第72話 もしかしたら、これが(アリエル視点)
――その夜のルセル家は、まるで通夜のように暗く静まり返っていた。
帰って来たレイラもアリエルも、どちらもひと言も発さない。
部屋の中に立ち込める空気は重く、何も知らないギルバートが心配して何度も様子を見に来るほどだった。
「……どうするつもりなのよ」
額を押さえたレイラが険しい顔で言う。
「クラウスが来る前にさっさとジネットを馬車に載せていれば間に合ったかもしれないのに、あなたが止めるから……!」
「お母様、さっきの話聞いていなかったの? クラウス様はとっくにバラデュール侯爵に手紙を送っていたのよ。お姉様を送り込んだところで、門前払いされるだけだわ」
「じゃあどうすればいいのよ!!! 我が家にはそんなお金はないのよ!? それとも、あなたがジネットの代わりに行ってくれるとでも言うの!?」
母の口から飛び出した言葉に、アリエルはハッとした。
それは母も同じだったようだ。
「……そうよ。ねえアリエル、あなたがジネットの代わりに行ってくれない!? ルセル男爵はいまだに戻ってこないし、帰ってきたところで今さら借金しただなんて言えないんだもの……! だからお願い、お母様を助けると思って! ねっ? 侯爵家なら爵位だってクラウスより上じゃない!」
確かに、爵位だけ見るならギヴァルシュ伯爵家よりバラデュール侯爵家の方が格が高い。
……ただしそれは、嫁ぎ先がまともな人物であればの話だ。
今のバラデュール侯爵家に嫁いで、果たしてアリエルはどんなひどい目に遭うのか。
(でもきっと、お母様もわかった上で言っているのね……)
アリエルは目を伏せた。それから小さく息を吐く。
「……わかったわ。私がバラデュール侯爵家に嫁ぎます」
「アリエル、ありがとう! 本当にいい子ね!」
母は目をうるませながら、ガバッとアリエルに抱き付いた。それを諦めの表情で受け入れながら、アリエルはゆっくりと目をつぶった。
(最初からこうなる気はしていたわ。今までお母様と一緒になってお姉様をいじめていたから……その報いを受ける時が来たのよ……)
――アリエルがバラデュール侯爵に嫁ぐと決まってから、話はとんとん拍子に進んだ。
せめてもの罪滅ぼしのつもりなのか、母レイラはギルバートに頼み込んで、アリエルのための美しい花嫁衣装を用意してくれた。
と言ってもそれを見たところでアリエルが喜ぶはずもなく。
光の宿らない瞳で、
「お母様、ありがとう」
と言うので精一杯だった。
(なんだか……全然結婚する実感がないわ)
幼い頃に夢見ていた結婚は、かつて母が語ってくれた結婚式のように、花と光に彩られてきらきら輝くものだと思っていた。
けれど実際は、アリエルは自分の夫となる相手の顔を知らない。年齢は親と子ほどにも離れ、何より光り輝く未来などこれっぽっちも想像できなかった。
灰色の毎日ならまだいい方。
嫁いだが最後。アリエルは弄ばれて、下手すれば命を失うことだってあるかもしれないのだ。
(でも、しょうがない)
少しだけ、ほんの少しだけ、アリエルは期待した。返済期限までに義父のルセル男爵が帰ってこないかと。
だがそんな都合のいい願いは叶うことなく、ついにアリエルは出立の日を迎えたのだった。
◆
その日ルセル家の門には、見送りにきたジネットやクラウスの姿もあった。
母は明らかにそれを忌々しく 思っているようだったが、あの日本気で怒ったクラウスがよっぽど恐ろしかったのだろう。口を引き結んで何も言わず、存在を無視することにしたらしい。
実際、あの時のクラウスの形相は、アリエルですら思い出してもまだ体が震えるほど。直接怒りをぶつけられた母は目も合わせたくないに違いない。
「アリエル……本当にいいの? 今ならまだ間に合うわ。私がお金を建て替えることだって」
目の前ではまだ、ジネットが心配そうな顔でアリエルの両手を握っていた。
「ううん、いいの。建て替えもらったところでそんなお金、返せる気がしないもの」
それはアリエルも何度も考え、そして導き出した結論だった。
なんだかんだジネットは優しいから、アリエルが生涯をかけて返せなくても文句は言われないという気がした。けれどそれでは意味がないのだ。
(借りはきちんと返さないと。たとえそれが、お母様が作ったものであっても)
一方母のレイラは、まだジネットに対して不満そうだった。
その顔には、『そんなにお金があるのなら、貸すんじゃなくてわたくしたちにわけてくれればいいのに!』と書いてあるのが丸わかりだ。
けれどやはり言葉に出す勇気はないらしい。
それも当然だ。なぜならクラウスはにこやかな笑顔を浮かべてジネットの横に立っているが、先ほどちらりと母を見た瞳はまったく笑っていなかった。恐らく母がなにかひと言でも言えば、彼は〝容赦なく〟来るだろうという気がした。
「アリエル……。何か困ったことがあったら手紙を書いて! いつでも待っているから!」
大げさなほど涙ぐむジネットに、アリエルがふっと笑う。
あの事件があってから、こうして笑うのは久々だった。
「お姉様って本当に最後までお人好しね。私、あんなにお姉様のこといじめたのに」
「あんなのいじめのうちに入らないわ! 私にとってはご褒美だったもの!」
「ご褒美? 意味がわからないわ。気持ち悪い」
ズバッと切り捨てるとジネットがウッとうめく。それを見ながらアリエルはくすくすと笑った。
(もしかしたら、これがお姉様たちと会う最後の機会なのかもしれない)
そう思うと、不思議と口からスラスラ言葉が出た。
「お姉様もクラウス様と幸せになってね。……言っておくけど、認めたわけじゃないわよ。ただ私はもう侯爵夫人になるし? 少しは余裕のあるところ見せておこうと思っているだけというか?」
「アリエル……」
目を潤ませて、ジネットがうつむく。
「……私ね。この前アリエルがかばってくれたの、すごく嬉しかったわ。本当はあなたが来た日からずっと仲良くしたいと思っていたんだもの」
そう言ったジネットの顔に、アリエルは一瞬、かつて幼い日のジネットを見た気がした。
母に連れられて初めてルセル男爵家に向かった日、満面の笑みで飛び出てきたジネットの笑顔は希望と期待できらきらと輝いていた。
一瞬、仲良くなれそう……とアリエルは思ったのだが、母を見上げた瞬間ヒュッと息を呑んだ。
ルセル男爵の実子であるジネットを見つめる母の瞳には、紛れもない憎悪が浮かんでいたのだ。
そんな怖い顔の母を見るのは初めてで、続けざまにこう囁かれて、アリエルはこくこくとうなずくことしかできなかった。
『いい? 何があってもあの子に負けちゃダメよ。あなたの方がずっと美しいのだから』
それからアリエルはずっとこう思ってきた。
(お母様が言っている。この子は私の敵……!)
と。
けれど今になって思えば――あの時母と一緒になってアリエルまでジネットを敵視する理由は、どこにもなかったのだ。
(私がもう少し強かったら……もしかして、お姉様と本当の姉妹になれていたのかしら)
幼いジネットとアリエルが、手を繋いで笑い合う日々。
それは今となってはもう二度とやってこない毎日だ。それでもアリエルは、そんな日を少しだけ想像せずにはいられなかった。
「……お姉様、ごめんなさい。私……」
(今さら、なんて言ったらいいのか。何を言っても都合のいい言い訳にしか聞こえないわ……)
何か言いたかったが、言葉がつかえてうまく出てこない。
そんなアリエルの手を、ジネットのあたたかい手がぎゅっと握りしめた。
「アリエル。私ね、今からでも遅くないと思っているの。だから手紙を書いて! いっぱいいっぱい、毎日でも書いて! 私も書くから!」
ジネットは一見するといつも通り能天気な、底抜けに明るい笑顔に見えた。けれど緑がかった灰色の瞳は、優しい光を宿してアリエルを見つめている。
大丈夫。言わなくてもわかっているわ、と。
「……毎日って、そんなにたくさん手紙が来たら気持ち悪いわ」
「ああっ! そ、そうよね! ごめんなさい! じゃあ二日に一回……ううん、三日に一回でどうかしら!?」
必死なジネットに、アリエルがぼそりと言う。
「一週間に一回よ、お姉様。それくらいなら……私も書いてあげる」
「本当!?」
パッと顔を輝かせるジネットから、アリエルは逃げるようにして視線をはずした。
「で、でもやっぱりめんどくさくなるかも。あんまり期待しないで」
「いいの! 私、ずっとずっと待っているから! それにもしかしたら、やっぱり毎日書きたくなることだってあるかもしれないじゃない⁉」
「ならないわよ」
言ってまたアリエルは笑った。
(本当に、お姉様ったら全然めげないのね)
そこへ、馬車の御者から控えめに声がかかる。
「そろそろ出発しないと、向こうに着く頃には真っ暗になってしまいますよ」
「……わかりました。行きます」
ついにこの時が来たのだ。
アリエルはジネットから手を放すと、自ら馬車に乗り込んでいった。
「アリエル……」
そこにやってきたのは母レイラだ。
母はなぜか泣きそうな、困ったような表情をしていた。もしかしたら今になって、罪悪感を抱いているのかもしれない。
けれどそれももう、アリエルにとってはどうでもいいこと。
母がどんなに罪悪感を抱こうとも、アリエルが売られた事実が変わることはないのだから。
「お母様、お姉様、行ってきます」
それだけ言うとアリエルは馬車の扉を閉め、御者に向かって「出して」と声をかけた。
ゆっくり馬車が動き始めると、外から「アリエル!」という母の叫び声が聞こえた。
けれどアリエルはそれには答えず、ただひとり、静かに馬車の中に座っていた。