第86話 その言葉を口に出すのは恥ずかしいけれど。
その日の夜。
一連の片づけを終えたジネットがソファにくったり寄りかかっていると、時間差で帰って来たらしいクラウスが部屋の中に入ってくる。彼は胸元のタイを緩めながら、ジネットの隣に座った。
「お疲れ様、ジネット」
「クラウス様」
ジネットはあわてて姿勢を正した。そんなジネットにクラウスが優しく微笑む。
「いいんだよ、楽にしてて。今日は忙しかったからね」
「そ、そういうわけには……! クラウス様の方がお戻りが遅かったですし!」
言いながらジネットは赤面し、目を逸らした。
実はあの公開プロポーズの後からバタバタしていて、クラウスとちゃんと話すのはこれが初めてだったのだ。
しかもプロポーズは二回目のはずなのに、なぜか少し気恥ずかしい。
気づいたクラウスが、そっとジネットの手を握る。
「ジネット……今日は秘密にしていてごめん。どうしてもみんなの前で君に言いたかったんだが、もしかして嫌だったかい?」
そう尋ねるクラウスの顔はどこかしゅんとしている。ジネットはあわてて否定した。
「嫌だなんてそんなことは……!」
言いながらまた顔を赤くする。
――一回目のプロポーズは、ジネットが婚約破棄を提案しに向かったギヴァルシュ伯爵家で言われた。
あの頃はまだクラウスが自分を好いてくれているとは夢にも思っていなくて、嬉しさよりも、ただただ驚きが勝っていた。
けれどあれからクラウスは時間をかけて少しずつ――と言うにはやや押しが強かったが――何度も何度も気持ちを伝えてくれた。
だから今のジネットには、ようやくわかるようになっていたのだ。
クラウスが本気で、ジネットを好きだと言ってくれていることに。
(なら、私も答えなければ……!)
――その言葉を口に出すのは恥ずかしいけれど。
ジネットは自分を奮い立たせるようにぎゅっと手を握ると、どもりながらも言った。
「その、少し恥ずかしかっただけで……私は嬉しかった、です。私もクラウス様のことが……その、好き、ですから!」
(言ったわ!)
噛まずに言えたことに胸をなでおろしていると、ジネットの上にふっと影が落ちて来た。
何事かと顔を上げれば、すぐそばにクラウスの顔があった。
その顔は何かを我慢しているかのように切羽詰まり、そのせいでひどく色っぽい。
(ひゃっ!!! ち、近いし、その顔は危険ですクラウス様!!!)
戸惑うジネットの顎を、クラウスの長い指がとらえる。
「ジネット……」
うるんだ菫色の瞳がゆっくりとジネットに近づいてくる。さすがのジネットも、彼が何をしようとしているのか既に気づいていた。以前一度、経験していたからだ。
ジネットは覚悟すると、ぎゅっと目をつぶった。
「っ……!」
その後に押し付けられた唇は熱く、激しく。
そのまま貪られるにして口づけられ、唇を離す頃にはジネットは息も絶え絶えになっていた。
(な、何やら……すごかった、です……!?)
ふらふらになったジネットに、珍しく頬を赤らめたクラウスが謝る。
「ごめん。嬉しくてつい。……一応これでも、我慢した方だったんだけれど」
「こっこれでですか!?」
(だとしたら、クラウス様が本気を出したら私はどうなってしまうのですか!?)
恐ろしくて聞けなかったジネットは、代わりにごくりと唾を呑んだ。
そんなジネットの気持ちを知ってか知らずか、クラウスはまだ頬を赤らめている。
「ふぅ……。今までも散々我慢してきたけれど、一度蜜の味を知ってしまうと耐え難いな。この状態で毎日我慢はつらすぎる。……よし、こうなったら一日でも早く結婚式を挙げてしまおう。押さえた式場の日程、お金を積めばきっと無理矢理にでも早めてもらえるはずだ……!」
(あの、クラウス様。なんだかとても不穏な話に聞こえるのですが気のせいですか……!?)
憑りつかれたようにぶつぶつと呟くクラウスを心配そうに見ながら、ジネットはふとあることを思い出した。
「あっ、そういえば!」
ぱちん、と手を叩くと気づいたクラウスがこちらを見る。
「ん? どうしたんだい? 今すぐふたりで式を挙げる気になった?」
「どうしてそういう話になったのですか!? えっとそうじゃなくて、とあるおうちにダイヤモンドを売りに行きたいのですが、構いませんか?」
「とある家? 一体どこに?」
「それはですね――」
言って、ジネットはクラウスに囁いた。
◆
ここは王都から少し離れた、のどかな荘園。
「――おい」
あたたかな日光が燦々と降り注ぐ中、遠くからアリエルを呼ぶ慇懃な声が聞こえてきた。
が、アリエルはちらりとそちらに目線をやっただけで、すぐにまた聞こえなかったことにしてじょうろを傾ける。小さな穴からちょろちょろと出た水は栄養たっぷりの花壇に染み込んで、濃い茶色の染みを作った。
「おい、お前だ。返事をしろ」
アリエルが無視を決め込んでいることにしびれを切らしたのか、氷のような冷たい美貌を持ったアリエルの夫――バラデュール侯爵ベルナールがイライラしながら言った。
ザッと真後ろに立たれて、アリエルはようやくハァと息を吐きながら振り返った。
「残念ながら私は『お前』なんて名前ではございませんので返事をいたしません。御用があるのでしたら『アリエル』とお呼びくださいませ」
つん、と顎を尖らせてつっけんどんに言うと、ベルナールはムッとしながらもきちんと言い直す。
「アリエル」
「はいなんでございましょうか旦那様」
その声は冷たいほど淡々としており、あくまでも妻としての義務で返事をしているという姿勢を崩さない。
――それもそのはず。
借金のかたに売られたアリエルは、このバラデュール侯爵家では散々な扱いを受けて来たのだ。
しかもアリエルを無視する筆頭に立っていたのは他でもない、ベルナール自身。
それならこっちも好きに生きてやるわと開き直ったアリエルだったが――ここ最近、どうも夫の様子がおかしい。
なぜかやたら晩餐をともにしたがるようになったり、無表情のくせにやたら話しかけてくるようになったり、不可解な行動をとり始めるようになったのだ。
(どんな心境の変化があったか知らないけれど、気持ち悪いことこの上ないわ。一体何が狙いなのかしら)
警戒するアリエルの前で、ベルナールがぶすっと言う。
「これをやる」
言いながらずい、と突き出したのはベルベットの小さな箱だ。
「……? 何ですの、これ」
「いいから開けてみろ」
ベルナールが「ん!」と手を突き出してくるので、アリエルは仕方なくじょうろを置いて受け取った。それからぱかっと開けると――。
「……指輪?」
出てきたのは、銀色の指輪だった。指輪の中には、丸くてキラキラと輝くダイヤモンドらしき石が埋め込まれている。
「……結婚指輪を作っていなかっただろう。だから作ったんだ」
そういって腕を組んだベルナールの左手薬指にも、アリエルがもらった指輪とよく似た指輪が輝いていた。
「……どうもありがとうございます」
(今さら結婚指輪なんてどういうつもり? 結婚式だって初夜だってなかったのに、今世になって世間体でも気にし始めたのかしら?)
「ほら、つけてやる」
言うや否や、ベルナールが指輪をひったくった。それからどこかたどたどしい手つきで指輪を取り出すと、アリエルの左手を掴んで指輪をはめる。
「……どうだ、ぴったりだろう」
その顔はどこか満足げだ。
「はぁ……ありがとうございます……」
とりあえずお礼は言ったものの、夫の不可解な行動にアリエルはますます眉をひそめるばかり。
「でもなぜ急に? 指輪のような贅沢品は絶対に買わないと言っていたのはあなたですわよね?」
アリエルがベルナールに会った初日、彼は開口一番にこう言っていた。
『お前に使う金はない』
と。
(なのになぜ今になって?)
いぶかしむようにじぃっと見つめていると、ベルナールがやや頬を赤めて咳払いする。
「そ、その……破格で売ってくれるという商人が現れたから、その価格ならまあいいだろうと思って買ったのだ。指輪をしていないと、女避けにならないと気づいたしな」
「ふぅん……?」
「なんだその顔は。疑っているのか? それとも偽物を掴まされていないか勘ぐっているのか?」
冷たい視線を向けるアリエルに、ベルナールが弁解するように言う。
「だがどちらも心配いらない。その商人は王都でも有名な人物で、赤毛の女商人という特徴だってちゃんと一致していたのだから」
"赤毛の女商人”
その単語に、アリエルはぴくりと反応した。
「赤毛の女商人……?」
「そうだ。なんでも彼女いわく今ダイヤモンドの売り出し期間中で、さらに我がバラデュール侯爵家と懇意にしたいから、特別な価格で売ってくれると言っていたぞ」
(まさか!)
「あの、その方のお名前は!?」
急に食い気味に身を乗り出したアリエルに、今度はベルナールが眉をひそめる番だった。
「なんだ急に……さっきまでとは全然反応が違うでないか」
「いいから! お名前を! お名前を教えてくださいませ!」
ぐいぐいと、アリエルは今までにないぐらい彼に詰め寄った。気圧されたベルナールが目を白黒させながら答える。
「名前はなんだったかな……。そういえばお前と同じ名字をしていた気がするぞ? ファーストネームは確か―― 」
「もしやジネットでは!」
被せるようにしてアリエルは叫んだ。言葉を奪われたベルナールが、きょとんと目を丸くする。
「……なんだ、知っていたのか?」
(やっぱり、お姉様だわ!)
自分の予想が当たっていたことを知って、アリエルは嬉しそうにくすくす笑った。
そばではベルナールが「なんでもだな、そのダイヤモンドという宝石には――」と何かうんちくらしきことを語っていたが、それにも構わずアリエルは笑い続ける。
(ベルナール様は私に興味なんてないから、きっとその女商人がお姉様だなんて、気づかないでしょうね)
でも、それでいいのだ。
ジネットがアリエルの義姉ではなく女商人としてやってきたということは、きっと何か意味があるのだろう。
(そうよね? お姉様)
心の中で語り掛けながら、アリエルは薬指につけられた指輪をかざした。
太陽の光を受けて、はめ込まれたまあるいダイヤモンドはキラキラ、キラキラと、まるでアリエルの行く末を祝福するように七色の光を放っていた。
それはジネットからの、遠回しな贈り物。
――ちなみにアリエルがダイヤモンドに込められた"永遠の輝きをあなたに”という意味を知るのは、もう少しだけ先の話だ。
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これにて第2部完結です~~~!!!
3巻発売前にしてなんとか間に合ってほっとしています(投稿は遅刻しましたが……)。来週からは第3部(3巻分)の投稿を初めていきますのでお楽しみに!
あと、アリエルとベルナールの話は、2巻の書き下ろし特典として2~3万字ほど入っていますので気になる方はそちらをご覧ください。