第32話 偽物の末路
冬を目前に控えた、冷たい風の吹く秋の終わり。
書斎でジネットと並び立ったクラウスが、マセウス商会の帳簿を見ながら感心したように言った。
「改めて見ると本当にすごいな……。まさかこの一か月だけで、マセウス商会一年分の売り上げを叩き出すとは」
「私も驚いています。やはり貴族階級の皆様は、お金持ちでいらっしゃいますね……!」
ジネットは今まで、一般庶民向けの品しか取り扱ってこなかった。それは社交界に興味がなかったからなのだが、まさか取引相手を貴族に変えただけでここまで変わるとは。
「それもこれも、すべてクリスティーヌ様のおかげですね! 今度、お礼の品をお贈りしなければ!」
(贈るなら、やはりご夫妻で使えるおそろいのものがいいかしら?)
ジネットが一生懸命贈り物を考えていると、クラウスがふっと笑った。
それから愛おしそうに、ふわりとジネットの肩を抱き寄せ囁く。
「もちろんクリスティーヌ夫人の力は大きいが、それも元はと言えばすべて君の努力だよ、ジネット。クリスティーヌ夫人の心を動かしたのは君だし、パブロ公爵の窮地を救ったのも君だ」
(わわわ! みっ、耳に吐息が! 婚約者とは言え距離が近いですクラウス様! これが以前おっしゃっていた全力とかいう……!?)
急に抱き寄せられ、心臓をドキドキさせながらジネットは答えた。
「そ、それを言うなら、そもそもクラウス様がパブロ公爵に気に入られて邸宅に呼ばれなければ、機会を得ることもありませんでした! だから、クラウス様のおかげでもあります……!」
「なら、今回の大成功は、私たちふたりの功績ということだね」
(私とクラウス様のふたり……? つまり、初めての共同作業ということですか!?)
聞くところによると、巷では最近、結婚式に大きなケーキを登場させて新郎新婦で切り分ける、“初めての共同作業”なるものが流行っているらしい。
ジネットはひとりドキドキしながらも、頭の片隅でそのことを思い出していた。
(そういえば、我が国のウェディングケーキと言えばツリー型の飾り菓子だけれど、西の大国では生クリームのケーキを何段も重ねた華やかなものがあるとも聞いたわ。その技術を輸入してマセウス商会で売り出したら、きっと皆様喜ぶのでは……!? やるなら、まずはどなたかを勉強に送り出して、それから……)
「……ネット。ジネット、聞いているかい?」
夢中になって考えていると、自分を呼ぶ声が聞こえた。
はっとして見ると、クラウスがくすくすと笑っている。
「はっ! す、すみません、私ったら! つい考え事を!」
「ふふ、君の事だからきっと、新しい商売のことでも考えていたんじゃないかな?」
(ば、ばれている……!)
ジネットが顔を赤くしていると、コンコンと部屋の扉がノックされた。
それからサラが顔をのぞかせたのだが……その顔は、何やら険しい。
「どうしましたか? サラ」
「それが、お嬢様……。レイラ様とアリエル様が見えているようなのですが、いかがいたしますか? 追い返しましょうか?」
「まあ、お義母様たちが?」
さらりと「追い返す」という言葉を使っているあたり、サラは相変わらず義母たちのことが嫌いのようだ。
(それにしてもわざわざギヴァルシュ伯爵家までいらっしゃるなんて、一体どうしたのかしら?)
ふたりがやってくる理由が思い浮かばなくて、ジネットは首をかしげた。
見れば、クラウスは警戒した表情になっている。
「ジネット、会いたくないのなら無理はしなくていい。サラの言う通り、追い払ってもらおう」
「いえ、私は全然大丈夫です! ……でも、どうされたのでしょう?」
(ふたりが私に会いに来る理由……もしかしてオーロンド絹布を手配して欲しいのでしょうか?)
などと思いながら客間に向かうと、部屋の中には怒り心頭の義母と、しょぼくれた顔のアリエルが座っていた。
「お義母様もアリエルも、一体どうされたのですか?」
「どうしたじゃないのよ! 一体これは何なの!?」
言いながら義母が机に乱暴に投げたのは、オーロンド絹布――の偽物だった。
その布は、見るも無残なほどあちこちに穴が開いて、ボロボロのぐずぐずになっている。
とてもじゃないが、ドレスどころかスカーフですら仕立てるのは無理だろう。
そんな偽布を見てジネットがあっと声を上げる。
「そういえば、偽オーロンド絹布が世に出回ってからもう二週間経ったのでしたね!」
「驚いた。君の言う通りとは言え、偽物だと、わずか二週間でこうなってしまうのか……」
ボロボロの偽布を手に取って観察しながら、クラウスが驚いたように言った。
ジネットがうなずく。
「はい。実はオーロンド絹布と偽物は、元はほとんど同じものなんです。ただ大きな違いがひとつだけあって……それは防虫加工がされているか、されていないかなんです」
「防虫加工……ですって?」
何それ? と眉をひそめる義母に、ジネットは丁寧に説明した。
「オーロンド絹布の元となっている絹布は、特別なオーロンド蚕と呼ばれる蚕だけが紡ぎだせるもの。ただ、この糸が実は他の虫たちの大好物で……。そのため正規のオーロンド絹布は、三日三晩使って、特別な防虫加工を施す必要があるんです。……サラ、正規品を持ってきてくれる?」
ジネットが声をかけると、待っていましたとばかりにサラが本物のオーロンド絹布を差し出した。
ジネットは受け取りながら、今度はそれを義母たちの前に差し出す。
「ほら、見比べてみてください。正規品の方が、表面にもう少しだけ艶があるでしょう?」
差し出された布地を、義母とアリエルが食い入るように見つめた。
それからふたりが小声でぽつりとつぶやく。
「……わ、わからないわ」
「言われてみれば、少しだけツヤツヤしているような……気がしなくもないような」
「この艶が、防虫加工の証なんですよ」
この加工は時間がかかる上に繊細な職人芸も必要とするため、施すか施さないかで金額が大きく変わる。
そしてその加工を怠ったのが、偽オーロンド絹布と言うわけだった。
「なるほど……だから君は『放っておいても大丈夫』と言ったんだね。偽物たちの方は、すぐに虫食い被害に遭うから」
クラウスの言葉にジネットはうなずいた。
それから、はたと気付いたように義母たちを見る。
「そういえば、お義母様たちはどこでこれを手に入れたのでしょう? 社交界の方々には偽物にお気を付けくださいと、大体知らせたはずなのですが……」
その言葉に、義母はぎくりと肩をこわばらせた。
「ど、どこでだっていいじゃない! それよりこれ、元に戻せないの!?」
「と、言われましても……」
虫に食べられてしまった布地を元に戻すなんて、魔法でも使えない限り無理だ。
それに、本物ならばまだやる気も出るが、ジネットは父と同様、偽物にはまったくときめかない性質だった。
「ぐぬぬ……! もういいわよ! あなたって相変わらず、本当に役立たずなんだから!」
「お役に立てなくて心苦しいですが、正規品をご入用の時はぜひ声をかけてください!」
義母の捨て台詞にもまったく動揺することなく、ジネットはにこりと微笑み返した。
「アリエル! もう行くわよ!」
怒り心頭でずんずんと歩き出した義母に、アリエルがあわてて立ち上がる。そしてそのまま後ろをついていくかと思いきや……アリエルは義母の目を盗んで、そっとジネットに耳打ちした。
「ね、ねえ、お姉様。正規品を融通してくれるって本当?」
「ええ、もちろん。ただ、マセウス商会の商品だから、今回はきちんとお代をいただくことになりますが……」
「それをどうにかまけてくれない? お願い! それのせいで、今全然お金がないの!」
言いながら、切羽詰まった様子のアリエルがジネットの手にすがりついてくる。ジネットは目を丸くした。
「え? お金がないってどういうことですか? それに、偽布のせいって……」
だがジネットが深く尋ねる前に、義母が怒鳴った。
「アリエル! 何をしているの! さっさと行くわよ!」
「はっはい! お母様!」
あわてて走って行くアリエルの後姿を見ながら、ジネットがぱちぱちと目をまばたかせる。
(お金がない……? 一体お義母様たちに、何が起きたのでしょう……?)