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第十二話『手巻き煙草の味』

ココとの話や、久々に本気で絵を描いた事もあってか、疲労感が凄く、俺は家につくなり着替えもせずにベッドに倒れ込む。

 だが、ふと腕時計をつけたままだった事を思い出して、疲れた身体を無理やりに起こして、ベッドに座ったまま、左手の時計を眺める。

「憎たらしい程、正しく刻むもんよな。時間ってのはさ」

 兄貴から貰ったこの時計に、良い思い出はあまりない。そもそもが喧嘩別れ、仲の良い兄弟だったとも言えないだろう。お互いが画家であり、俺から見れば兄貴は単純にライバルのようなものだった。適うだなんて思った事は無かったが、それでも兄は俺の絵を見て、良く褒めてくれた。


――それが、いつも悔しかった。

 俺よりもずっとずっと上手くやれる癖に、俺の絵を褒める兄の気持ちが、最後の最後まで分からなかった。今はもう、口も利かない。あの人はきっと、今も絵を描いているのだろう。

 だけれど、その作品を見る事も、無い。

「コイツに、縛られてんだろうな」

 俺は兄貴から貰った時計を外し、玄関先に置きに行く。

 結局嫌いなわけではないのだ。お互いの意見や信念が違っただけ。きっと、仲直りも出来たはずなのだ。だけれど時間は残酷な物で、俺の手から離れた腕時計は、今も時間を刻んでいく。

「歳ぃ取ったなぁ。俺があれだけの技術を持ってる子に説教だってよ、兄貴」

 その言葉が本人に届く事は無い。その代わりに、俺は少しだけ寂しい気持ちで、腕時計へと呟いた。

 直接謝りに行く勇気が出ないのは、俺だけなのだ。きっと兄貴は今も昔と同じように、ひたすら絵を描き続けて、そればっかりで、時々俺の絵を見つけては、笑っているのだろう。

 そんな兄貴を知っているからこそ、俺はずっとこの時計を大事に付け続けている。

「お前も笑うか?」

 いやに独り言が多い。未だ興奮が冷めきっていないのかもしれない。

 久々に、熱くなってしまった。昔の俺とそっくりな画家を見てしまったから、本気で絵を描いてしまった。だけれど、まだ人を泣かす絵を描ける自分が少しだけ嬉しくて、それでもやはり少し悲しく思えた。

「いっそ笑ってくれたら楽だったのにな」

 未だ捨てられない、婚約者――日晴ヒナリが遺した香水を見ながら苦笑する。

 その名前の通り、明るくて良く笑う人だった。美術に深い理解があるわけでは無かったけれど、俺の絵を好きだと言ってくれていた人の一人だ。

「いや……違うか」

 俺の絵を好きだと言われた事は、一度も無かったような気がする。そんな事を覚えている自分が少し嫌になった。あの人を泣かせる事は、最後の最後まで無かった。要は騙せなかったのだ。

 

 彼女は、絵を描いている俺が好きだと、そう言っていた。

 あの頃はまだ紙煙草ではなく自ら煙草の葉を買って、手巻き煙草を吸っていたような時期だ。

 葉を包む紙を舐める仕草を、ニヤつきながら見ている不思議な人だった。

 

 出雲日晴イヅモヒナリ。享年二八歳だった。

 死因は自損事故での巻き添え。それから、彼女とも一言も喋る事は出来ていない。亡くなったのだから、当たり前の話だ。だけれど、墓前で話せた事すらないのだ。

 墓参りにすら一度も行けていない俺を、きっと彼女の親御さん、俺の義父と義母になるはずだった二人は、きっと許しはしていないだろう。良い人達だったが、俺が悪い人だったというだけの話。

 俺は彼女が泣けるような絵を描くどころか、彼女を亡くしてから俺自身が泣きながら絵を描き続ける日々だった。

 亡くした物が、あまりにも多すぎたのだ。それから俺はまともな画家とした人生を送ることを辞めることにした。現実逃避の道具として使われたこの両手は、汚れている。

 

 ただ、ただ、絵を描く事を逃避として、逃げ続けた結果、今の俺がいる。

 それを良しとしない自分がいるのも間違いない。


 変わりたいとは思っている。だからこそ、自分には似合わない事を続けているのだ。

 いつまでもいつまでも、それでも絵を描くという魔法に、呪いに付き纏われながら、誰かを導く為に生きようと、藻掻いている。

 

 今日、俺がハヤとヒバに出来た事が、ココに出来た事が、正解だったかどうかは分からない。

 兄貴がいたらなんて言ってくれるのだろうか。日晴ヒナリがいたら笑ってくれるだろうか。

 

 結局のところ、俺は誰かが許してくれなければ、全く自分のしていることに自信の無い駄目な人間なのだ。ただただ、絵を描き続けただけ。それだけの人間に人を説く権利があるかなんて、俺自身が判断出来るわけがない。


 取り繕い続けているのだろうと思った。だけれど、それであの子達が俺のようにならないのなら、それで良いのだとも思っている。

 ハヤとヒバが素晴らしい作品を創っていく事が、今は何よりも嬉しい。

 ココのような画家が、いつか画壇で活躍する事を思うと、ワクワクする。

 

 あの子達に教えているという立場でありながら、教わっているのも、救われているのも実は俺自身なのだと、そう思いながら、いない相手への、みっともない独り言をやめて、俺は眠ろうとベッドに入りかけてから、それでも一度キャンバスの前に座って、右手で筆を取った。

「アレは、俺の絵じゃあないもんな。今日の俺はまだ一枚も描けちゃいない」

 窓を開けて、夜空を見る。


 あの子達の夕暮れ時は終わらない。


 けれど、俺の夜半も、そう簡単には終わらない。


 明日また、何となく年の差だけで言えるような、一般論や偉そうな事を言う為に、俺は筆を取らなきゃいけない。

 画家崩れであっても、筆を取る事をやめた瞬間から、俺はあの子達に何も言えないただの人に成り代わる。

 それこそ、絵の知識こそあっても、ココが働いていたキャンプ用品店の店長と、なんら変わらない立場に変わるのだ。

 俺が俺でいる為に、明日もあの子達と向き合う為に、適うわけのない絵を、誰に見せるわけでもない絵を、俺もまた描き続ける。

 これもまた、一つの逃避だと思いながらも、左手で強く絵筆を握る。

 窓からは、綺麗な月が見えていた。


 俺はスーッと、円を描く。

 昼の空がハヤやヒバの物だとしたら、太陽があの子達の物で、戦うべき相手だというならば。

 この夜空が、俺が向き合い、戦う、俺だけの物だと、そう思いながら、筆が滑る音と、狭いこの家の玄関で鳴る腕時計の音だけが静かに部屋の中で息をしていた。


 空は、空はいつも優しい。


 星も、月も、太陽も。

 俺達が描いているようで、もしかしたら俺達が描かされているのかもしれない。

 もしかしたら、あの星は、あの月は、あの太陽は、あの空は、俺達が描いているのを、そっと見ているのかもしれない。

 

 ただ、ただ、人生を描かれているのを、空は見ている。


 だから俺も、今日を終わらせるには、まだ早い。

「お天道様が眠っていても、お月様がちゃんと見てるもんな」

 ふと、いつの間にか月が二つ出来ていた。空に浮かぶ満月を描いていたつもりが、いつの間にか存在しない湖面を描き、そこに移る湖月までを描いている自分がいた。

 それはきっと、日晴ヒナリと一緒にいた頃の事を思い出したからなのだろう。

 集中力が途切れているな、と思い煙草に火をつけようとしたら、いつのまにか強く噛み締めていたようで、フィルターが駄目になってしまっていた。

「クソ、最後の一本だったじゃねえか……」

 未だに、手巻き煙草を作る為の道具は定期的に買い揃える癖が抜けなかった。普段はずっと市販の紙煙草だが、俺が手巻き煙草を作る姿を好きだと言ってくれた彼女の机に、時折一本作って、そのうちに駄目なるまで、ソレを置いておくという事を、もう何年も続けている。

 振り返って、彼女の机の上に目を移すと、中身が揮発して殆ど匂いがしなくなっている香水の瓶の横に、そっと手巻き煙草が並んでいた。

 墓参りにも行けない俺の、ほんの少しの償いのような物。


 俺はその手巻き煙草を優しく手に取って、窓際で火を付けて胸に深く吸い込んだ。軽い満月の下、白い煙がゆっくり、ゆっくりと昇っていく。

「あぁ……やっぱり不味いな」

 思えばこれも、俺の口癖だった。それでも彼女が手巻き煙草を巻く作る仕草が好きだと言うから、俺はそれを続けていた。この不味い煙草を吸う俺を愛した女性がいた事を、俺はずっと覚えている。

 煙草なんて吸わない癖に、いつも苦々しく手巻き煙草を吸う俺を見ていたあの人の顔を、俺はずっと覚えている。

「月が綺麗……じゃなくて、空が綺麗ですねってヤツか」

 見渡す限りの夜空に小さくも輝く金色の月、それに白が混ざり合う空。

 俺は吸いきった煙草を灰皿の上にそっと置いて、その火が完全に消えるまで見続けていた。


 そうして、キャンバスに、そんな愛しいあの人を想いながら。雲が無く晴れた夜空に日がない悲しみを塗りたくり、俺は眠りについた。夢で会えたならば良いなんて、女々しい事を考えながら。

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