第117話 なんだかんだ君は
「クラウス様」
息を切らせながらこちらに走ってきたのはクラウスだ。キュリアクリスが冗談めかして笑う。
「遅いぞクラウス。もう少しで私がジネットをパキラに連れていくところだったぞ?」
けれどそんなキュリアクリスに、クラウスは真剣な瞳で返した。
「いつもだったらそう言うところだが……今日の君は、ジネットを守ってくれたのだろう?」
キュリアクリスの笑顔が固まった。
「……何を。今この瞬間にも、全力で彼女を口説いていたところだが?」
「そうかな?」
走って乱れた髪を撫でつけながらクラウスが続ける。
「君も知っているだろう? キュリ。ジネットは自分自身のことには無頓着だが、その代わり僕の評判はものすごく気にするんだ。かつての『婚約破棄してくれ』事件のようにね」
クラウスが言っているのは、父が行方不明になった直後、ジネットがクラウスの評判を気にして彼に婚約破棄してもらおうとお願いしに行った時のことだ。
「社交界の無責任な人々は、どうせ僕と王女を見て『お似合いだ』とかと言ったのだろう。……というか僕ですら何度もそんな声が聞こえていたんだ。ジネットはもっと近くでそれを聞いていただろう。だとしたらきっとこう思ったはずだ。『自分は身を引いた方がいいのでは?』と。その考えは、ジネットを深く傷つけるものだ」
ジネットがハッと大きく目を見開いた。
それはまさに、ジネットが言葉に出さずともうっすらと考えていたことそのものだったからだ。
「そんなジネットを、キュリ、君のような男が放っておくはずがない」
「かっさらえるチャンスという意味で?」
なおも露悪的にふるまって見せるキュリアクリスに、クラウスは首を横に振った。
「いや、弱ったジネットを奪いにいくような真似はしないだろう。なんだかんだ君は、ジネットの幸せを願っているからね」
今度はキュリアクリスが黙り込む番だった。
そんなキュリアクリスを見て、クラウスがフッと笑う。
「一体何年君の友をやっていると思っているんだ? それくらい丸わかりだよ、キュリ。君が本気でジネットを奪うつもりなら、とっくに皇子としての権力を発揮させているだろう」
「それは、力づくで奪っても面白くないからで……」
「ジネットの笑顔を奪いたくなかったのだろう?」
その言葉は、まさに先ほどキュリアクリス自身がジネットに吐露していた言葉。
キュリアクリスがハッと息をのみ、驚きの目でクラウスを見ている。
「お前……まさかさっきのを聞いていたのか?」
「何の話だ? 僕は僕の予想を言ったまでだ。そして僕の予想によれば、落ち込んだジネットを本気で励ましてくれたのはほかでもないキュリ、君だろう」
キュリアクリスは何も言わなかった。
代わりに、お手上げだ、というようにフッと笑っただけ。
「……本当にお前というやつは。なんでそんなになんでもかんでもお見通しなんだ? 境遇で磨かれた読心術か?」
「単純なことだ」
クラウスも笑う。
「君たちは僕の愛する人だからね。愛する女性に、愛する友。――それだけで十分だろう?」
「それだけでそんなにわかるのはある意味怖いぞ。ホラーだ」
くつくつと、キュリアクリスが楽しそうに笑った。
「なんとでも言え」
「ああ、まったく。ジネットだけではなく私まで取り込もうとしてくるとは。恐れ入ったよ」
「偉人の言葉にあるだろう? 『敵が友となる時、敵を滅ぼしたと言えないかね?』と」
ニヤリとクラウスが笑う。キュリアクリスも笑った。
「なんて策士だ。恐れ入ったよ。だとすれば、ここは君の〝親愛なる友〟として、潔く立ち去らねばな?」
「そうしてくれると嬉しい」
キュリアクリスはまたフッと笑うと、黙って背中を向けた。言葉の代わりに、背中越しにひらひらと振られた手が、クラウスたちにさよならを言っている。
「さて」
キュリアクリスが立ち去ったのを見て、クラウスが申し訳なさそうな顔でジネットを見た。
「遅くなってすまない、ジネット。すぐ切り上げるつもりがこんな時間まで捕まってしまった」
「い、いえ」
菫色の瞳に見つめられて、ジネットの心臓がどきどきとする。
(な、なぜかしら。いつも以上に落ち着かないような……!)
「さっきも言ったが、君にはつらい思いをさせてしまった」
言いながら、クラウスがジネットの手をとってぎゅっと握り、口づけを落とす。
「だが誰がなんと言おうと、僕にはジネットしかいないし、ジネットしか欲しくないんだ。絶対、社交界の人々の話など鵜呑みにしないでくれるかい?」
「は、はい」
どこか怒っているような、圧の強い発言にジネットが目をぱちぱちとさせる。
「ティア様は確かに美しい方だが、それだけがすべてではない。第一、国王夫妻が近くにいる手前大声では言えないが……」
言いながら、クラウスはそっとジネットに顔を寄せてこそこそと囁いた。
「僕としては、ジネットの方がずっと美しいと思っている。きっとキュリアクリスも賛同すると思うんだ」
ジネットは大きく目を見開いた。
(キュリアクリス様が言っていたことと、同じことを言っている……)
気づいて、ふふっと笑みがこぼれた。
「はい……ありがとうございます、クラウス様」
「だから君は、何も心配しなくても――って、大丈夫かジネット!?」
「え?」
クラウスのあわてた声に、ジネットがきょとんとした。
同時に、自分の頬を涙が伝っていたことに気づいて驚く。
「あ、あれ」
「ジネット」
それをあわてて拭っていると、クラウスがぎゅっとジネットを抱きしめた。
「すまない。やっぱり君を傷つけてしまったね。もとはと言えば、僕が王宮に捕まってしまったばっかりに……!」
「違うんです、クラウス様」
ぎゅうぎゅうに抱きしめられながら、ジネットが言う。
「その……なんだか安心してしまったというか、嬉しくなってしまったと言いますか……。一瞬、その、ほんの一瞬なのですが、クラウス様はメルティア王女殿下のことを好きになってしまったのではないかと思って……」
「僕が? メルティア王女殿下を? なぜそう思うんだい?」
尋ねられて、ジネットはもじもじとした。
「あの……その…………………………クラウス様は、王女殿下をとても優しい瞳で見つめていらっしゃったから……」
言いながら、どんどん顔が赤くなってくる。
(い、今のは失敗だったかもしれません! とても子供っぽいことを言っているような!)
「ごめんなさい! 今のはやっぱり忘れて――」
全部言い切る前に、またぎゅうううっと強く抱きしめられた。
「ああ、神よ。これは夢か? 夢ではないよな? まさかあのジネットが、やきもちを焼いてくれているなんて」
「や、やきもち……なのですか……?」
(そういえば、キュリアクリス様にも嫉妬と言われたような)
今まで感じたことのない感情にジネットが目をぐるぐるさせていると、クラウスが嬉しそうに笑った。
「すまない、ジネット。君がこんなに苦しんでいたというのに……僕はそれを嬉しく思ってしまっている。君が涙を流すのが、こんなに嬉しいだなんて」
「私が泣くのが嬉しいのですか……!?」
(クラウス様がおかしくなってしまわれた!)
「違う。正確には、君が僕を思って涙を流すことが嬉しいんだ。このふたつには大きな違いがあるんだよ。でも……それを説明する前に、ひとつだけいいかい?」
「はい。なんでしょう?」
「今すぐ君に口づけたい」
その言葉にジネットはぎょっとした。
「こ、ここは王宮のバルコニーです! いつ誰が来るか!」
「わかっている。それでも今すぐしたいんだ。――ダメかい?」
耳元でささやかれて、ジネットはまた顔を真っ赤にした。
(本当に、いつ誰が来るのかわからないのですよ! 婚約者とは言えこんな外で口づけだなんて……!!!)
そう思うのに、気づけばジネットは顔を真っ赤にしたままこくんとうなずいていた。
――ゆっくりと近づいてくるクラウスの唇は、今日食べたどんなお菓子よりも甘かった。