第68話 い、今のは……!?
そう言った菫色の瞳は、歓喜と興奮できらきらと光り輝いていた。
(つ、ついにその時が……!)
釣られて、ジネットの頬が赤くなる。
以前、ジネットが婚約破棄してもらおうとギヴァルシュ伯爵家に行った時、クラウスは父が戻ったら結婚しようと言っていた。
その時はまだ口約束だったものの、父の帰還を前に現実になろうとしているのだ。
「は、はいっ……!」
(考えていたら、急に恥ずかしくなってきました……!)
今までギヴァルシュ伯爵家に住みながらもどこかお客様気分が残っていたが、結婚式を挙げた後は、ジネットは名実ともにギヴァルシュ伯爵夫人になるのだ。
使用人たちからの呼び名は「ジネット様」から「奥様」に変わるし、今は別にしている寝室だって、当然クラウスとともにすることになる。
(し、寝室が一緒……! それはそうよね、だってそれがギヴァルシュ伯爵夫人になるということだものね……!?)
考えれば考えるほど、顔が赤くなっていく。
「大丈夫かい? 顔が真っ赤だよ」
心配して覗き込んでくるクラウスの顔すら、やたら輝いて見える気がした。
「い、いえっ! あの!」
「……もしかして結婚式と聞いて照れているのかい? 可愛いね」
ふっとクラウスが微笑んだかと思うと、彼の細長い指がジネットの頬に伸びてきた。
「ひゃっ!!!」
触れられた瞬間、びくんと大げさなほど反応してしまう。それも恥ずかしさに拍車をかけて、ジネットは顔を真っ赤にしてうつむいた。
「嬉しいな。君がそんな風に頬を赤らめてくれるようになったなんて……。ようやく僕の想いが伝わり始めたのかな」
「は、はい! あの、もう寝巻きでうろうろしたりしません!」
ジネットが言うと、クラウスは「ははっ!」と声を上げて笑った。
「そうだね、それがいい」
それから彼がきらりと瞳を光らせる。
「でないと、次こそ僕は我慢ができなくなってしまうかもしれないからね。――今みたいに」
そう言った次の瞬間、ジネットはぐいと引き寄せられていた。
すぐにふわりと甘い匂いがしたかと思うと、唇にやわらかいものが触れた。
――クラウスの唇だ。
「!?」
驚きすぎて、声も出ない。
それは小鳥がついばむような軽い口づけで、唇はすぐに離れた。
かと思うと、クラウスのおでこがジネットのおでこにこつんとくっつけられる。
「……ごめん。我慢できなかった」
懺悔するように言ったクラウスの声はどきりとするほど色っぽく、漏らされた吐息に耳がぞくぞくとした。
(い、今のはキス……ですよね……!?)
理解すると同時に、ジネットの顔が真っ赤に染まる。そのまま言葉もなくふるふる震えていると、気づいたクラウスがくすりと笑う。
「……だめだよジネット。そんな可愛い顔をされたら、今すぐ僕の部屋に連れて帰りたくなってしまうから」
「く、く、く、クラウス様!? もしかしてお酒、入ってらっしゃいますか!?」
思わず声が上擦ってしまう。そんなジネットを見て、またクラウスがくすくすと笑った。
「酔ってないよ。状況には少し、浮かれているかもしれないけれどね。……だって父君が無事に帰ってくる上に、ようやく君と結婚できるんだ。こんなに嬉しいことはない」
それは、彼が心の底から喜んでいるのがわかる弾んだ声だった。
(クラウス様……そんなに喜んでいてくださったのですね……)
改めてそのことを感じて、ジネットの心がきゅっとあたたかくなる。
(後にも先にも、私と一緒になってこんなに喜んでくれる人はクラウス様以外いない気がする……)
ジネットはぎゅっと手を握った。それから震える声で言う。
「あの、私も……! その……夫となる方がクラウス様で、本当に嬉しい……です」
正直なところ、なぜクラウスが自分を選んでくれたのか、その理由はいまだよく理解できない。
けれどクラウスが自分に向けてくれる気持ちだけは間違いなく本物だと、ここ最近のジネットは感じていた。
言い切ったジネットがもじもじしていると、クラウスが面食らった様子で絶句していた。それから手で顔を覆い、天を仰ぐ。
「そ、んなことを言って……! ジネット、君は僕を煽りたいのか……!?」
「えっ。煽る!? ごめんなさい! 何か失礼なことを!?」
「違う、そうじゃない」
かと思うと、おろおろするジネットをクラウスが乱暴とも言える勢いでぎゅっと抱き寄せた。
「クラウス様!?」
あわてるジネットを逃すまいとするように、彼の両腕に力が籠められる。
「……じっとしていて。こうでもしないと、本当に今すぐ君を押し倒してしまいそうになるから。しばらく僕が落ち着くまで、こうさせてくれ……」
「はっ、はいぃ!!!」
切羽詰まった声に、服越しに感じる熱い体温。
何よりドクドクと聞こえるクラウスの心音がジネットの心音と混ざり合って、まるでひとつの生き物になってしまったかのようだった。
(恥ずかしい……のに、ちょっと、嬉しい……)
クラウスの腕の中は硬く、それでいて心地よかった。
このまま身をゆだねてしまいたい、とジネットが目を閉じようとしたその時だった。
「仲睦まじいところ悪いが、判子をくれないか」
不機嫌な声はキュリアクリスのものだ。
ジネットはあわてて離れようとしたが、クラウスの腕はがっちりとジネットに巻きついて離れなかった。ハァ、と彼がため息をつく。
「キュリ……無粋という言葉を知っているかい? 空気を読んでほしいのだが」
「それは残念だったな。だが今は仕事中だ。そうだろう商会長さん?」
仕事中、という単語をわざと強調するキュリアクリスに、ジネットもコクコクとうなずく。
「そ、そうですクラウス様! お仕事を、しなければ!」
それを聞いたクラウスはようやくしぶしぶといった様子で手を放した。
「……そうだね、どのみちこれ以上は我慢の限界だし、仕事に戻ろうか……」
(あ、危なかった! あのままでは私が正気を失うところでした!)
仕事中にもかかわらず、ついクラウスに身をゆだねてしまいそうになったのだ。
商人としてあるまじき痴態に、ジネットが自分の頬をぺちぺち叩く。
「だが君とキュリアクリスをふたりきりにさせるわけには行かない。キュリの毒牙が……」
心配するクラウスの声に、ある人物らが扉から顔を覗かせた。
「大丈夫ですよクラウス様。私がおります!」
「僭越ながら、私も」
それはサラとギデオンのふたりだった。
「と言いますか、実はさっきから私たちふたり、ずっと扉の前にいたんですけれども」
「お嬢様とクラウス様のお邪魔をしてはいけないと思い、私が引き止めていました!」
グッ! と親指を立て、鼻息荒く語るのはもちろんサラだ。
「えええ⁉ そうだったんですか⁉ じゃ、じゃあまさか、全部見て……!?」
「大丈夫です! 気づいてすぐに扉を閉めたので、会話しか聞いていません!」
「か、会話……!」
それも十分恥ずかしい。
ジネットの顔がみるみるうちに、またにんじんのように赤くなった。
「大丈夫ですよ。ほんの少ししか聞こえておりませんから」
フォローになっているのかなっていないのか、そんな励ましを受けながら、ジネットはとぼとぼと仕事へと戻って行ったのだった。