第71話 “身売り”
「まあ! 何を言い出すのアリエル!?」
またもや義母とジネットの両方が驚きに目を剥いた。
「何度も言ったでしょう! あの男が欲しいのは若い女。ジネットを送り込まないと、あなたが嫁ぐことになるのよ!? そんなのは嫌でしょう!」
ものすごい剣幕の義母に、アリエルがひるみながらも反論する。
「そうだけど……でもそれを言ったらお姉様だって当然嫌じゃない! 今回のことだって、お姉様はちゃんとやめるように忠告していたのに」
「あなた……一体どっちの味方なの!?」
「それはもちろんお母様よ! でも今回のことはやっぱりやりすぎだと思うの!」
目の前で義母とアリエルが言い争う光景を、ジネットは信じられない気持ちで見ていた。
(アリエルが私をかばってくれている……?)
今までどんなに仲良くしようと手を差し伸べても、決して手を握ってこなかったアリエル。
クラウスのことが大好きで、好きすぎて、そのせいでずっとジネットを敵視していたアリエル。
そんなアリエルが今、実母であるレイラと喧嘩しながら守ろうとしてくれている。
(この間から様子がおかしいと思っていたのだけれど、私が家を出てからアリエルに一体何があったの……!?)
最近は全然社交界に出てこないという話しか聞いていなかったが、以前の彼女とは別人のようだ。
「そんなことを言って! ジネットが花嫁にならなきゃ他に誰が花嫁になると言うの!?」
「それは……!!!」
どんどん加熱する言い争いに、ジネットは恐る恐る口を挟んだ。
「あのう、おふたりとも。なんだか収拾がつかなくなってきたので、とりあえず一度家に戻って相談しませんか? 暗くなってきましたし……」
「ハァ!? 何を言ってるのよ! あなたはこのまま侯爵の屋敷に向かうのよ!」
唾を飛ばして怒鳴るレイラにジネットが困ったように言う。
「そうは言いましても、現状だと既に二対一でお義母様の方が分が悪い気がいたします」
その指摘に、レイラがヒクッと頬を引きつらせる。
「な……あなたたちが結託したからと言って何なの!? 外にいるごろつきに頼んで、あなたの服を無理矢理着替えさせることだってできるのよ!」
レイラはあくまでも強行する気らしい。ジネットはポケットの防犯ボールにそっと手を伸ばしながら困ったように眉を下げた。
「それに……私の予想が正しければ、そろそろクラウス様がいらっしゃる頃合いだと思います」
――そう言った直後だった。
まるでタイミングを見計らったかのように外が騒がしくなったかと思うと、ボゴッ! とかドスンッ! とか、何やら物騒な音とともに廃屋のドアが吹っ飛んだのだ。
「ジネット!!!」
舞い上がる砂埃とともに現れたのは、必死の形相のクラウス。
彼は髪を振り乱しながら血走った目ですばやく室内を見回し、ジネットを見つけた瞬間パッ! と顔を輝かせた。
かと思うと、次の瞬間にはジネットを強く強く抱きしめていた。
「ああ、君が無事で本当によかった……! 攫われたと聞いた時は心臓が止まるかと!」
「す、すみません! 本当は心配をかける前に穏便に帰りたかったのですが……!」
ぎゅうぎゅうに抱きしめられて身動きが取れないままジネットは言った。そんなクラウスに続いて、「お嬢様!」と叫ぶサラの声も聞こえる。
――実はジネットは、最初から何かあった時、クラウスが来てくれることをわかった上でアリエルに会いに行っていたのだ。
というのもジネットとサラがルセル家を出て宿屋を回っていた件で、クラウスは相当肝を冷やしたらしい。そのためあの時、彼はこんなことを言い出していたのだ。
『ジネット。君のそばに三六五日二四時間護衛をつけよう』
と。
けれど「さすがにそれは恥ずかしいです!」と交渉した結果、クラウスと離れている時だけ、少し離れたところから護衛が見守る……という形に落ち着いたのだった。
だから今回もきっとジネットが攫われた瞬間、クラウスの元に伝書鳩が飛んでいたはずだ。……護衛は常に手乗りの鳩を連れていると言っていた。
「ああ、頬が汚れてしまっているね。こんな埃っぽいところに連れてこられて……他に怪我はないかい? 痛いところは? 足を捻ったりしていない?」
クラウスはまるで義母たちなどいないかのようにジネットだけを見つめ、心配そうにあちこちを調べようとする。
「だだ、大丈夫です! 私は元気です! だからあの、そんなところをまじまじと見られると大変恥ずかしいのですが……!」
些細な傷でも見逃すまいとするかのように、クラウスは真剣そのものの目でジネットの手をにらんでいた。
「……少しだが、手の横に擦り傷がある……!」
かと思うと、ゴッと音が聞こえそうな勢いでレイラたちの方を向く。
ジネットを見ていた時とは打って変わって、その瞳には人を射殺さんばかりの鋭く冷たい光が宿っていた。
「……さて。レイラ夫人。いや、レイラ」
ゆっくりと義母の名を呼ぶクラウスの声は、その場にいる者全員を凍らせる絶対零度の響きを持っていた。瞳に宿る光は空の王者である鷲よりなお鋭く、漏れ出る吐息は冬将軍のそれよりなお冷たい。
名前を呼ばれたレイラがビクッと震えた。自分のやったことがクラウスの逆鱗に触れたと気づいたのだ。
コツ、コツ、と足音を立てながら、クラウスがゆっくりとレイラに近づいていく。
「僕は今まで散々我慢して来ました。張本人であるジネットがあなたを許しているのなら、僕が怒る筋合いはないと」
その声は落ち着いていたが、同時に隠し切れない静かな怒りもにじんでいた。
ピリピリと、クラウスから漏れ出る怒りがそばにいる者たちの肌を焼く。それはジネットすら、恐怖で思わず隣にいたサラと抱き合ってしまったほどだった。
「ですが今回、あなたは完全に超えてはいけない一線を越えてしまった」
そう言った瞬間、クラウスはギロリと、今まで見たことがないほど険しい目でレイラをにらんだ。
冥界の王ですら、これほど恐ろしくはないだろう。レイラが顔を真っ青にして震え上がる。
「な、な、なんのこと……わたくしはただジネットに用があって」
「言い訳は無用」
冷たく言い放たれたひと言は、氷の槍のように鋭かった。
「残念ながら既に調べはついている。あなたはバラデュール侯爵に多額の借金をし、そのかたにジネットを売る気だったと。違いますか?」
(クラウス様、既にその情報を掴んでいらっしゃったのですね!)
チューリップ市場が崩壊した際、ジネットはクラウスにこぼしたことがある。チューリップの投機に手を出していた義母が気がかりだと。
彼はその時ただ相槌を打ってくれていたのだが、実は裏できっちりと調べ上げていたらしい。
「ですが残念ながら、バラデュール侯爵にはもう連絡済みですよ。『ジネットはこの件には関係ない。万が一手を出したらただではおきませんよ』と」
(もうバラデュール侯爵にも直接お手紙を!? し、仕事が速い。さすがクラウス様……!)
ジネットよりひと足もふた足も速く、クラウスは既に手を打ってくれていたのだ。その手際の良さに感心していると、彼はさらに続けた。
「本当ならあなたを、今すぐ二度と太陽の下を歩けないようにしてさしあげたいところだが……」
恐ろしい単語にその場にいた女性たちが震え上がる。ジネットとサラは互いに強く抱き合った。
(ひ、ひぇぇ!? 二度と太陽の下を歩けないって、一体何をするおつもりですか!?)
そばでは、恐ろしさのあまり無表情になったアリエルもひとりカタカタと震えている。
「僕はまだ、犯罪者にはなりたくないのでね。――だが、これだけは言っておく」
ずいと一歩踏み出したクラウスは、紫色の瞳を燃え上がらせながら言った。
「……二度とジネットに近寄るな。次に彼女の前に現れたらその時は容赦しない」
「ひぃっ……!!!」
ぺたりと、レイラがその場に崩れ落ちた。――腰が抜けたのだ。
クラウスはそばにいるアリエルをちらりと見て、すぐに何事もなかったかのように視線をはずす。
それからジネットに向き直ると、いつもの優しい笑みを浮かべた。
「すまない。怖がらせてしまったね。さぁ、僕たちももう戻ろう。君に何もなくて本当によかった」
「お嬢様大丈夫ですか! 私の手に捕まっててくださいね!」
クラウスとサラのふたりに守られるようにして、ジネットは廃屋を後にした。
出る直前にちらりと振り返ると、義母は茫然自失となってその場にへたりこんでいた。そばではアリエルが静かにうつむいている。
(私はクラウス様が助けてくださいましたが……ではアリエルは? お母様たちはこの後どうするつもりなのでしょう? だってこのままじゃ、アリエルが身売りをするほか道は……)
“身売り”
思い浮かべたその単語に、ジネットは一瞬目の前が真っ赤になった気がした。
かつてクラウスがそう揶揄されて、ジネットがどれほど悔しかったのかを思い出したのだ。
黙っていられなくて、ジネットは思わず叫んでいた。
「アリエル! あの、あなたが犠牲になることはないわ! 私と一緒に方法を考えましょう!?」
その声にアリエルは驚いたようにジネットを見た。
かと思うと、彼女がふっ……と笑う。
それは寂しさと嬉しさがないまぜになった、儚い笑み。
「……ありがとうお姉様。でも大丈夫。私も、けじめをつける時が来たのよ」
そう言ったアリエルはどきりとするほど美しくて、そして悲しかった。
(アリエルは……身売りする覚悟を決めている……?)
ジネットは焦った。
「ダメよ! お義母様の借金はお義母様が返すべきです! あなたが犠牲になることはないわ! そうだ、私、あなたにならお金を貸すから、そのお金で――!」
けれどそう言っても、アリエルは首を振るばかり。
ジネットがさらに口を開きかけたところで、クラウスがジネットを止めるようにやんわりと肩を抱いた。
「ジネット。今はいったん戻るんだ。そして何か方法がないかふたりで探そう」
その言葉に、ジネットはもう一度アリエルたちを見た。
義母は呆然としていてきっと会話にならないだろうし、アリエルも既に諦めきっていて、こちらも建設的な話はできなさそうな気がする。
「……わかりました。一度戻りましょう」
外ではレイラに雇われた暴漢たちが、ジネットの護衛たちに縛り上げられて連れて行かれるところだった。それを横目に見ながらジネットは馬車に乗り込む。
ガタゴトと動き始めた馬車の中で、不満を顔ににじませたサラが憤った。
「それにしてもクラウス様。アリエル様はともかく、レイラ様まであれくらいですませちゃってよかったのですか!? あの女を娼館に売ってお金を工面すれば全部解決じゃないですか! 全部自業自得なんですから!」
「サラ!?」
とんでもないことを言い出したサラを、ジネットはぎょっとした目で見た。忘れていたが、サラはこう見えて色々と過激派なのだ。
鼻息荒く憤るサラに、クラウスがゆっくりとうなずく。
「もちろん、あれくらいで済ませる気はないよ。ただ、彼女には僕がお仕置きするより、もっと適任者がいるからね」
「適任者……ですか?」
その人物が思い浮かばなくて、ジネットはサラとふたりそろって首をかしげた。