第42話 パキラ語は発音が難しいのです
ルセル家の門前で、ジネットとクラウス、それからキュリアクリスの三人は話をしていた。
そこへ、玄関の扉が開かれて義母の声が響き渡る。
「どうしてあなたたちがここにいるのよ!!!」
「あっ、お義母様」
のんきな声をあげたのはジネットだ。
「ご無沙汰しております。先日の虫食い被害は大丈夫でしたか? 実はアリエルが前に欲しいと言っていたオーロンド絹布を持ってきていて――」
「そんなことはどうでもいいのよ!!!」
走って来た義母に真正面から怒鳴られ、耳がキィーンとなったのはジネットだけではなかったらしい。クラウスが苦笑いしているし、キュリアクリスに至っては露骨に嫌な顔をしている。
『まったく、なんてうるさい女性なんだ。これが義母だなんて本当に同情するね』
なめらかなパキラ語で話しかけられ、ジネットは少し困ったように微笑んだ。
『お義母様も、普段は淑女でいらっしゃるのだけれど……さすがに今日はびっくりしてしまわれのでしょうか』
その言葉に、今度はクラウスがふふっと笑った。
『そうだね。今は、とてもびっくりしていると思うよ。何せ、よりによって競売会の大本命が、僕たちと繋がっているとは思わなかっただろうから』
その言葉に、今度はキュリアクリスがニッと笑う。
――義母が権利書を売ったキュリアクリス・バスビリス・エリュシオンは、パキラ皇国の第一皇子だった。
義母の言っていた通り、お忍びでこの国に留学してきている最中であり、その肩書に一切の嘘はない。
だが――。
『そもそも私が、誰の影響でこの国にやってきたのかを十分に調べなかったのが、彼女の敗因だね』
言って、キュリアクリスはクラウスを見た。そこに義母が噛みつく。
「ちょっと! わたくしにわからない言葉で会話をするのはやめてくださる!?」
「失礼、マダム。友人と話していたらつい、母国語が出てしまいました」
言いながら、キュリアクリスが礼儀正しく義母の手に口づけた。それからじっと、熱っぽく義母を見つめる。
気品があり、かつ野性味も共在する彼の色気に、義母が一瞬ぽっと顔を赤らめた。それを見て、後ろから追いついてきたアリエルが「お母様! ずるいわ!」と叫んでいる。
「ど、どういうことなの……友人って!」
「ああ、お話しておりませんでしたっけ。実は、クラウスと私は留学先のヤフルスカで仲良くなりましてね。商売に興味を持ったのも、何を隠そう彼の影響なのですよ」
「なんっ……!? じゃ、じゃあ、ずっと裏で繋がっていたということ!? 卑怯じゃない! それを隠して私に近づくなんて!」
「卑怯? 何故です?」
激高する義母の前に出たのは、クラウスだ。
「気に入らない者は、あなたがすべて自分の手でシャットアウトしたでしょう? 彼はあなたに認められ、正当な手続きを踏んで取引が行われたのです。卑怯なことは、何もありませんよ。手に入れた後、彼が権利書を誰に売ろうが、それはあなたには関係ないことなのですから」
「そっ! そっ! そんなの詭弁よ! 今すぐ取引を中止するわ! お金を返すから、今すぐ権利書を返しなさい!」
「それは――無理ですね」
わざとらしく肩をすくめながら、キュリアクリスが言う。
「なぜなら私は、既に友人の婚約者、ジネット嬢に権利書を売ってしまったのですから」
言いながらちら、と彼が見た先には、権利書を大事そうに握っているジネットがいた。
カッ! と義母の目がつり上がる。
義母は恐ろしい形相で、つかつかとジネットに歩み寄った。
「ジネット! 今すぐその権利書を渡しなさい!」
「わっわっわっ! いくらお義母様の頼み事とは言え、それだけは無理です!」
それからグワッ! と伸びて来た義母の手を――ジネットはサッと自分でかわした。
間に立ちふさがったクラウスが、冷たい声で義母に声をかける。
「落ち着いてくださいルセル夫人。まわりがみんな、見ていますよ」
馬車の御者に、ルセル家の門番。それにアリエルにギルバートにと、いつのまにか馬車の周りにはたくさんの人が集まっていた。
「くっ! この! そんなことはどうでもいいわ! どきなさい! あの権利書を取り返さないと……!」
「それに……」
クラウスの瞳が、そこですぅっと細くなった。
それから周りに聞こえないよう、何かをぼそぼそと義母の耳に囁く。その途端、義母の顔がサーッと青ざめた。
「ど、どうしてそれを……!?」
「言ったでしょう。僕はルセル卿と仲良しなんです。卿が以前僕に教えてくれたんですよ。こんなこと、他の人たちには知られたくないでしょう? あなたのプライドに傷がつく、恥ずかしいことですからね」
「ぐ、ぅ……!」
「言いふらされたくなければ、これ以上は追及してこないことです。適正価格よりはずっと安いとは言え、それでも馬鹿にならない金額を払っているんだ。それでアリエルとふたり、慎ましやかに暮らすことをお勧めしますよ」
クラウスの言葉に、レイラが諦めたようにその場にがくりと崩れ落ちた。
ギルバートが、やれやれと言った調子でため息をつく。
「奥様。だから言ったでしょう? 本当によろしいのですか? と」
だが義母は、それに答える元気もないらしい。
「クラウス様、一体何をお義母様に……?」
尋ねるジネットに、クラウスは声をひそめて言った。
「なに。君の義母君と、父君の出会いについてちょっと、ね」
「出会い……?」
(何か劇的なことがあったのでしょうか……?)
「それより、そろそろ日が暮れてくるし、家に帰ろうか?」
「はい! ……あ、少しだけ待ってください」
言いながら、ジネットが馬車の中からごそごそと何かを取り出す。そして包みを抱えたまま、アリエルの元へと走った。
「アリエル、これをどうぞ。欲しがっていたでしょう?」
それは正規品のオーロンド絹布だ。
「えっ!? お姉様、本当に用意してくれたの?」
「? もちろん。だって、欲しいって言っていたでしょう? それに……よく考えたら、偽布を掴まされたあなたも大変だったと思うの。お義母様が商会を売ろうとするくらいだもの。どうか、気付くのが遅くなった私を許してね。代わりにこんなことぐらいしかできないけれど、これは私からのプレゼントよ」
「お姉様……」
布を受け取りながら、アリエルは言葉をなくしているようだった。
「それでは、私はそろそろ行こうと思います! お義母様、アリエル、どうぞお元気で!」
ジネットは手を振ると、意気揚々とクラウスたちの待つ馬車に乗り込んだ。
「あ、あの! お姉様!」
アリエルに呼ばれて、ジネットが馬車から顔を出す。
「どうしたの? アリエル」
「あの……その……っ」
アリエルは何か必死に言葉を探しているようだった。
それからしばらく唇を噛み、蚊の鳴くような声でぽそりと言う。
「……あの、オーロンド絹布、ありがとう……」
ジネットはにっこりと微笑んだ。
「どういたしまして」