第57話 熱狂の始まり
その日、ルセル商会の額縁は飛ぶように売れた。
一番安い額縁はもちろん、高級な額縁もかなりの売れ行きを見せた。
一番高級な額縁は貴族たちがこぞって買っていったのもあるが、一般の人々が少し背伸びをして、値が張る額縁を買っていくことも多かった。
「この豪華な額縁を庭の前に置いたらきっととても美しいわ! そこだけ風景を切り取ったみたいになるのよ。素敵でしょう? 皆に見せるのが楽しみね」
「特別綺麗に咲いた一輪をこの額縁で飾ろう。きっと妻が喜ぶ」
家でどう飾るのか、めいめいに想像しながら笑顔で品物を持って行く姿に、ジネットはにっこりと微笑んだ。商品には生活必需品から贅沢品まで色々あるが、ジネットは自分が携わった商品がお客さんに受け入れられ、笑顔になるのを見るのが好きだった。
「これは予言できる。きっとすぐに模倣品が出回るぞ」
「きっとそうだと思います。真似するのは簡単ですから」
いたずらっぽく笑うキュリアクリスに、ジネットもあっけらかんと笑う。そこに、クラウスがそっと寄り添ってくる。
「想定内だよ。それにどんなに模倣されたところで、ジネットならすぐにまた時代を引っ張る新しいものを考えつく」
見れば、クラウスはこの上なく優しい瞳でジネットを見守っていた。
「そ、そんな大げさなものは……! 今回だって、元々はキュリ様の提案ですから」
気恥ずかしくなったジネットが謙遜すると、クラウスがくすりと笑う。
「そうかい? だが元はキュリの持ってきたチューリップでも、実際にしかけ、成功まで導いたのは君だ。それに額縁は君の案だろう? もっと自信を持つといい。今回気遣いの心から生まれた商品はジネット、君だからこそ生み出せたものだ」
言いながらクラウスが、流れるような動作でジネットの髪をひと房取ると口づけた。
「!?」
不意打ちに、ジネットの顔が真っ赤になる。
「僕はね、そんな君が心から好きなんだ。サラのために開発したはたきといい、マセウス商会のみんなを魅了してやまないエプロンといい、君の商品はそのほとんどが“誰かのために”考えられている。それはそのまま、君の人柄を表していると思わないかい?」
「あああ、あ、ありがとうございます……っ! ま、まさかこんなに褒めていただけるとは思っていなくって、その、心臓が……!」
ジネットが顔を赤くして硬直していると、そばで苦虫を噛みつぶしたような表情のキュリアクリスが言った。
「あいかわらずだなクラウス。私もまさかこんな目の前で堂々と口説かれるとは思わなかったよ。必死だな?」
「そりゃ必死だとも」
クラウスは涼しい顔だ。
「君は知らないかもしれないが、ジネットの鈍さは尋常じゃない。今まで僕がどれだけアプローチしてきたと思う? それでも驚くことに、彼女はまったく気づいていなかったからね。もうなりふり構っている場合じゃないんだ」
なんて言いながらも、ジネットの髪から手を離そうとはしない。
「ああああ、あの! でも! 最近はなんとなく伝わって来たと言いますか、わかってきたような気がしますと言いますか……!」
ぷるぷる震えながらジネットは必死に弁解したが、クラウスは満足するどころか、さらに眉根を寄せただけだった。
「まだだよジネット、まだまだだ。僕が君をどれだけ大切に思っているか、愛しく思っているか、君は全然わかっていない。だってわかっていたら、お風呂上りに寝巻き一枚で僕の前に現れるはずがないだろう!? 僕のことをまったく男として意識していないじゃないか!」
クッとうめきながらクラウスが言った瞬間、なぜかキュリアクリスが爆笑し始めた。
「く……はははっ! なんだそれは!? ジネット嬢は家だとそんな感じなのか!?」
「えっ。えっ。な、何かいけないことでしたか!?」
(ルセル家は皆そのように過ごしていたから、てっきりそれが普通なのかと……!!!)
義母もアリエルも、いつも風呂上がりは寝巻き一枚で部屋の中をうろうろしている。だからジネットもなんの疑問もなくそう過ごしていただけなのだが……どうやらそれはおかしいことらしい。羞恥で顔が赤くなる。
「ごめんなさい! 私、次から気を付けます!」
ジネットがぺこぺこと頭を下げると、クラウスがやんわりとそれを止めた。
「いや、ギヴァルシュ伯爵邸は君の家だ。自分の家なら寝巻一枚で歩き回ることは別にいけないことではない。……が、なんというか、あまりにも無防備すぎてだな……」
「なあクラウス。念のため確認するが、ジネット嬢がお前を誘惑してきている可能性は?」
「残念ながらゼロだな」
「だと思ったよ! ははは! そうか、こういうことか。すまんクラウス。なんとなくお前の苦労がわかった気がする」
言いながらキュリアクリスは腹を抱えて笑っている。
(ゆ、ゆ、誘惑だなんて……! もしかして男性の前を寝巻きで歩くのは、誘惑にあたるのですか!?)
ジネットは恋愛や情事のことについてとことん無知だった。
父は商売一筋だったし、本来娘にそういうことを教える役割を持つ義母レイラが、ジネットに正しい知識を教えるはずもなく。
(ああ恥ずかしい! 今度、恥を忍んでサラに聞いてみなくては! ……ん? でも、今まで寝巻きでクラウス様に遭遇した時、サラもそばにいたような……? なんだかニコニコしているなとは思ったけれど、怒られたことはなかったような……?)
なんてことを思い出していると、何かに気づいたクラウスが顔を上げた。
「おや。ジネット、クリスティーヌ夫人が来ているよ」
「えっ!」
あわてて顔を上げると、お店の入り口には確かにクリスティーヌ夫人が立っていた。優雅な笑みを浮かべながら、興味深そうに並ぶ額縁を見つめている。その隣にはパブロ公爵もいた。
「大変! 私、ご案内してきます!」
そう言うとジネットはすぐさま駆け出したのだった。
そうしてキュリアクリスがこの国に持ち込んできたチューリップは、階級問わず、ものすごい勢いで広まっていった。王都のみならず、貴族たちによって辺境の地や田舎にも持ち込まれたチューリップはそこでも爆発的な人気を獲得したのだ。
ルセル商会のチューリップが売り切れた後も皆どこから仕入れたのか、日に日に国にチューリップが増えていく。
それは“熱狂”と呼ぶにふさわしく、広まりすぎとも言えるくらいの勢いだった。
そしてその影響は少しずつ少しずつ皆の歯車を狂わせてゆき、気づけば狂いはジネットたちの足元にまで、ひたと忍び寄っていたのだ。