うも質問の隙を与えず二の腕を掴むと男は猫の子でも連れ出すように軽く塹壕を出た。足の感覚が無いのは見抜かれている。丸太かのように横抱えされ、久しぶりに出た地上は瓦礫だらけに輪がかかっていた。あちこちで煙が上がっており、銃声や爆音が四方から聞こえる。爆発が起きた。なんとか顔を回して目を向けると、黒煙が上がっている。到頭近代爆薬を使う資金も尽きたのかと溜息が出る。
「酷い状態だな。そんなの放っておいてもよかろうに、四条狐?」
塹壕の外には長髪の男が待っていた。出るときに手を貸していたから仲間なのだろう。
「彼の方のお言いつけなれば仕方がない」
「近年稀に見る人の子からの仙だしなあ。今は襤褸布だが」
「磨けば光るとか言うなよ。これで止まってしまっているのだ、これ以上にも以下にもなるまい。龍鯉、早くしろ」
「便利な乗り物ではないのだぞ」
「いいから便利な乗り物やっておれ」
意味のわからない会話が続いたのち、不意に周辺に白い煙が流れてきた。煙ではない。霧か靄とでもいうのだろうか、兎に角雲のような、微細な水滴が宙に浮いている。風もないのにふわりと周囲を取り巻き、散らず、そして段々濃くなっていくようだ。
…幻想的だ。
周辺は爆撃で崩れたコンクリートと残骸でしかない木材の柱が石塊転がる地面から無機質に突き出ており罅割れた道路があちこちで陥没したり突出したりしている。灰塵が至るところを白暈けさせているこの焦土には死体も転がっている。逃げ遅れた住民、敵味方の兵士達。いつからそこに転がっているのか知らないが、人体だったという尊厳さえ失われて衣服だったものが巻きついた黒い物体になり変わっている。激戦に遭って壊れあちこちに赤錆が浮き出て放置されている変な風に傾いた戦車。その直中いて、霧だか靄だかを見たぐらいで郷愁に近いメルヘンに陥るのは現金な気がする。
「おい狐。またもう一機ドローンが来たぞ?」
先程のドローンより唸りが稍低い。機体が重いということか。偵察機が残ったままもう一機を飛ばしてくる…頓悟して行動に移りたかったが、なにせ体がもう動かない。かさついて縦皺だらけの唇をなんとか働かせる。
「や…ば、い」