第34話 それは、とても恥ずかしいけれど
「へくちゅんっ!」
書斎で帳簿を書いていたジネットが、あわてて手で口を押さえる。
(危ない危ない……! 危うく帳簿に、鼻水をつけてしまうところでした)
念のため汚れていないか確かめていると、隣の机で書き物をしていたはずのクラウスがショールを持ってすっ飛んできた。
「大丈夫かい? ここのところ急に寒くなったからね。風邪を引かないよう、部屋を暖かくしないと。少し早いが暖炉に薪を入れてもらおう」
言うなり、クラウスが使用人たちにてきぱきと指示を出し始める。ジネットはあわてた。
「いっいえ! 大丈夫です。きっと誰かが噂話をしているんだと思います。……それより、あの、クラウス様?」
「なんだい?」
名前を呼んだだけで、これでもかというくらいキラキラ輝く甘い笑みを返されて、ジネットの声は小さくなった。
「あのう……ずっとお聞きしたかったのですが……。なぜ私の書斎に、クラウス様の仕事用机が運び込まれているのでしょう……?」
ここはジネットの書斎で、クラウスの書斎は当然別にある。
それにジネットの記憶によれば、彼は以前、『僕の書斎に君の机を入れてもよかったんだけれど……そうすると、ずっと君を眺めてしまって仕事にならなさそうだから、泣く泣く諦めたんだ』と言っていたはずだが……。
ジネットの問いに、クラウスが涼しい顔で答えた。
「最近、君はマセソン商会に出かけていることも多いだろう? そのことに不満はないけれど、せめて家の中にいる間は一緒にいる時間を増やしたくてね」
「そうなのですね……? 私が邪魔にならなければよいのですが……」
「邪魔だなんてとんでもない! 一生懸命頑張っている君の姿は、それだけで日々の癒しだよ」
にこにこと言うクラウスに、ジネットは目をぱちぱちとまばたかせた。
(癒し……? 私が癒しだなんて、もしやクラウス様には、私のことが犬や猫のように見えているのでは……!?)
そんなジネットに、クラウスがふっと笑みを浮かべる。
「……それより、君の方はどうだい? 何か、心境の変化はあったかい?」
「心境の変化……と言いますと?」
ジネットがきょとんとしていると、クラウスが一歩近づいて来た。
それから、長くて美しい指が、つ……とジネットの顎にかけられる。絵画に出てくる天使のように美しい顔が近づいてきて、ジネットは顔が赤くなった。
「く、クラウス様? どうされましたか?」
そのまま至近距離でジネットを見つめながら、クラウスが目を細める。
「うーん。一応僕のことは男だと認識してくれているようだけれど……」
「? クラウス様はもちろん、男性でいらっしゃいますよ?」
「……僕が欲しいのはね、そこからもう少し先に行ったところにあるんだ」
「もう少し先……?」
(というと……?)
ジネットが考えていると、不意にクラウスの顔が近くなった。
それから、頬にちゅっとやわらかな唇が触れる。――頬に、キスされたのだ。
「くくくくくクラウス様!? 私たちはまだ結婚前です!」
顔を真っ赤にしたジネットがのけぞると、クラウスはくすくすと笑った。
「頬に口づけぐらいなら、婚約者でも大丈夫だよ。……君に全然変化がなくて寂しいとも思ったが、この反応を見れたのなら今日は満足だ。続きはまた今度にしようか」
「続き……があるのですね!?」
(そ、そうよね。結婚したら普通、これよりもっとすごいことをするものね……!?)
想像して、ジネットの顔がぼんっと赤くなる。
そんなジネットを見ながら、クラウスがくすくすと笑っていた。
「か、からかうのはほどほどにしてください……!」
「やめてと言うのではなく、ほどほどにと言うあたりが実に君らしいよ」
「そうでしょうか……」
答えながら、ジネットは考えていた。
(きっと結婚したら、頬にキスどころではない、あんなことやこんなこともするのよね……!?)
それは想像しただけで、顔から火が出そうなほど恥ずかしい。
……けれど。
(相手がクラウス様なのであれば……それは恥ずかしいけれど、全然、嫌ではない、気がするの……)
他の男性相手では想像もできない、いや、想像すらしたくない行為だが、クラウスとのそれは決して嫌ではないということに、ジネットは気づいていた――。