第93話 ………………まずいな(クラウス視点)
「……また王からの手紙だ」
朝食の席。
届いた手紙を見ながら、クラウスはぐったりとした様子で言った。
――あの後、クラウスとジネットは無事にギヴァルシュ伯爵家に帰宅した。
けれどその次の日から、かなりの頻度で王宮から手紙が届くようになってしまったのだ。しかも毎回毎回、手紙が来るたびにクラウスは王宮に呼びつけられていた。
目の前でごくりと唾を呑んだジネットが尋ねる。
「やはりマリーツィア王女様は、クラウス様のことを諦めていらっしゃらないのですね……!」
「ああ、そのようだね」
言いながら、クラウスはため息をついた。
マリーツィア王女と会った日から早半月。
その間、さすがにクラウスとて王からの呼び出しを断るわけにはいかない。
そのため連日王宮に出かけているのだが、毎回通された部屋でひとり待っているのは国王ではなく、マリーツィア王女そのひとだった。
しかもこの間これ以上ないくらいきっぱりはっきりと断ったにもかかわらず、まるで最初から何もなかったかのように王女は振る舞ってくる。
クラウスはほとほと困り果てていた。
(厄介な人に目をつけられてしまったな……)
考えながらこめかみを押さえる。
自慢ではないが、今までにも何人もの女性に言い寄られた経験がある。
純粋な気持ちでまっすぐぶつかってくるものもいれば、ギヴァルシュ伯爵家の状況に目をつけて金をちらつかせてくる者、そして色仕掛けで落とそうとしてくる者など、実に様々な女性を見て来たと思う。
だがそうであっても皆同じ〝貴族〟だったため、大ごとにはならなかった。上位貴族に脅されたところでギヴァルシュ伯爵家はとっくに没落していたため、効果はない。
けれどマリーツィア王女は違う。
彼女だけは〝王族〟なのだ。
(今はまだマリーツィア王女だけで済んでいるが、もしここに国王陛下も出てきたらまずいことになるな……)
王命は貴族にとって絶対だ。
たとえ白でも、王が黒と言えば黒になる。
歴史上では何人もの夫を持つ女性が、王命ひとつで離婚させられ、愛人になったという例もある。それはクラウスとて同じことだった。
王が本気になれば、クラウスとジネットの婚約ぐらい簡単に破棄できる。
苦々しく思いながら、クラウスは新たに届いた手紙の封を切った。
それから中身を読んで、眉をひそめる。
「………………まずいな」
「どうかされましたか?」
ジネットが心配そうに身を乗り出してくる。
そんなジネットに微笑みかける余裕もなくクラウスは言った。
「王命だ。今日から僕は、マリーツィア王女の経済学の家庭教師をしなければいけないらしい」
「えっ」
手紙には『教養のため、マリーツィア王女に経済学を教えよ』と書いてあるが、本当の狙いはもちろんそこではないだろう。
全部クラウスを王宮に呼ぶための口実だ。
「まったく……王女も国王も困ったお方だ。僕にだって領主の仕事があるというのに」
事実、王宮に何度も呼ばれるせいで、ここのところ領主の仕事がまったく進んでいない。
さいわい優秀な家来が多いおかげでなんとか回っているが、ずっとこれを続けていたら困るのは領民たちだ。
「家庭教師というのは、週に何度も行かれるということですか?」
「その辺りについては書かれていないね。とにかく王宮に来いと書いてある」
「そうなのですか……」
困ったように両眉を下げるジネットに、クラウスはふっと笑った。
それから抱き寄せ、丸くてすべすべとしたおでこに口づける。
「ひぁっ!」
(漏れ出る声も愛しいな)
何度抱き寄せても、何度口づけても、ジネットは慣れないらしい。
乱れた前髪を、照れを隠すように何度も撫でつけている。
「まだ勝算はある。国王陛下だって、僕に領主の仕事があることはご存じのはずだ。そこを口実に、登城の回数を極力減らせないか交渉してみるつもりだよ」
「ですがクラウス様……」
そこでまたジネットの両眉が下がった。
「断り続けることで、クラウス様やギヴァルシュ伯爵家の評判は下がってしまわれないでしょうか? それでクラウス様が冷遇されたりしないか、とても心配です……」
言って、しゅんと肩を落とす。
しおれてしまったジネットを見て、クラウスはふふっと笑った。
(そういえば、あの時もジネットは僕の心配をしてくれていたね)
――ジネットの父・ルセル卿が行方不明になってすぐ、ジネットは義母レイラから追い出されるようにしてルセル家を出たことがある。
クラウスが血眼になって探している時に、ひょっこりギヴァルシュ家にやってきたジネットはクラウスを見るなりこう言ったのだ。
『どうぞ私のことを、婚約破棄してくださいませ!』
と。
あの時、クラウスは危うく本気で心が死ぬところだった。
さいわいにも理由を聞いて、クラウスが嫌われたわけでもなく、またジネットに好きな人ができたわけでもなく、クラウスを心配しての発言だったと知ってどれほどホッとしたことか。
思い出してクラウスがまた微笑む。
「……もし僕がまた没落してしまったら、ジネットはそんな人の妻にはなりたくないかい?」
「まさか! そんなわけありません! クラウス様がどうなろうと、私はクラウス様についていきます!」
目を丸くして否定するジネットに、クラウスがフッと微笑む。
「これは少し意地悪な質問だったね。君ならそう言うと思っていた」
言いながら、今度はジネットの唇に口づける。
「っ……!」
途端に、ジネットが顔を真っ赤にして硬直した。
やがて唇を離したあとになっても、彼女はカチンコチンに固まり、顔をゆでだこのように赤くしたままだ。
「それにね、ジネット。君は忘れていないかい?」
「わ、忘れる……? 何をでしょうか……!」
「以前、僕は言ったはずだ。『この結婚は家のためなんかではない。君と結婚できるなら、僕は爵位だって手放してもいい』と」
「あっ!」
どうやら思い出したらしい。
「冷遇されるぐらいで君と結婚できるのなら、優しいものだよ」
心からの本音だった。
「クラウス様……!」
珍しく目を潤ませるジネットの頬を、クラウスは優しく撫でた。
「大丈夫だよ、ジネット。道はいくらでもある。今は向こうの考えを探るためにも、登城してくるよ」
クラウスの言葉に、ジネットはぐっと力強く手を握った。
「わかりました。クラウス様、気を付けて行ってらっしゃいませ!」
「ああ、行ってくるよ」
そうしてクラウスは、ギヴァルシュ伯爵家を発ったのだった。