1.序章
遠く、遠く。
自分の記憶はどこまでが確かなのかと、問うてみた事がある。
微笑み祝福され、温かい眼差しと腕に包まれていた記憶。
大雨の日に、今にも崩れそうな崖の近くに置き去りにされ、挙句、川に落ちて生きているか死んでいるかも分からない記憶。
訳も分からないまま、布団に埋もれ四肢が動かない記憶。
何もかも嘘と言われれば安堵するし、真実だと言われれば納得もする。
自分が何のために生まれてきたのかなどと、高尚な事を悩む程生きていく事に余裕があるわけでもない。
毎日を一日ずつ、精一杯生きていく。ただそれだけの事。
物心ついた頃から一生懸命に過ごしてきた。
多少の不公平さを感じても、人間は皆平等だと信じていた可愛い時期もあった気もする。
しかし、
「これは、想像出来なかったかなぁ…」
現在、目の前に差し迫った現実に眩暈さえ覚える。
燃えるような紅の髪。短く切り揃えられ、一房だけ纏められた三つ編みの髪飾りが鈍色に光る。美丈夫といった表現がしっくりくる男性に、なぜか自分は追い詰められている。
「了承、してくれるな?」
とどめとばかりに背後の壁に両腕を叩きつけ退路を断つと、満面の笑みで見下ろしてくる。
「ひぇ…」
これが噂の壁ドンというやつか。場違いな感想を抱きつつも、体は正直に現状の恐ろしさに震えた。
笑顔なのに男の目が笑っていない。肩幅も広く、服の上からでも分かる筋骨隆々の体躯。身長も2メートル近くあるのだ。こっちは165センチしかない上に中肉中背、体格差があまりにも有りすぎる。
「とりあえず、少し落ち着いて…」
素早く上体を斜めに倒し、男の利き腕ではない左脇下からの脱出を試みるが、両足の間に逞しい足が差し込まれ身動きが取れなくなる。
さすがに足ドンは未知の領域すぎる。というか、やる人を初めて見た。
現実逃避も極まり、何が起きても驚かない不思議な自信で満たされていく。
「鬼ごっこはおしまいだ。おとなしく、俺のお願いを聞いてくれるな?」
これは脅迫というのではないだろうか。口に出さなかった自分を褒めてやりたい。
「返事は『はい』しか受け付けない。反論は?」
「反論しかないんですけど…」
そんな人間になぜ、自分が絡まれているのか。事の発端となる3日前の事を思い返した。