第9話 私の完璧な婚約者様
「無事でよかった! 君がルセル家を出ていったと知って、心臓が止まるかと……! おっと、すまない」
腕の中のジネットが硬直しているのに気付いて、クラウスがあわてて手を離す。
「僕としたことが、紳士らしからぬ振る舞いをしてしまったね。悪かった。こんな所で立ち話しているのもなんだし、中に入って話そうか?」
「は、はい!」
にこりと微笑んだ顔はいつも通りため息が出るほど美しく、背景に薔薇やら百合やらが飛んでいてもおかしくないほどの優雅っぷり。
(ああびっくりした! クラウス様に抱きしめられてしまったわ! ……それにしても、そこまで私を心配してくれていたなんて……あいかわらずクラウス様ったら、なんてお優しいの!)
――彼は昔から、ずっと優しかった。
ジネットのせいで悪口を言われているにもかかわらず、ジネットを責めたりなじったりしたことは一度もない。それどころかジネットの悪口を聞きつけると、穏やかな、けれど毅然とした態度で抗議さえしてくれる。
ほかにも季節のイベントでは必ず気の利いたプレゼントを欠かさなかったし、夜会でも毎度完璧なエスコートを披露。
何より、ジネットが商売の話をしても嫌な顔ひとつせず、それどころか助言までしてくれるのだ。
(商売のお話をすると、令嬢たちには「またお金の話をしているわ」と笑われるし、男性たちには「女性はそんなことを考えなくてよろしい」と一蹴されてきたのに……。クラウス様だけは、いつも真摯に聞いてくれたのよね……)
いついかなる時も穏やかで優しく、紳士。まさに婚約者として完璧だった。
(そんなクラウス様の足を、これ以上引っ張りたくない……! やはり、早急に婚約破棄してもらわなければ……!)
改めて決意しながら、ジネットはサラとともにギヴァルシュ伯爵邸の廊下を歩く。
屋敷に並ぶ調度品は、華美ではないものの品のいいものがそろえられている。また、流行の最先端を要所要所で取り入れているあたり、家主のセンスの良さもうかがわせる。
それは通された応接間でも一緒で、ジネットはテーブルに載っている白いキャンドルスタンドの美しさに感心しつつ、案内されたソファに腰かけた。
クラウスとジネットが向かい合うように座ってから、彼がほっとしたように口を開く。
「それにしても本当に驚いたよ。君の父君——ルセル卿が行方不明になったと聞いてあわてて帰ってきたら、君まで家を出たと言うのだから」
聞くと、どうやらクラウスはジネットがルセル家を出た直後ぐらいに帰ってきたらしい。
「ええ、実はお義母様たちとは離れて住むことになりまして」
その言葉に、なぜかクラウスの肩がぴくりと揺れた。
「……と、言うと? その辺りを、詳しく話してくれるかい? ジネット」
そう言った紫の瞳は、なぜか好戦的な光を放っている。
「隠すことなく、あますところなく、全部、話してくれるね?」
単語がひとつひとつ区切られ、ゆっくりと発音される。
その顔は笑顔なのだが、なぜか目がまったく笑っていなかった。
(クラウス様……?)
初めて見る彼の表情を不思議に思いながら経緯を話すと、聞き終えたクラウスが抑えた声で言う。
「……なるほど、そんなことが」
その声は低く、ジネットは眉をひそめた。
(クラウス様、もしかして怒っていらっしゃる……? いつも笑みを絶やさないあの穏やかなクラウス様が? なぜ?)
だがそれを聞く前に、彼が話を変える。
「それより、君は今どこに寝泊まりしているんだい?」
「今は大通りにある宿屋です!」
「宿屋だって!?」
ジネットとしては安心させるつもりの言葉だったが、逆効果だったらしい。
クラウスの顔が曇る。
「君が街に慣れているのは知っているけれど、変な輩に目をつけられたらどうするんだ……! 君は僕の婚約者なのだから、遠慮せずうちに来るといい」
当然だろう? と言わんばかりに優しく微笑まれて、ジネットはしどろもどろになった。
(ああ、やっぱりクラウス様はお優しい! でも、これだとしばらく宿屋を拠点にするつもりだなんて言い出しづらいわ。それに……!)
「あの……そのことなんですけれど、クラウス様」
おずおずと切り出したジネットに、クラウスがさらに慈愛に満ちた目で語りかけてくる。ジネットがこれから言おうとしていることを、夢にも思っていないであろう顔だ。
「もちろん、お金のことは心配しないで。私の留学で結婚が延びていたが、すぐに結婚しよう。父君もきっとわかってくださるはずだ」
どうやらクラウスは、ジネットが金銭的なことを気にしていると思っているらしい。
けれどそれは違う。
盛大に違う。
「ち、違うんです、クラウス様!」
冷や汗をかきながら、ジネットは続けた。
「その……私が今回やってきたのは、お願いがあったからです」
「お願い? 何かな、言ってごらん」
クラウスが優しく微笑む。
ジネットはドキドキしながら、思い切って口に出した。
「私がしたいのは結婚ではないのです。その……クラウス様! どうぞ私のことを、婚約破棄してくださいませ!」
(言った! ついに言ったわ!)
達成感で、ふぅと安堵の息がもれる。それから顔を上げて、はたと気付く。
「……なんて?」
――クラウスの表情が、完全に死んでいた。