第58話 引き抜かれたのですか!?
「……えっ!? 仕入れ先を引き抜かれたのですか!?」
ルセル商会の会長室で、ジネットはすっとんきょうな声を上げた。目の前には難しい顔をしたキュリアクリスが立っている。
彼は王族ながらも仕事面では非常に真面目で、今まで一度も遅刻をしたことがない。けれど今日、わざわざ朝一番にやってきたかと思うとジネットにそんなことを報告したのだ。
「ああ。どこからか嗅ぎつかれたらしい。あのハイエナどもめ」
「確かにここ最近、奪い合いが過熱しているとは聞いていましたが……ついにキュリアクリス様のところでもそんなことが起こるなんて」
この国でチューリップ熱が加速するにつれ、球根の値段はどんどんと上がっていった。
労働者階級では、家族全員を一年養うのに必要なお金は三百万クランダー。それに対して貴族向けの〈スペルヴァンホーデン〉は、当初の発売価格が十万クランダー。そして労働者階級向けのチューリップは五千クランダーで販売されていた。
しかし売り切れに次ぐ売り切れで、初めに〈スペルヴァンホーデン〉が、次いで普通のチューリップがことごとく転売されるようになってしまったのだ。
十万クランダーが二倍の二十万クランダーになり、さらにそれでも足りず、三十万、五十万と跳ね上がり続ける。普通のチューリップも五千クランダーだったものが五万クランダーになり、それでも欲しがる人は後をたたず、気づけば転売されたチューリップは、〈スペルヴァンホーデン〉の初期販売価格をも超えて二十万クランダーで販売されるようになっていたのだ。
そうなると当然、いくら皇族に恩があるとは言え、仕入れ先でのチューリップ農家から不満が出てくる。『同じチューリップなのに、他の農家はもっと高値で買い取ってもらっている!』と。
もちろんジネットたちも、少しずつ仕入れ値を上げて対策していたつもりだったのだが……。
「皇族を裏切ろうだなんて輩も大したものだが、引き抜きに来ている方も相当だ。なんとひとつの球根に、百万クランダー出してくれるそうだぞ」
「ひゃく……!? 仕入れ値にですか!? 十倍の価格じゃないですか!!!」
くらりとめまいを感じて、ジネットはこめかみを押さえた。
花の球根ひとつに十万クランダーも相当な価格だと思って販売を始めていたのに、まさか仕入れ値の時点で百万クランダーだなんて。
「逆に言えば、その価格でも利益が出ると踏んでるからこその値段だ。幸い引き抜かれた数はそれほど多くないが、そのために全体の仕入れ値をグンと上げるはめになった」
価格を聞けば、当初の仕入れ値の二十倍以上にあたる三十万クランダーとのことだった。
「でも、それでも安く痛手が少なく済んだ方ですね……。普通であれば、より高く買い上げてくれるところに鞍替えされても文句は言えませんから……」
キュリアクリスの場合は彼が“皇族だから”という強力な手札を持っているが、そうでない商会は純粋に金貨での殴り合いだと聞く。
同じ球根を三十万クランダーで買ってくれるところと、三倍以上の百万クランダーで買ってくれるところがあるなら、当然後者を選ぶ。そうやって商人たちは仕入れ先を奪い、また奪われるを繰り返していた。
エドモンドやゴーチエと言った馴染みの商人たちも、連日めまぐるしく交わされる情報交換の場で同じことをぼやいていたのを思い出す。
「それにしてもたったこれだけの期間に、こんなに価格が変動してしまうなんて……」
「投資家……いや、転売屋に目をつけられてから一気に流れが変わった気がするな。奴ら、はなから花を育てる気はないらしい。球根をひたすら転がして、どれだけ儲けられるかしか考えていない」
「それが彼らのやり方ですからね……。問題は、その価格でも売れてしまうことです。とりあえず、まずは在庫を確認しないと!」
「そうだな。まずはそれが優先だ」
ジネットとキュリアクリスは急いで顧客名簿を引っ張り出した。
「予約したお客様にお渡しできないとなると大問題です。価格の上昇も、きちんと訪問してご説明しなければ」
一番初めに知らせるのはやはりパブロ公爵夫妻だ。
(それからサロンの皆様や、他の皆様のところも行かないと……!)
めまぐるしく頭の中で算段をつけていると、不意にキュリアクリスが一歩ずいと近づいてきた。
「ところでジネット嬢――いや、ジネット?」
「はい?」
「珍しく今日、クラウスがいないようだが」
「ああ」
言って、ジネットは名簿から顔を上げた。
「クラウス様なら、今日は視察で夜までおでかけしていますよ」
彼は今日、領主としてどうしてもはずない視察のため、泣く泣くジネットの元を離れていた。
朝方馬車まで見送りに行った時、クラウスはなかなかジネットとつないだ手を離そうとせず、最後までずっと哀れっぽい声で、
『お願いだジネット。約束してくれないか。絶対に絶対に絶対にキュリアクリスとふたりきりにはならないと。嫌な予感しかしないんだ』
と言っていたのだ。
「へぇ」
それを聞いたキュリアクリスが、一気に楽しそうな顔になる。それから再度ずいと距離を詰めて来たかと思うと、ジネットの前に立ちふさがった。
「キュリ様……?」
彼は本当に背が高く、そして体格がよかった。
その体格から生み出される威圧感に、ジネットはたじ……となった。反射的に後ずさったものの、すぐ後ろには大きな本棚が立ちふさがり、それ以上逃げられない。
そんなジネットを見て、ネズミを追い詰めた猫のようにキュリアクリスがにぃと笑った。
「クラウスはああ言っていたが、どうやら私とうっかりふたりきりになってしまったようだね?」
言いながら、切れ長の黒い目が楽しそうに細められる。それは野生の虎を思わせる迫力と色気が混在する、ひどく蠱惑的な笑みだった。
(わあ……このお方、本当に雰囲気があって絵になりますね! サラが見たら鼻血を出しそう)
なんて怖じ気づきながらも考えていると、ゴツゴツとした大きな手が伸びてきて、ジネットの腰をぐいっと抱き寄せてくる。
「ってあの! そういうのはだめですよ!」
「なぜ? 君がクラウスの婚約者だから? だが前に言っただろう。私は絶対に諦めないし、きっと君を皇妃として連れ帰ってみせると。恨むのなら、私たちをふたりきりにしてしまったクラウスを恨むことだね」
言いながら、キュリアクリスがぐぐぐと顔を近づけてこようとする。その顔を力いっぱい押しのけながら、ジネットは叫んだ。
「いえ、あの、そもそも私たち、ふたりきりにはなっていませんので!」
直後、キュリアクリスの動きがぴたりと止まり、部屋の中に沈黙が流れた。
「……ふたりきりじゃない? 一体何を……ってうわ!」
きょとんとしたキュリアクリスは何かを言いかけた直後、自分の真横にいるギデオンに気づいて声を上げた。
「ギ、ギデオン殿、いつの間に」
距離の近さにもたじろぐことなく、父の片腕であり、家令ギルバートの双子の兄弟であるギデオンがくいっと片眼鏡を押し上げる。それから朗らかにこう言ったのだった。
「わたくしめは最初から部屋におりましたよ」