第17話 まだ結婚前です!
「な……なんてことを言うの!?」
数秒後、衝撃から立ち直ったらしい義母が、顔を真っ赤にして叫んだ。それとは反対に、クラウスが涼しい顔で言う。
「お返事が遅くなってしまって申し訳ありません。あまりにありえなさすぎて、忘れていたようで……」
(く、クラウス様!? 謝るところは、きっとそこじゃありません!)
ジネットがハラハラしながら見ていると、案の定怒り狂った義母が唾を飛ばしながら叫んだ。
「わ、忘れていたですって!?」
さらにアリエルも加勢する。
「ありえなさすぎてって、どういうことですかクラウス様! 以前私のことを可愛いと褒めてくださっていたのに、あれは嘘だったのですか!?」
小型犬のようにきゃんきゃんと騒ぎ立てるふたりに向かって、クラウスはふっと冷めた笑顔を浮かべた。
今までジネットが見たことのない、氷のように冷たい笑みだ。
「何か勘違いされているようですが……よく思い出してください、アリエル嬢。僕は『今日の髪飾りは素敵ですね』とか『美しい色合いのドレスですね』など持ち物を褒めることはあっても、あなた自身を褒めたことは一度もないはずです。だってそういう風に気を付けていたのですから」
「う、うそ!? そんなはずは……! ……あれ、ちょっとまって……? やだ、まさか本当に……?」
過去の発言を思い出しているのだろう。みるみるうちにアリエルの顔が青ざめていく。
「それに、僕は知っていますよ。社交界でジネットの悪い噂をまき散らしていたのはほかでもないアリエル、あなただ。僕はそんな性格の悪い方とは、死んでも結婚したくありません」
クラウスの言葉に、アリエルがヒュッと息を吸い込んだ。その顔は、今や怒りを通り越して土気色になっている。
そんなアリエルを押しのけて、今度は顔を真っ赤にしすぎていつ倒れてもおかしくなさそうが義母が身を乗り出した。
「クラウス様! 婚約者の情でしょうけれど、今のジネットをかばい立てしても何の得もありませんよ! その子はすでに文無し家無しなのですから!」
「婚約者の情?」
呟いて、クラウスは不思議そうな顔をした。
それから、「ああ」とひとりで納得がいったようにうなずく。
「なぜそんなことを言い出したのかずっと不思議に思っていたのですが……そうか、あなた方はルセル卿から何も聞かされていないのですね?」
「主人がどうしたって言うのです……!?」
ルセル卿の名を出されて、義母がややひるむ。
そこへゆっくりと、それでいて畳みかけるようにクラウスが言った。
「僕とジネットが、たかだか婚約者の情などで繋がっていると思われては困りますね。過去、『代わりにアリエルはどうか』とルセル卿に打診された際だって、僕ははっきりお断りしたというのに」
その言葉に、義母やアリエルだけではなくジネットも目を丸くしてクラウスを見つめた。
「……その反応を見るに、やっぱり誰も聞いていないようですね? アリエル嬢を傷つけないためでしょうか。とにかくこの婚約は、ジネットが相手でなければ絶対に成り立たないのです。だって――」
そこで、クラウスがジネットの方を向く。
その顔には、見ているこちらが赤面しそうになるほど甘い、とろけるような笑みが浮かんでいた。
すぐさま長い手が伸びて来たかと思うと、ジネットはクラウスに優しく引き寄せられた。それから、頭に柔らかな唇が触れる。――キスされたのだ。
「僕は、ほかならぬジネットだから婚約したのです。よくお金が理由だなんて言われていますが、とんでもない。むしろ彼女と結婚するためなら、爵位のひとつやふたつ、喜んで差し出しますよ」
突然の告白に、ジネットの顔がみるみる赤くなった。
(な、何が起きているのでしょう!? なんだか思っていた十倍は好かれている気がするわ……!?)
目の前では義母とアリエルが、怒りと憎しみを混ぜてぎゅっと固めたような、見たことのない形相で震えていた。
それには構わずクラウスがにこりと微笑む。
「そういうことなので、婚約解消なんてありえないと思ってください。それより、お部屋にお邪魔させていただいても? ジネットの荷物を我が家に運ぼうと思いまして。……ああ、ジネットは今我が家に住んでいるんですよ。もちろん、それにも異論はないですよね?」
――だって、あなた方は彼女を追い出そうとしたのだから。
口には出さなかったものの、クラウスの目ははっきりとそう言っていた。
「っ……! 好きにしなさい! ただし我が家のものに触れることは許しませんからね!」
歯ぎしりした義母が、悔しそうに背を向ける。それを見て焦ったのはアリエルだ。
「お、お母様! 待って、話が違うわ! お母様言ったじゃない、クラウス様を私の婚約者にしてくれるって……! お母様、待って!」
足早に遠ざかる義母を、アリエルが必死に追いかける。それを見ながらクラウスは明るい声で言った。
「さ、ジネットのノートを取りにいこう。案内してくれるかい?」
「は、はいっ! ノートは父も重宝していた関係で、全部父の書斎に置いてあります。案内しますね」
ジネットの言葉に、サラや伯爵家から連れて来た使用人たちが一斉に後ろをついてくる。そのままぞろぞろと引きつれて歩きながら、ジネットはちらりとクラウスを見た。
「……あの、クラウス様と私の婚約にそんな経緯があったなんて、全然知りませんでした。お父様は『クラウス君との婚約が決まった』以外、何もおっしゃっていなかったので……」
それを聞いたクラウスが苦笑する。
「ルセル卿はそういうことを詳しく説明するタイプではないし、僕もわざわざ伝えるほどではないと思っていたからね。けれど、やはり言葉で伝えるのはとても大事なんだというのを、今回よく思い知ったよ。これからは遠慮せず、どんどん伝えていこうと思う」
言うなり、クラウスの手が伸びてきてジネットはまたぎゅっと抱き寄せられた。
ふわっと香るのは、すみれの香水が混ざったクラウスの匂い。その甘い香りに、ジネットはくらくらした。
「く、く、クラウス様! まだ結婚前です!」
「ふふ、あまりに君が可愛くて、つい」
謝りながらも、クラウスはまったく手を放す気はないらしい。後ろでサラたちがくすくす笑っているのを見て、ジネットはまた顔を赤くした。
(それにしても一体なぜ、私のことをそこまで……?)
ジネットは社交界でけなされることはあっても、褒められることはまずない。
同世代の貴族男性たちはジネットを見ると大体鼻で笑ってきたし、たまに近寄ってくる人がいても大体お金目当て。
ジネット自身、自分は可愛くもなければ淑女からも程遠いと理解している。
なのになぜ、クラウスがこれほどまでに好いてくれるのか。
ジネットはしばらく考えた末に、カッと目を見開いた。
(……もしかしてクラウス様、商売がものすごくお好きなのかしら!? 確かに、社交界で商売話ができる令嬢は、私ぐらいかもしれないもの……!)
ようやく納得がいって、ジネットはひとりでうんうんとうなずいたのだった。