第61話 お姉様は……(アリエル視点)
「おーほっほっほ!」
ルセル家に響く母レイラの笑い声を、アリエルはつまらなさそうな顔で聞いていた。こんなに上機嫌な母の姿は久しぶりだ
「まさかあんなちっぽけな球根が、三十万クランダーで売れるなんて! アリエル、あなたでかしたわね!」
母は誰相手かは知らないが、アリエルの育てた球根をいい値段で売って来たらしい。確かに花の球根に三十万クランダーは異例だが、アリエルは素直に喜ぶ気になれなかった。
「そう、よかったわね」
興味なさそうに返すと、気づいたレイラが近づいてくる。それから彼女はアリエルの肩に両手を載せると、猫なで声で囁いた。
「ねぇアリエル。この調子でジネットに“お願い”して、もう少し球根をわけてもらいなさいな。育てる前の球根なら、さらにいい値で売れるんじゃなくて? どうせあの子、いっぱい貯めこんでいるんだから」
その言葉に、アリエルはムッとして母の手を振り払った。
育てる前の球根ならもっと高値で売れるということは、アリエルが頑張って育て、家のために差し出した球根は無価値も同然だと言われたような気がしたのだ。
「……嫌。欲しいなら、お母様が自分で言ってきたら?」
「あらあら、何をすねているの? 私たち、前は何でもジネットに調達してもらってたじゃない」
真っ赤に塗られた長い爪が、つ……とアリエルの頬を伝う。母の視線から逃げるように、アリエルは目を逸らした。
確かに、まだジネットが家にいた頃はなんでもジネットに“お願い”していた。
どんなに高価なものでも用意してもらって当然だったし、その見返りとして何かを渡したこともなければ、お礼を言ったこともない。
なのになぜ、今は嫌なのか。
(別に、私が育てた球根を馬鹿にされたからだけじゃないわ……)
――この数カ月で、アリエルの生活は大きく変わっていた。
以前までのアリエルは、裕福な令嬢として常に新しいドレスに身を包み、高価な宝石をぶら下げ、きらびやかな舞踏会に出かけていた。
男性たちからはちやほやされ、でも本命のクラウスだけは振り向いてくれず、その腹いせに冴えないジネットの悪口を流し、こき使う。
それが、今は。
ジネットが去ると同時に、クラウスは去った。そして社交界も。
家の中には常にイライラしている母と、おどおどびくびくしながらこちらの機嫌を伺ってくる少数の使用人たちだけ。
舞踏会に出かけられないアリエルにできることと言えば、毎日毎日刺繍をしたり、庭の花に水をあげたりすることだけ。
その生活は静かで――そして考える時間がたっぷりとあった。
◆
「……おや、今日はずいぶんと静かなのですね? お嬢様」
数カ月前のその日、アリエルがジネットにもらった球根に水やりをしていると、いつの間にやってきたのか家令のギルバートがそばに立っていた。
アリエルがちらりと見上げると、片眼鏡をつけた水色の瞳が珍しく穏やかに微笑んでいる。
「ついこの間まで暇だ、退屈だ、遊びに行きたいと、散々騒いでおりましたのに、一体どんな心境の変化があったのですかな?」
「……別に。ただ気づいてしまっただけよ」
「ほう? 気づいたとは、何にでございますか?」
その質問にアリエルは答えなかった。
無言の間に、じょうろから注がれる水がちょろちょろと生まれたばかりの芽に注がれていく。
やがてギルバートが返事を諦め、帰ろうとしたその時だった。
「ねえ、お義父様は無事だったんでしょう? ならお義父様が帰ってきたら、前みたいに家がにぎやかになると思う?」
ぽつりともらされた言葉にギルバートが目を丸くする。
「……それはジネットお嬢様がいた頃のように、ということでしょうか」
ギルバートの質問に、アリエルはしばらく考えたのちにこくりとうなずいた。
「そういう話であれば、恐らく旦那様が戻って来たところでこの家は前のようには戻らないでしょうね。旦那様はにぎやかな方ですが元々不在がちですし、何よりこの家で太陽のように皆を明るく照らしていたのはジネットお嬢様ですから」
以前までのアリエルだったら、ギルバートの言葉を鼻で笑っていただろう。「どこが太陽なの? 騒がしくて品がないだけじゃない」と言っていたに違いない。
けれど今のアリエルはそうしなかった。
母とふたりきりとも言える状況でずっと過ごしているうちに、嫌でも気づいてしまったのだ。
ジネットがいなくなったルセル家が、異様なほど寂れてしまったことに。
(お姉様はどんなに無茶を言っても、いつもへらへら笑っていたのよね。お義父様だって声がすごく大きかったから、ふたり揃うと本当にうるさいぐらいで……)
母レイラは、いつもそんな義父と義姉のことを粗野だと言って見下していた。義父の前では猫をかぶっていたが、いなくなるとこれ見よがしに、
「これだから成金って嫌ね。品がないわ」
とアリエルに囁いてくるのだ。
(確かに、お姉様はとってもうるさかったし、とっても目障りだったし、商売のことを話し始めると止まらなくなって、とっても気持ち悪かった。でも……いつどんな時でも明るく笑顔で、そしてわくわくするものをいっぱい見せてくれたのよ……)
可愛い髪飾りが欲しい! と言えば、どこから手に入れて来たのか、宝石で蝶々の形をかたどった美しい髪飾りを持ってきてくれた。
最先端のドレスが欲しい! と言えば、新進気鋭の仕立屋に縫ってもらった特注のドレスを持ってきてくれた。
おいしいものが食べたい! と言えば、異国の珍しい料理レシピを仕入れて、料理人に作ってもらった。
ジネットはアリエルと母のどんな無茶な願いにもにこにこと笑顔を崩さず、まるで魔法を使ったように叶えてくれたのだ。
当時はそんな毎日が当たり前すぎてなんとも思っていなかったが、アリエルは失って初めて気づいてしまった。
自分がどれだけジネットに甘え、そして依存していたのかを――。
◆
母レイラには言えないわがままでも、ジネットには言えた。
ジネットからもらった手に入れた素敵なものを身に着けて、舞踏会に出かける。
そして憂さ晴らしのため、自分が攻撃されないために、ジネットの悪口を令嬢たちに流す。
すべての場面にジネットが登場し、そしてそのどれもが、ジネットの存在なしにはできなかったことだった。
(私……お姉様を役立ててあげていると思っていたけれど、全然違った。私たちが全部お姉様に頼りきりだったのよ)
その証拠に、アリエルたちから離れたジネットは今社交界で生き生きと輝いているのだと聞く。
一方の母は、新しい使用人にあれが違う、これが違う、と毎日怒鳴り散らかしたまま。
「お姉様は……」
蚊の囁くような小さな声で、ぽつりと囁く。
「うるさかったし品がなかったし、すぐ暴走する。……でもお姉様がいた頃はにぎやかで、楽しかった気がするわ……」
次はどんなものを持ってきてくれるのか、どんなものでアリエルたちを驚かせてくれるのか、アリエルはいつも楽しみにしていたのだ。
そしてどんなにこき下ろしてもめげずにニコニコとするジネットの姿に、どんなに気持ちを助けられていたのかも、ようやく気づいたのだった。
ギルバートが微笑む。
「そうですね。この家も豪商の男爵家だから栄えていた、というだけではないと思うのです。旦那様、そしてジネットお嬢様がこの家で明るくふるまっていたからこそ、あのように人が大勢いたのだと思いますよ」
家令のそんな言葉を聞きながら、アリエルは無言で花に水をやり続けていたのだった。
「――私たちがなんでもお姉様に調達してもらっていたのは前の話でしょう。それにお母様。私、もうお姉様を頼るような生活はしたくないわ」
アリエルは言いながら、頬を撫でる母の手をやんわりとどかした。途端にレイラが動揺する。
「な……何を言っているのよ! 第一、それくらい別にいいでしょう!? あの子は私たちの家族なんだから、少しくらい援助してくれたって」
「家族って……お母様。私たちがお姉様に何をしたのか忘れてしまったの?」
ハァ、とアリエルがため息をつくと、レイラの頬が紅潮した。
「それは……!」
「お姉様は今立派にやっているわ。チューリップのことだって、お姉様があの人気を作ったんでしょう? なのに我が家はいつまで経っても変わらないまま。……お母様、私たちもそろそろ前を向くべきなんじゃないかしら」
言いながら、アリエルはじっと母を見つめた。
自分と同じ金髪と青い瞳。社交界でも評判だった母の美貌はまだまだ衰えることなく健在なものの、その青い瞳はどろりと濁っている。それは最後に見た、姉ジネットの澄んだ瞳とは大違い。
アリエルから正論をぶつけられて、レイラは目を泳がせた。かと思うと、ワッ! と大きな声を上げて自分の顔を覆う。
「アリエル……ひどいわ! あなたのお父様が亡くなった後、私が女手ひとつでどんなに苦労してあなたを育てたのか忘れてしまったのね! あなたのためにすべてを諦めてあの男に嫁いだのに、今になってあなたも私をいじめるなんて!」
と、この世の終わりのような金切り声を上げる。
その形相に、アリエルはぎょっとした。
「ちょ、ちょっと、お母様……!」
(忘れてたわ! お母様は都合が悪くなるとわめき始める人だった……!)
あまりの叫び声に、あちこちから使用人たちが何事かと顔を覗かせている。
「ひどい、ひどいわアリエル! 母のために球根すらもらってきてくれないなんて、なんて薄情なの! 私のことなんかどうでもいいのね!?」
金切り声はますます大きくなっていく一方だ。
(お母様はこうなると、願いが聞き入れられるまでテコでも動かないのよね……)
ハァとため息をつきながら、アリエルは観念した。
「わかったわ。お姉様に球根をもらってくるから、そんな風に言わないで……!」
そんなアリエルの言葉を聞いて母レイラは、ようやくいつもの笑みを取り戻してくれたのだった。