第118話 最後の日
「お兄様、お義姉様、昨夜のマリーの様子はいかがでした?」
謁見の間で、この上なくニコニコとして楽しそうにしているのは、クリスティーヌ夫人だった。
舞踏会から一夜明けたかと思ったら、夫人が意気揚々とギヴァルシュ伯爵家に飛び込んできたのだ。
『さぁ、今こそクラウス様をお救いする時ですわね!』
と目を輝かせながら。
その熱意に、ジネットの方が心を打たれていた。
(クリスティーヌ様は、なんてお優しい方なのかしら! 私たちのためにここまで尽力してくださるなんて……!)
そうして一緒に来た謁見の場では、国王夫妻もクリスティーヌ夫人ほどではないものの、その顔には朗らかな笑みが浮かんでいる。
「いやあ、まさかマリーがあんな風に踊れる日が来るなんて。もうどこに出しても恥ずかしくない、立派な王女だと思わないか?」
「本当に。小さなあの子が、あんな立派なレディになるなんて……」
王妃は、目に涙すら浮かんでいた。
「それもこれも、マリーの回復に尽力してくれたジャキヤ侍医のおかげだな」
「いやいや、わしはとくには何も。王女殿下本人のお力です」
ジャキヤ侍医が謙遜するのを、ジネットはニコニコしながら聞いていた。
――ジネットがメルティア王女に空手を仕込んでいたことを、国王夫妻はいまだ知らずにいる。
ジャキヤ侍医もメルティア王女も、うまく隠し通してくれたのだ。
当然その功績はすべてジャキヤ侍医ひとりのものとなるが、そこにこだわりはない。
ジネットはただ、クラウスが帰ってこればそれでよいのだから。
「マリー本人も、昨日のことが楽しかったようでな。また舞踏会に参加したいと言っていたぞ」
「まぁ、それはいいことですわお兄様。マリーにもどんどん外の世界を見せてやりませんと」
「そうだな……。本人も望んでいるのだし、これを機に舞踏会にももっと参加をさせてやろう。王妃もそれでいいだろう?」
話を振られて王妃は涙ぐみながらうなずいた。
「そうですわね。あの子も、もうわたくしの〝小さな可愛いマリー〟から卒業させてやらないと……それが親としての務めですものね」
どうやら今回の舞踏会をきっかけに、メルティア王女だけではなく王妃にも心の変化があったらしい。
先日までの過剰なまでに娘を心配する母親の顔は消え、代わりにあるのは、娘を信じ始めたどこか安堵した母親の顔だ。
(よかった。王妃陛下もとても嬉しそうな表情をしていらっしゃるわ)
ジネットがニコニコしながらその様子を見ていると、ここぞとばかりにクリスティーヌ夫人が口を開く。
「それからもうひとつ。……お兄様、お義姉様。そろそろ、ギヴァルシュ伯爵を家に帰してもよろしいのでは?」
その言葉に、国王夫妻がハッと息をのんだ。
二人は戸惑ったように顔を見合せ――そしてあきらめたように、静かにうなずいたのだった。
「……そうだな。ずっと伯爵を城に留め置いていたが、それもそろそろ終わりにする時が来たのかもしれない。立派なレディは、きっと好いた男を無理矢理拘束したりはしないだろう」
国王の言葉に、クリスティーヌ夫人がジネットを見た。
「やったわね!」
「はい!」
ふたりは手を合わせてぴょんぴょんと跳ねた。
かと思うと、クリスティーヌ夫人がしまった! という顔で、あわてて自分の口を押さえる。
「失礼。はしたないことをしてしまいましたわ、うふふ」
「いいのよ。思えば、あなたたちにも迷惑をかけてしまいましたね……」
そう優しく言うのは王妃だ。
「マリーが男性に……いえ、人に興味を持ったのは初めてだったから、わたくしたちも舞い上がってしまったのよ。ルセル男爵令嬢……だったかしら。わたくしたちのわがままに突き合わせてしまって本当にごめんなさい。心からお詫びします」
静かに頭を下げる王妃に、ジネットはあわてて手を振った。
「いえ! お気にせず! おかげで貴重な体験ができましたしたし!」
この言葉に嘘偽りはない。
ニコッ! と輝くような笑顔を浮かべてみせれば、王妃と国王はホッとしたように息をついている。
「そうと決まれば、すぐにでも婚約者を返そう。誰か伯爵をここに!」
国王の掛け声に、従僕があわてて走っていく。
かと思えば、従僕は息を切らせながら、同じく駆けてきたらしいクラウスを連れてきた。
「ジネット!」
「クラウス様!」
クラウスを見たジネットも駆け出した。
そのまま二人は磁石が引き合うように、互いの体をしっかりと抱きしめた。
「ジネット、帰ったらすぐに結婚しよう」
ぎゅう、と抱きしめられた耳元で、熱い吐息とともにクラウスが囁く。
「もう誰にも引き裂かれないよう、僕たちは夫婦になるんだ。家族だけ呼んでひっそりと、すばやく。お披露目の式はまた落ち着いてからでいい」
「私も同じことを考えていました」
同じくクラウスを抱きしめる手に力を込めながらジネットが言う。
――実際のところ、ジネットは知っている。
どれだけ法律上正式な夫婦になろうが、権力者が本気を出せばいともたやすく二人を引き離せることに。歴史上、引き裂かれた夫婦の例はいくつもあるのだから。
……でも。
(たとえ今後また何か起ころうとも、夫婦は夫婦だもの。結婚すれば私はギヴァルシュ伯爵夫人と呼ばれるし、クラウス様の妻として認められる)
ジネットは顔を上げ、クラウスの瞳をじっと見つめた。
菫色の瞳が、切なさをたたえて同じくジネットを見つめ返している。
「私は、クラウス様の妻になりたいです。これからはあなたの妻として、生きていきたいです」
心からの願いを口にすれば、クラウスが嬉しそうに笑った。
「ああ。今度こそ僕たちは、夫婦になろう」
◆
――その日の夜。
クラウスは王宮の自室で最後の夜を過ごしていた。
辺りはすでに闇に包まれ、ほとんどの者が寝静まっている。クラウスもだ。
既に王宮にあった荷物も片付け終わり、明日の朝ギヴァルシュ伯爵家に向かって経つのを待つのみ。
――そんな中で、部屋の鍵がカチャリと開いた。
クラウスの瞼が開けられる。
(……ティア様か)
クラウスの部屋の鍵を持っているのはクラウス本人と、メルティア王女のふたりだけ。
(もしかしたら来るかもとは思っていたが……期待を裏切らないな)
暗闇の中、クラウスはゆっくりと体を起こすと、ドアの前に立つ人物に向かって声をかけた。
「こんな深夜に、淑女が一体何の用です?」
「……わかっているでしょう」
クラウスはカーテンを開けた。
今日は満月。
大きな窓から差し込む月明かりに、ガウンを着たメルティア王女の姿が照らし出される。
「クラウス様、本当に帰るつもりなの? わたくしを置いて?」
「もちろん。ここに来た時から何度も言ったでしょう。帰りたいですと」
「では、これを前にしても?」
言いながら、王女がガウンの紐に手をかけた。
華奢な指がするすると紐をほどくと、滑り落ちたガウンの下から一糸まとわぬ裸体が現れる。
月明かりを受けて白く輝く柔肌に、華奢な体には似合わぬ豊かなふくらみ。くび
れた腰は折れそうなほど細く、それでいながらお尻は女性らしい丸みを帯びている。
少女の幼さを残しながら、女性としても色気も併せ持つ体。
クラウスは目を丸くした。
かすかに目を伏せながら、メルティア王女が言う。
「こう見えて、体には自信があるの。……クラウス様だったら、わたくしのことを好きにしていいわ」
アクアマリンのような瞳が、切なさをたたえてまっすぐクラウスを見ていた。
その言葉に釣られるように、クラウスがふらふらとメルティア王女に近づいて行く。
長い指が王女に向かって伸ばされ、震える王女が目をつぶった瞬間――。