第116話 〝嫉妬〟
〝嫉妬〟
キュリアクリスの口から出てきた単語に、ジネットは静かに目を見開いた。
「しっと……ですか……?」
「ああ、嫉妬だ」
ジネットはぱちぱちと目をまばたかせた。
もちろん、言葉の意味は知っている。
だというのに、それが自分の感情として頭の中に入ってこない。
キュリアクリスも、ジネットのそんな状態を読みとったのだろう。
「さっき、クラウスとメルティア王女がふたりで踊るのを見て、胸が苦しくなっただろう?」
「はい」
「その時、何を考えていた?」
「えっと……おふたりはとてもお似合いだなと」
「そうだな。そして次に胸が苦しくなった時は?」
「えっと……確か、クラウス様は、とても優しい瞳で王女殿下を見るのだな、と……」
そう言った瞬間、またずきりと胸が痛くなった。
「それだ、ジネット」
キュリアクリスが言う。
「クラウスが他の女を優しい目で見ている。それだけなのに、それだけのことが、とても苦しく感じる。それこそが〝嫉妬〟なんだ」
彼の言葉に、ジネットは大きく目を見開いた。
「これ、が……嫉妬……?」
信じられない、という顔をするジネットに、キュリアクリスが続ける。
「それに、『お似合いだな』と感じた時にもそうだ。自分よりもメルティアの方がクラウスにふさわしいのではないか。そう思ったからこそ胸が苦しくなったのだろう」
「そう、ですが……! それは客観的事実と言いますか、当然のことと言いますか……!」
「ごたくはいい、ジネット。嫉妬を見分ける方法は簡単だ。仲睦まじく踊る二人を、もっと見ていたいたいか? それとも、もう見たくないか?」
聞かれて、ジネットはぎゅっと唇を結んだ。
キュリアクリスの言葉で、気づいてしまったのだ。
――自分はこれ以上、クラウスとメルティア王女が踊る姿を見ていたくない、ということに。
「わ、たし……!」
動揺に、言葉がうまく続かない。
クラウスと舞踏会で踊るよう勧めたのはほかならぬジネットなのに、よりによってそれを自分自身が嫌がるだなんて。
「……!」
何かを言わなければと思うのに、金魚のように口をパクパクとするばかりで言葉が出てこない。
あえいでいると、そんなジネットの頭にぽんっと大きな手が乗せられた。
キュリアクリスだ。
「……大丈夫だ。どんなにお似合いに見えても、どんなに楽しそうに見えても、クラウスにはお前がいる。むしろ、お前しか欲しないだろう。おそらく、あいつは素で『ジネットの方が美しい』と思っているはずだぞ。あんな王女なぞには負けないから自信を持て」
「キュリアクリス様……」
見上げると、彼が楽しそうにこちらを見ていた。
力強い言葉に、ジネットの心がじわりと熱くなる。
「しかし……ジネットにもついにそんな感情が芽生えたのだな?」
「芽生えた……?」
「ああ。だって、先ほど舞踏会が始まる直前までは、そんな気配はみじんもなかっただろう?」
そういえば確かに、キュリアクリスに聞かれた気がする。
『しかしジネットはよかったのか?』
と。
「あ……」
(確かにあの時は、おふたりの姿を見てこんなに胸が苦しくなるなんて、夢にも思っていませんでした……)
それがまさか今、こんな風になるなんて。
戸惑うジネットをあやすように、キュリアクリスがまたジネットの頭をぽんぽんと撫でた。
「なに、嫉妬はおかしなことではない。むしろ嫉妬する方が自然だ」
「自然……。では、キュリアクリス様も、クラウス様に嫉妬したりするのですか?」
言って、ジネットはじっと目の前にいるキュリアクリスを見つめた。
彼はいつもジネットを妻に、と望んでくれている。
だがそれと同時に彼は、クラウスとジネットの仲睦まじい様子に怒る時ですら、そんな強い感情を覗かせたことはないのだ。
「ほう?」
だがその瞬間、ふっとキュリアクリスの雰囲気が変わった。
いつも人を食ったような笑みを浮かべ、余裕たっぷりだった彼の表情が、消えた。
「もしかして……ジネットには私の気持ちがまったく伝わっていなかったのか? 求婚も、小説の登場人物のような、記号的なポーズだと思われていたと?」
肉食獣を思わせる鋭い瞳に、ジネットがあわてて否定する。
「そそそ、そんなことはまったく言っていません!」
人を圧倒する気迫をたたえたまま、キュリアクリスが一歩ずいと前に進み出る。
「嫉妬なら、数えきれないぐらいしたとも」
欄干に追い詰められたジネットは、だらだらと冷や汗を流しながら迫りくるキュリアクリスを見つめていた。
「お前たちが婚約者として仲睦まじくダンスを踊っている時。お前たちが同じ馬車で、同じ家に帰っていく時。そしてお前たちが人々に祝福されながら、口づけをしている時――そのどの瞬間にも、私が嫉妬をしなかったと?」
「そういう、わけでは……!」
「聞け。ジネット」
キュリアクリスの接近を阻もうと上げた手を、彼にぐいと捕まれる。
「どの瞬間にも、私は激しく嫉妬した。暴れる心臓を押さえ、荒くなる呼吸を押さえ、そして奥歯をこれでもかと噛んで耐えていただけだ」
息がかかりそうなほど顔が近くなり、ジネットはごくりと息をのんだ。
「なぜ私が、そこまで感情を押し隠していたと思う?」
「く、クラウス様のお友達だからですか……!?」
「違う」
すぐさま否定された。
「私が私だからだ」
ジネットはその答えを一生懸命理解しようとした。
「キュリアクリス様だから……? えっと……それは王族として、感情を表にだしてはいけない、ということですか……?」
恐る恐る答えると、なぜかその瞬間、キュリアクリスはふっと笑った。
それは子供をあやすときのような、優しい瞳だった。
「……それも違うな」
「……?」
「もし私が本気で嫉妬の感情を覗かせれば――ジネット、お前はきっと今のように困っていただろう」
「それは、きっと、そうだと思います……!」
キュリアクリスのふざけているような、戯れている雰囲気だからこそ、ジネットは困りながらも〝友人〟として付き合ってこれた。
だが、もし皇子である彼が本気の感情をジネットにぶつけてきていたのなら。
(……きっと今のような関係は保てていなかったに違いありません)
「私は王族だ。欲しいものは奪い取る。祖国ではそうしてきたし、最初はジネットのこともそのように奪うつもりだった。……だが」
そこで彼はいったん言葉を切った。
「そばで見ているうちに気づいたんだ。クラウスを見て笑っている時だけ、お前は特別な笑い方をする、と」
特別な笑い方。
その言葉がピンとこなくて、ジネットはぱちぱちと目をしばたたたかせた。
「楽しそうなだけではない、どこか恥じらいと隠れされた喜びを含んだ笑顔は、私には決して見せることはない笑顔だろう。だがもし私が本気を覗かせれば、その笑顔はきっと失われる。――その時に気づいたんだ。私は好きな女から笑顔を奪うようなことは、したくないのだと」
キュリアクリスの長い指が、さらりとジネットの髪をすくった。
「キュリアクリス、様……」
そのまま、髪に口づけられる。
思ってもみなかった告白に、ジネットはどうすればいいかわからなかった。
今まで何度も求婚されてきたものの、こんなに切羽詰まった、真剣みを帯びたキュリアクリスは初めてだったのだ。
「……ほら、やっぱり困った顔をしただろう? まいったな。こんなことを言うつもりではなかったのだが」
そう言って困ったように笑ったのは、キュリアクリスの方だった。
「わたし」
「それ以上は言うな」
何かを言おうとしたジネットを、キュリアクリスが遮る。
「わかっている。それに先ほども言っただろう? 私はお前の笑顔を奪いたいわけではない」
それからふっと後ろに視線をやったかと思うと、彼は言った。
「そうこうしているうちに、お姫様がやって来たな」
言って、パッとジネットから離れていく。
(お姫様?)
「ジネット!!!」
それが何か思い至る前に、クラウスの大きな声が聞こえてきた。