第76話 かつてそこに座っていたのは(義母レイラ視点)
日が少しずつ沈み始め、薄暗くなり始めた部屋の中で、レイラはぼんやりと誰も座っていないソファを見つめていた。
かつてそこに座っていたのは、レイラのたったひとりの娘、アリエル。
アリエルは社交界に自分の悪い噂が立っているのを知って以来舞踏会には出かけなくなり、日がな一日刺繍をするか、せっせと花に水やりをしていた。
レイラはそんなアリエルをもどかしく想い、イライラしながら見ていたものだ。
『ちょっと悪口を言われたぐらいで社交界を逃げ出すなんて、情けない。ジネットを見なさい。あの子はあなたにあんなに悪評をばらまかれたのに、けろりとして舞踏会に行っていたわよ!』
『お姉様は特別よ! あんな化け物みたいに図太い人と私を一緒にしないで!』
『だったらいつまでもクラウスにこだわっていないで、結婚相手を見つけてきなさい!』
そんな怒鳴り合いをしたのも、もはや遠い過去のように思える。
(この部屋って、こんなに広かったかしら……)
ゆっくりと居間を見回しながら、レイラは思った。
いつもルセル親子がにぎやかを通り越してうるさかったせいで今まで気づかなかったが、レイラ以外誰もいなくなった居間は、まるで最初からそうだったようにしんと静まり返っていた。
(思えばひとりずついなくなっていったわ。最初は夫、次に夫の娘であるジネット。そして最後にわたくしのアリエル……)
思い出して、レイラはまたぼんやりとした。
(アリエルの結婚は、仕方がなかったのよ)
レイラには返せるお金なんてなかったし、ジネットを頼ったら最後、どんな扱いを受けるかわかったものじゃない。残された道はアリエルともども娼館に身売りすることか、バラデュール侯爵にアリエルを嫁がせるかだけ。
それなら母娘ともども落ちぶれるより、ろくでもない異名こそあるものの、由緒正しい家柄であるバラデュール侯爵に嫁がせる方がずっとマシなはずだ。
それに考えようによっては玉の輿とも言える。本来侯爵は、成り上がりの男爵家ごときの娘が嫁げる相手ではないのだから。
……そう思うのに、レイラの気持ちは晴れなかった。
そのまま薄明かりの中ぼんやりとたたずんでいると、何やら家の中が急に騒がしくなった。
一体何なの? とレイラが扉の方を見たのと、扉が勢いよく開いたのは同時だった。
「わしが帰ってきたぞ!!!」
響き渡るのは品のない、馬鹿でかい大声。こんな声音で話す人物を、レイラはひとりしか知らない。
「クレマン……! お、おかえりなさい!」
クレマン・ルセル。
目の前に立っていたのはレイラの夫であり、この家の主であるルセル男爵だ。
レイラはあわてて立ち上がると、以前より少し痩せた夫を出迎えに行った。こう見えて、クレマンの前ではちゃんと良妻賢母を演じているのだ。
「無事に帰ってきてくださって嬉しいですわ! あなたがいない間、ジネットも出て行ってしまい、アリエルも嫁いで……ひとりでどんなに心細かったことか!」
ああ! と叫びながら大げさに抱き付けば、夫も優しくレイラを抱き返してくれる。
「君にも苦労をかけたね。クラウスくんから色々話は聞いているよ」
クラウスの名に、レイラの眉がぴくりと震えた。
正直、今はその名を聞きたくなかった。なぜならクラウスはレイラの悪事を全部知っているのだ。
「ま、まあ。一体何を聞いたのかしら」
上目遣いでちらりと見上げれば、夫は機嫌良さそうに目を細めている。
「色々だよ。ほら例えば、ジネットが結婚のためにギヴァルシュ伯爵家に引っ越したんだってね? それから君がルセル商会の権利書をジネットに譲り渡したとか……ああもちろん、アリエルの結婚のことも聞いたとも! 侯爵家に嫁入りだって? すごいじゃないかレイラ!」
そう話すクレマンの表情は明るく朗らかで、まるで全部本当にいいことしか起こっていないような話っぷりだ。
(あ、あら? 意外と大したことは聞いていない? もしかして、クラウスは深いことは言っていないの? でもなぜ?)
クラウスは見た目こそ清廉潔白な聖人のようだが、その腹の中はレイラですら驚きの黒さなのだ。仮に今クレマンに話していないとしても、何か狙いがあるはず。
そう考えたレイラは、クレマンの顔色から何か読み取れないかじっと見つめた。
「嫁入りと言えば、懐かしいねレイラ。覚えているかい? わしらの出会いを」
(わたくしたちの出会い?)
突然振られた話題に、レイラが眉をひそめる。
急に自分たちの出会いを語り出すなんて、今までにないことだ。
(でも、よく考えたら久しぶりに家に帰って来たわけだし、急に感傷的になってしまったのかしら? だったら、気のすむまで付き合ってあげてもいいわね……)
過去話でクラウスのことを忘れてくれるのなら都合がいい。
そう考えると、レイラは演技の笑みを浮かべた。とことん夫に付き合うことにしたのだ。
「ええ、懐かしいですわね。もう何年昔のことかしら?」
話を合わせながら、レイラは思い出していた。数年前の夜、決死の覚悟で道を歩いていたことを。