第98話 こんなことになるのなら、ジネットをさっさと部屋に引きずり込めばよかった
――王宮にある、クラウスにあてがわれた部屋の中で。
書き物をしているクラウスの背中に、メルティア王女がぴょんと抱き着いた。
「クラウス様、またお部屋にこもってお仕事?」
背中にふに……と柔らかいものが押し付けられて、クラウスは苦笑した。
「メルティア王女殿下。わかっているのなら、邪魔しないでいただけるとありがたいのですが」
「だって宿題が終わってしまって退屈なんだもの!」
「もう?」
王女の言葉に、クラウスが眉をひそめる。
「では……『重商主義』がどういうものか、ご自分の言葉で説明できますか?」
「簡単よ」
メルティア王女はふふんと鼻を鳴らすと、クラウスから離れてすらすらと言った。
「要は輸出を通じてたくさんの外貨を得て、輸入には高関税をかけて貿易差額を生み出すことでしょう?」
「その目的は?」
「だって王国を維持するためにはお金が必要だもの!」
「では最近、その重商主義が批判されている理由は?」
そこまで聞かれてようやく、メルティア王女はぐっと言葉に詰まった。
「それは……」
「わからないのであれば、それが新たな宿題です。……とは言え、思った以上にきちんと勉強していますね」
クラウスは感心しながら言った。
(正直、勉強は僕を留めるためだけの口実かと思っていたのだが……)
思いのほかこの王女は、勉強に対して真面目らしい。
褒められたことを察したメルティア王女がふふんと得意げになる。
「そうでしょう? 私、昔から本を読むのは好きだったのよ」
「良いことです。本には先人の知恵や想いがたくさん詰まっていますからね。読めば読むほど賢くなると、僕は思っていますよ」
「ふふっ」
気を良くした王女が嬉しそうに微笑む。
「クラウス様、少しはわたくしのことを見直してくれた? 好きになってもいいのよ?」
「あなたのことは見直しましたが、好きになることはありません。僕にはジネットがいますから」
にっこりと微笑んで返事をすると、王女は顔をしかめた。
「もう! 本当に理解できないわ。こんな絶世の美少女を前にして、他の女の名前を挙げるなんて! 無神経にもほどがあるわ」
「もちろんわざとですよ」
クラウスがけろりとして言う。
「王女殿下はいつも僕に想い人がいることを忘れているようですから、思い出させてあげないと」
「ひどい人ね!」
メルティア王女はぶんぶんと手を振った。
「言っておくけれど、わたくしは本気なのよ? 本気であなたのことを愛しているからこそ、こんなに必死なのに!」
「王女殿下が本気だからこそ、僕も本気で答えているではないですか。『他に好きな人がいる』と」
「そういうことではなくて!」
のらり、くらりと交わし続けるクラウスに、メルティア王女は怒ったように言った。
「……せめて少しぐらい、優しくしてくれたっていいじゃない。わたくし、初めての恋なのよ?」
(優しくしたら、それこそあなたは勘違いしてしまうでしょう)
さすがに言葉には出せなかったが、今までそういう女性はごまんと見て来た。
だからこそ最初から徹底的に突き放すことは、クラウスの保身のため、そしてクラウスの優しさでもあったのだが。
(人は期待した分だけ、だめになった時がつらいものだからね)
そんなことを想っていると、突然王女の大きな瞳からぼろりと涙がこぼれた。
クラウスがぎょっとする。
(女性の涙は厄介だ……。何も悪いことをしていないはずなのに、罪悪感を感じてしまう)
どうするべきか悩んでいると、涙をこぼしながら王女が言った。
「ならせめて、その『王女殿下』という他人行儀な呼び方はやめて。以後わたくしのことはティアと。それぐらい、許されたっていいでしょう?」
泣きながら懇願されては、さすがのクラウスも無下にはできない。ハァとため息をついて、クラウスはしぶしぶうなずいた。
「……わかりました、ティア様」
「うふふっ。嬉しいわクラウス様」
途端に、先ほどまでの涙が嘘だったかのように笑顔になる。――いや、事実、噓泣きだったのだろう。
気づいたクラウスが、額を押さえる。
(やられた……)
「それじゃまたね、クラウス様」
唸るクラウスとは対照的に、メルティア王女はスキップするような軽い足取りで部屋から出て行った。
ようやくひとりに戻った部屋の中で、クラウスがふぅ……とため息をつく。
(王宮に留められてからもう一か月か……。この部屋では、私生活も何もあったものではないな)
王宮に用意されたクラウス専用の部屋はとても広く、かつ豪華だった。
領主仕事に必要な資料や道具、人員もすべて用意され、一見するとなんら不都合がないように見える。
けれどメルティア王女はいつどんな時でもおかまいなしに入ってくるため、落ちついてくつろぐこともできなかったのだ。
当然部屋の扉には鍵もついているのだが、その合鍵を王女が持っているためなんの意味もない。
(疲れたな……)
ぐったりと机に肘をつき、それから唯一鍵のかかった一番上の引き出しを開ける。
そこに入っているのは、ギヴァルシュ伯爵家から届いたジネットの手紙だ。
これだけは王女にも見られたくないため、鍵は常に胸ポケットに入れて持ち歩いている。
一番最近来た手紙を取り出すと、クラウスはカサ、と封を開いた。
同時に飛び込んでくる、ジネットの元気のよい筆致。
ジネットの書く文字は彼女の人柄同様、非常に力強く、そしてどこか丸みを帯びて愛らしかった。
その文字を、クラウスが愛おしそうに撫でる。
(ああ……早くジネットに会いたい。もう一か月も会っていないせいで、頭がおかしくなりそうだ)
ギヴァルシュ伯爵家にいた頃が、まるで遠い昔のよう。
朝起きたら寝癖がぽやぽやになっているジネットが朝食の席に来て、食べている間中サラがそれを必死にとかしていて。
そして仕事になった瞬間、元気に外に飛び出していく彼女がいて……。
思い出してクラウスはくすりと笑った。
貴族令嬢としては本当に規格外なジネットだが、同時にそれが唯一無二の輝きだった。
(こんなことになるのなら、無防備に寝間着で歩くジネットをさっさと部屋に引きずり込めばよかったな……)
今まで一体何度、理性を振り絞ってそうしたい衝動をこらえたことか。
それもすべて、ルセル男爵が見つかればすぐに結婚できると思えたからこそ我慢できたことだったのに。
(ああ、ジネットに会いたい。彼女に触りたい。あの艶めく髪に触れ、赤子のような頬をつつき、そしてあの小さな体を、思い切り腕の中に閉じ込めたい)
知らず、ハァ……と大きなため息が漏れる。
これほど会えない期間が続くのは久しぶりだった。
(最近ずっとそばにいたから忘れていたが、離れているだけでこんなにも満たされないなんて)
日に日にジネットに対する飢えは増していく一方だった。
(王女と国王は僕からジネットを引き離すことで気持ちを変えられると思っているようだが……逆効果だ。引き離そうとすればするほど、ますますジネットを求める気持ちが強くなっていくというのに)
フッと自嘲気味に笑って、クラウスはまた手紙を鍵付きの引き出しに戻したのだった。