第73話 “新バラデュール侯爵”
アリエルを乗せた馬車が少しずつ遠ざかっていくのを、ジネットはクラウスとともにじっと見つめていた。
目の前では、義母レイラが放心したようにぺたりと地面に座り込んでいる。彼女は泣くわけでもなく、またこれで借金がなくなって安堵した様子でもなく、ただただ馬車を見つめていた。
「アリエルが行ってしまいました……」
ぽつりと呟くと、静かに肩を抱かれた。クラウスだ。
ジネットはクラウスを見上げると心配そうに問いかけた。
「アリエルを本当にバラデュール侯爵に……いえ、“新バラデュール侯爵”に嫁がせてもよかったのでしょうか?」
“新バラデュール侯爵”
その単語にクラウスがゆっくりうなずく。
「ああ。前バラデュール侯爵ならともかく、息子の新バラデュール侯爵は人間としてはまともだよ。……ただし筋金入りの女嫌いだから、うまくいくかどうかは賭けだが……」
――実はレイラがジネットを攫おうとしていたまさにその日。
色欲侯爵と噂のバラデュール侯爵が、自宅の寝室で心臓発作を起こしていたのだ。
後を継いだのは息子である新バラデュール侯爵。
元々侯爵家の仕事は何年も前から息子が担っており、父親である前バラデュール侯爵は名だけの侯爵だった。
さらに新バラデュール侯爵は父とは逆に根っからの女嫌いであったため、『私が侯爵になったと知られたら、さらに寄ってくる女が増えて面倒だ』と言って、父親の死を大々的に公表しなかったのだ。
だからアリエルの夫となる人物は色欲のバラデュール侯爵ではなく、その息子となる。
義母とアリエルは、今日の様子を見るに恐らくまだその事実を知らない。クラウスが「新侯爵も相当な変人だから、アリエル嬢をぬか喜びさせない方がいい」と言ってジネットたちは黙っていたのだ。
「ところで……新バラデュール侯爵様は筋金入りの女嫌いなのに、借金の代わりに花嫁をもらう形でもよかった のですか?」
ジネットは素直な疑問を口にした。
クラウスから話を聞く限り、新侯爵は「何が何でも金を返せ。できないのなら臓器を売ってこい」と言い出してもおかしくなさそうな人物だったからだ。
「それがね……」
何やら呆れた顔で、クラウスが苦笑いする。
「侯爵ともなると、財産目当ての女性にまとわりつかれるだろう? だから名前だけの、いわば女避けに使える妻が欲しかったらしいんだ。その点『借金のかたに売られたアリエルなら自分に逆らえない』し、何よりアリエル嬢の悪評を聞いて、『そんな悪女なら放置して白い結婚をしても心が痛まない』そうだよ……」
「それはなんと言いますか……だいぶ難のある人物ですね……!?」
ジネットがうぐぐとうなる。
老いぼれた色欲侯爵に嫁ぐより何倍もいいとは言え、いわゆる一般的な『幸せな結婚』からはだいぶ離れているように思えたのだ。
「癖のある人物なのは否定しない。ただそれ以外では酒も飲まなければ賭博もしない、真面目な人物だよ。……アリエル嬢が気に入るかどうかは別だけれど」
ジネットはうなずいた。
どのみち貴族同士の結婚で、パブロ公爵とクリスティーヌ夫人のように愛のある結婚の方が珍しいのだ。年齢も少し離れているとは言え釣り合いがとれているし、人物的に真面目というのなら、条件としてはいい方とさえ言えた。
「それに……アリエル嬢はレイラと距離を取った方がいい」
まだへたりこんでその場から動かない義母を見ながら、クラウスが目を細める。
「レイラはアリエル嬢にとっては毒だ。君の誘拐に加担させようとするなんて、実母の行いとは思えない」
それはジネットもずっと気になっていたことだった。
自分は義母に口出しする権利はないとは言え、ジネットの父だったら決して同じことをジネットに求めてこないだろうし、強要もしてこないだろう。そもそも誘拐なんて企まない。
「ある意味では、ちょうどいいタイミングだったのかもしれない。アリエル嬢がレイラから離れ、巣立ちをするのに」
「そう、ですね……。あとは願わくば、アリエルにとってよき結婚相手となることを祈るばかりです……」
馬車が走って行った方向を見ながら、ジネットはそっと祈ったのだった。