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第77話 もう二度と(義母レイラ視点)


 あの時レイラが向かっていたのは、高級娼館だった。


 嫁ぎ先から追い出され、そして実家からも見放されたレイラには、もうこれしか方法はなかった。

 かつての義実家はアリエルのこともいらないと言っていたから、早く次の居場所を見つけないと親子ともども飢え死にしてしまう。

 娼館は嫌だったが、幸い自分は美しい。それなら飢え死にするよりはよっぽどいいと、苦渋の選択をしたのだ。


 けれどレイラはその途中で見つけてしまった。

 酔いつぶれて転がっている、クレマンを。


「確かあの時は、目が覚めたら道端で君が介抱してくれていたんだっけなぁ」

「ええ。本当に、通行人の目に耐えながら面倒を見るのは大変でしたわよ?」


 本当は最初、気づいてすぐに立ち去ろうとした。けれどクレマンが身に着けているものがすべて高級品だと気づいてあわてて引き返したのだ。

 その甲斐あって、ふたりは見事結婚までこぎつけた。


(まあ、わたくしの美しさならいけるとは思っていましたけれどね)


 思い出してふふんと得意げになっていると、しみじみとした口調でクレマンが言った。


「懐かしいなあ。あの日、君もやけ酒を煽っていたとかで、後半はわしより君の方が酔っぱらっていたよねえ。怒るし泣くし吐くしで、散々だったよ」

「そっ……それは」


 忘れていたかった都合の悪い思い出に触れられて、レイラが気まずそうに目を逸らす。


「でもあの時の君は、すごくよかったんだよね。ケチな義実家に対して、『私は美しいのだから、お金がかかるのは当然じゃない! そんな覚悟もないのに嫁に迎えた方が悪いのよ!』と憤っていたよねぇ」

「そ、そんなこともありましたわね……」


 クレマンが語っているのは本当のことだ。

 他の人に馴れ初めを話す時、レイラやクレマンは『道端で酔っぱらっていたクレマンを介抱した』という前半部分しか言っていない。

 後半部分、レイラが大暴れした件は秘密にしてくれと頼んでいたのだ。

 なぜかクラウスだけはそれを知っていて、この間『これ以上悪だくみをするようならそのことをばらしますよ』と脅されたのだが……。


「何より、あれがよかったよ。君の、アリエルに対する想い」


 目を細め、懐かしそうにクレマンが言う。


「『お願い! アリエルを娼婦の娘にしたくないの! わたくしはどうなってもいいけれど、アリエルだけは命に代えても守りたいのよ!』って。女の人にあんなに力強く衿を引っ張られたのも初めてだし、あんなに真剣で鬼気迫る顔も初めて見たんだよねぇ」

「まあお恥ずかしい……そんなこと言っていたかしら?」

(私も酔っていたから、あの頃の記憶は結構あやふやなことが多いのよね……)


 レイラはすっとぼけた。と同時に、話がどんどんクラウスから遠ざかっているのを感じて安堵もしていた。

 首をかしげるレイラにクレマンがうんうんとうなずく。


「言っていたとも。わしは覚えておるぞい。君を妻に迎えようと思ったのも、そんな君の女性としての強さと、母としての強さに強く惹かれたからだ」

「まあ……」


 レイラはここぞとばかりに、ぽっと頬を赤らめてみせた。さらにクレマンが続ける。


「だから君が実際のところ、わしを微塵も好いていなくても、気にしなかったんだけどね」

「はい………………えっ?」

(今なにか、急に話が変わったような)


 驚いたレイラがクレマンの顔を見つめると、夫もじっとこちらを見つめ返していた。

 いつも快活に笑っている灰色の瞳は、今はちっとも笑っていない。


「君のジネットの扱い方に対してもね、注意しようかどうかずっと悩んでいたんだよ。でも肝心のジネットがおもしろがっているうちはいいかと、これでも大目に見ていたんだけどね」

「え……? はい……?」

(ジネット? 急になぜ話がそっちの方向に?)

「でもね、これだけはいただけないよ、レイラ」


 すぅ……とクレマンの目が細められる。緑の瞳がゆらりと妖しく揺れた。


「君、ジネットを身代わりに差し出そうとしていたね?」

「あ……それ、は……!」


 核心に触れられて、レイラははくはくと口を動かした。


「それに、アリエルを身代わりとして差し出したよね?」


 ギラ、と彼の瞳が鋭く光った。


 ――最初から、全部知られていたのだ。


 クレマンはのんきに思い出話を語るふりをして、ちゃくちゃくとレイラを追い詰めるための外堀を埋めに来ていたのだ。

 レイラがそれに気づいた時には、すべてが遅かった。


 感情の宿らない冷たい瞳がじっとレイラを見つめている。それは捌きを下す審判のような目だった。


「わしを馬鹿にするのはいい。ジネットもクラウスくんが守ってくれると信じていたから、千歩譲って大目に見よう。だが君はたったひとり、唯一裏切ってはいけないアリエルをも裏切ったんだ。違うかね?」

「わ、わたくし……」

「レイラよ。もう一度聞くが、アリエルは君にとって命に代えても守りたかった大事な娘ではなかったのかね? 君がこさえた、たかだかあれっぽっちの借金のために〝老いぼれた色欲〟に差し出してもいいものだったのかね?」


 怒鳴るでもなく、荒ぶるでもなく、ただ低い声で淡々と語り掛けてくる。

 レイラは夫の目をまっすぐ見ていられなくて、ぶるぶると震えながら床を見つめていた。


「クラウスくんが〝身売り〟と言われて悔しい思いをしていたのは君も知っているだろう? なのになぜ、自分の娘に同じことをさせようとした? なぜそこに『何が何でもアリエルだけは守る』という選択肢がなかったのかね? ……本当に残念だよレイラ」


 ぽん、とクレマンがレイラの肩を叩く。


「ジネットをいじめる君をずっと見逃していた一番の理由は、アリエルをまた家なき子にしたくなかったからだ。だがアリエルがいなくなった今、もう気にする必要もない。レイラ、当面のお金は渡すから、もうこの家から出て行ってくれたまえ。――離縁だ」


 離縁。


 その二文字がガン、とレイラの頭を殴りつける。

 そのままクレマンが部屋を出て行こうと歩き出すのを見て、レイラはふらふらとその背中に手を伸ばした。


「ま……待って、クレマン。ごめんなさい、許して……!」


 ドアノブに手をかけながら、立ち止まったクレマンはゆっくりと首を振った。


「違うよレイラ。君が謝る相手は僕じゃない。君が謝らなきゃいけないのはジネットと、それからアリエルだ。……ジネットはともかく、アリエルは謝っても許してくれないかもしれないけれどね。でもしょうがない。だって君はそれだけのことをしたんだから――」


 パタン。


 無慈悲に閉められた扉の音は、そのままクレマンの拒絶を表していた。

 レイラはずしゃりとその場に崩れ落ちると、床に手をついた。

 その時ようやくレイラは気づいたのだ。


 自分が犠牲にしてしまった、大事なものを。


 自分が売ったアリエルは、きっともう二度と微笑みかけてはくれないことに。

 バタバタと、大粒の涙が床を打つ。堪えきれず、レイラは慟哭した。


「あ……ああ……ああああああああ!!! クレマン! ジネット! アリエル!」


 もう二度と自分に笑いかけてくれない家族の名を叫びながら。

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― 新着の感想 ―
[良い点] これぞ粋なざまぁ。
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