第74話 きっと重要なこと
それから数日後。
ジネットはルセル商会で、まだチューリップ関係の後始末に追われていた。
突如市場が崩壊したせいで現場はまだ混乱を極めている真っ最中で、ジネットの仕事も山のようにある。
中でも、一度は値上がりにより取引をやめたチューリップ農家が、高値で契約した商会が破産してしまい一銭のお金も入ってこなくなったということで、ふたたびルセル商会を頼ってきていたのだ。
一度他に流れた分、以前よりも安く入荷できるため、いつものジネットならうきうきでその処理に取り掛かっているところなのだが……。
「……はぁ」
どうにもペンを持つ手がたびたび止まり、作業が捗っていなかった。
目の前で資料をまとめていたキュリアクリスが不思議そうな顔でこちらを見る。
「……珍しいな。君がため息だなんて。一体何がそんなに気になるんだ? ふっかけようとしてくる奴でもいたのか?」
「いえ、そんな大したことじゃないんです」
あわててジネットは否定した。
なぜならジネットが気になっているのはチューリップでもチューリップの農家でもなく……アリエルのことだったからだ。
(まだアリエルが嫁いでから一週間も経っていないから、手紙が来るはずないってわかっているのだけれど……)
それでもついつい、手紙が来ていないか聞いてしまう。
クラウスと相談してこのまま見守ることにしたものの、それでもジネットはこの選択が正解だったのか、ずっと考えていた。
(お義母様から距離をとった方がいいという意見には私も賛成ですが、アリエルを任せる方は本当にあの方でよかったのかしら。もっと他にいい人がいたのでは……)
新侯爵は借金にかこつけて、どう考えてもアリエルを都合よく扱う気満々だった。
ジネット自身が新侯爵を直接知っているわけではないため、話を聞けば聞くほど人柄に不安を覚えてしまう。
(ああ……! 早くアリエルから手紙が届かないかしら。それともやっぱり私から書いてしまう? でもそしたら絶対『お姉様気持ち悪いわ!』と言われてしまうわよね……!?)
「……ぃ、おい、ジネット」
(いえ、でも最近のアリエルは少し優しくなったから、ああ見えて照れているだけで案外喜んでくれる可能性も……!)
「ジネット!」
「ひゃい!?」
突然すぐ近くで名前を呼ばれて、ジネットは驚いて顔を上げた。そして超至近距離にキュリアクリスの顔があることに気づき、もう一度驚く。
気づけばいつの間にか、キュリアクリスがまたジネットの肩に腕を回していたのだ。
「ちちち近い! キュリアクリス様、近いです!」
あわてて押し除けようとするが、キャリアクリスは肩に腕を回したまま、ビクともしない。それどころか不敵にもさらに抱き寄せようとしてくる。
「私の前で油断する方が悪い。これでも何回も名前を呼んだのだが?」
「すみません考え事をしていました!」
なんとか逃れようと押す手に力を込めるが、その手ごとキュリアクリスに握りこまれてしまう。
「ダメだ。こんな機会、私が逃すわけないだろう? 君は忘れているようだが、私はまだ微塵も君を諦めたわけじゃないんだ」
そう囁く彼の瞳は、いつになくギラギラしていた。黒い瞳は細められ、まるで獰猛な肉食獣が捕まえた獲物をいたぶる時のように輝いている。
(ま、まずい……! 目が本気です!)
「恨むなら、こんな無防備な君と私をふたりきりにしたクラウスを恨むんだな」
「そんな無茶な!?」
と、ジネットが叫んだ次の瞬間だった。
「残念。僕はいるよ」
そんなクラウスの声がしたかと思うと、キュリアクリスが「いたたたた!」と叫びながらジネットを解放したのだ。
一体何が起きたのかと思って見てみれば、クラウスが笑顔を浮かべたまま、キュリアクリスの耳を全力で引っ張っていた。
「やれやれ……。本当に油断も隙もあったものじゃないな?」
クラウスがため息をつきながら言ったが、その手はキュリアクリスの耳を掴んだまま。
「いたたた! 放せ! 耳はやめろ耳は!」
「こうでもしないと君は彼女を放さないだろうからね。やむなしだ」
さらりと言い放ちながら、キュリアクリスを十分ジネットから引き離した上でクラウスはようやく手を放した。かと思うと、真剣な顔でジネットを見る。
「それよりジネット、今すぐ家に帰ろう」
「今すぐ、ですか?」
それはクラウスにしては珍しい提案だった。
彼はずっとジネットのそばにいることが多いが、遠くから眺めてニコニコしたり、ジネットの休憩に合わせて彼も休憩をとったりすることはあっても、仕事の邪魔になるようなことは滅多にしてこない。
(ということはつまり、きっと重要なことなんだわ!)
「わかりました!」
ジネットはすぐに立ち上がると、クラウスに手を引かれてルセル商会を後にした。
そうして戻ったギヴァルシュ伯爵家。
扉を開けたジネットが見たのは――。
「……お父様!?」